映画『ヒトラーの毒見役』を鑑賞しての備忘録
2025年、イタリア・ベルギー・スイス合作。
123分。
監督は、シルビオ・ソルディーニ[Silvio Soldini]。
原作は、ロッセラ・ポストリノ[Rosella Postorino]の小説『ヒトラーの毒見役[Le assaggiatrici]』。
脚本は、ドリアーナ・レオンデフ[Doriana Leondeff]、シルビオ・ソルディーニ[Silvio Soldini]、ルチオ・リッカ[Lucio Ricca]、クリスチナ・コメンチーニ[Cristina Comencini]、ジュリア・カレンダ[Giulia Calenda]、イラリア・マッキア[Ilaria Macchia]。
撮影は、レナート・ベルタ[Renato Berta]。
美術は、パオラ・ビッツァーリ[Paola Bizzarri]、イゴール・ガブリエル[Igor Gabriel]。
衣装は、マリナ・ロベルティ[Marina Roberti]
編集はカルロッタ・クリスティアーニ[Carlotta Cristiani]とジョルジョ・ガリーニ[Giorgio Garini]。
音楽は、マウロ・パガーニ[Mauro Pagani]。
原題は、"Le assaggiatrici"。
1943年11月。東プロイセンのパルチュ。ローザ・ザウアー(Elisa Schlott)が荷物を手に夫グレゴール(Nicolas Handwerker)の実家に辿り着く。菜園で作業していたヘルタ(Esther Gemsch)が義理の娘であるローザに気付く。列車の旅は? 長かった。駅からバスに乗ったの? 便がなくて。じゃあ、どうやって? 歩いたわ。迷ったけど。運良く馬車が拾ってくれた。お母さんは残念だったわね。父の隣で眠ってます。ローザが倒れる。ヘルタが何とか支え、家に連れて行く。何か食べないと。街には食料が無いの。
ローザがグレゴールの部屋に通される。ヘルタがクローゼットに服をしまうように促す。彼から手紙は? あなたは? 1ヶ月前、ここの方が安全だって。ベルリンとは違うわ。ローザが旅行鞄からグレゴールとともに撮った写真を取り出し眺める。ベッドサイドにはグレゴールの写真が飾られていた。時計は16:30を指している。
ローザが義母ヘルタと義父ジョゼフ(Nicolas Handwerker)とともに食事を取る。私たちが義務を果たせば勝利するってラジオで言ってたわ。グレゴールも帰って来る。森が有刺鉄線と見張りの兵士で立ち入れないのは何故? 知らなくていいわ。総統の司令部があるんだ。総統はベルリンにいないの? ここに移って2年。森の半分が破壊されてしまった。時折、鐵道で出て行っては戻る。列車が通るから分かる。ほとんどの食料を差し出した。総統のためだから仕方ないわ。あなたは仕事を探さないと。男たちは前線で体を張ってるんだからね。ずっと働いてきたわ。ここには秘書の仕事なんてないの。
ベッドに横になるローザ。グレゴールの写真に語りかける。どうして手紙をくれないの? 約束したのに。そのとき列車の走行音が室内にまで響き亘った。
朝を迎える。起き上がったところへ、ヘルタがノックして部屋に入って来た。兵士が来てるの。グレゴールのことで? 何にも言わないの。下で待っているわ。着替えなさい、待たせないで。
ローザが着替えて階下に降りると、親衛隊員(Nicolo Pasetti)が待っていた。ローザ・バウアー? はい。身分証を。夫の身に何か? ご同行を。家の前の道に軍用トラックが駐まっていた。どこへ? 心配しないで。兵士に促されてトラックに乗ると、女性ばかり6人ほどが先に乗っていた。どこに行くか知ってる? 隣に坐る女性(Emma Falck)に尋ねられる。いいえ。レニ、黙ってて。別の女性に窘められる。7人の女性たちは黙ってトラックに揺られた。
トラックは司令部の前に停まった。7人の女性は降ろされ、兵士たちに建物の中に連れて行かれた。恐る恐る入って行くと、コートを脱ぐよう促される。レニ・ブルンナー。 名前を呼ばれたレニがボディチェックを受けて奥へ通される。ザビネ・グロス(Kriemhild Hamann)、ハイケ・ノイマン(Olga von Luckwald)、アウグスティネ・ポーラー(Thea Rasche)と次々に呼ばれる。
検査のため順番に採血が行われる。なぜ検査を? 健康かどうか確かめる必要がある。ウラ・リヒター(Berit Vander)が呼ばれる。ローザはエルフリーデ・クーン(Alma Hasun)とともに採血を受けた。
検査を終えた7人が通された部屋には、意外にも手の込んだ料理の並ぶテーブルが置かれていた。坐りなさい。食べられるの? レニが思わず顔を綻ばせる。もちろん。空腹ではないのか? シェフ(Boris Aljinovic)が冷めないうちにと女性たちに食べるよう促した。
ベルリン在住のローザ・ザウアー(Elisa Schlott)は秘書として働いていた際、職場でエンジニアのグレゴール(Nicolas Handwerker)と恋に落ち、結婚する。しかし程なく夫は兵役でソ連に送られてしまう。1943年10月の爆撃で母を失ったローザは、5年前に父も心臓発作で他界していたため、翌月、夫の勧めで東プロイセンのパルチュに暮らす義母ヘルタ(Esther Gemsch)と義父ジョゼフ(Nicolas Handwerker)とを頼る。ある朝ローザは親衛隊員のギュンター・ハルダー(Nicolo Pasetti)の訪問を受け、森の中に築かれたる総統の司令部「狼の砦」に、レニ・ブルンナー(Emma Falck)、ザビネ・グロス(Kriemhild Hamann)、ハイケ・ノイマン(Olga von Luckwald)、アウグスティネ・ポーラー(Thea Rasche)、ウラ・リヒター(Berit Vander)、エルフリーデ・クーン(Alma Hasun)ととも連行される。健康診断の後、食糧事情の悪い中では例外的に豪勢な食事を振る舞われる。喜んで口にすると食後1時間は離席してはならないと命令される。シェフのクリューメル(Boris Aljinovic)が総統に出す料理の毒味役を担わされたのだった。
(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)
総統の食事の毒味役に選ばれたのは、未婚か、未亡人か、夫が戦地に送られたパルチュの若い女性たちだった。ローザは夫の実家に身を寄せていたために例外的にベルリン出身であった。ベルリン空襲で亡くなったローザの母親は仕立師で、ローザは母の手製の洒落た服を着ている。若い未婚のレニはそんなローザに興味津々だが、地元の女性たちは都会から着たローザに憧れと劣等感とが綯い交ぜになった反感を僅かに抱いている。
ローザは愛する夫を戦地に送られ、母親を爆撃で失った。教師で政権に反抗的だった父親の影響もあり、戦争そのものや戦争に邁進する総統、総統や組織に唯唯諾諾と従う男たちに反撥する。
毒味役の女性たちが総統に会うことはない。それでもシェフのクリューメルを通じて総統の人となりが明らかにされる。犬を可愛がり、食肉処理場の経験から肉食を避ける総統が、大量の殺戮を行っていることのコントラストが会話の中で浮かび上がる。
銃後の女性の性が実は本作の柱である。未婚のレニは性交渉に興味津々。ハイケはカール不在の家庭を手伝うエルンスト(Philipp Seppi)と関係を持つ。ローザはグレゴールとの新婚生活――性愛の喜び――を奪われ、独り寝のベッドで夫の写真を見ながら自ら欲求を解消する。
「産めよ殖やせよ」と呼号したのは、もちろん親衛隊だけではなかった。ヒトラーはすでに「わが闘争」のなかで、結婚は「種と人種の増加と維持というより大きな目標」に奉仕するものでなければんらないと説いていた。「この点からしてすでに、早婚は正しい。それは若い夫婦に、健康で抵抗力のある子孫を産むのに不可欠な力を与えるからである」。
結婚を奨励し出生率の向上をはかるため、ナチ党は政権獲得直後から財政上・宣伝上の施策を推し進めた。(略)1938年12月には、多産の母親たちを表彰するため、「ドイツ母親名誉十字勲章」が創設された。「出産戦争」で輝かしい成果をおさめた母親たちの「功績」は、民族と祖国を守るために挺身した兵士たちのそれに等しいとされたのである。
(略)
子供のできない夫婦は離婚して新しい家庭を築くべきだという要求が、1938年7月の離婚法改正を後押しした。新たな法律のもとでは、3年以上別居していることや子供ができなことも離婚の原因として認められるようになり、事実上破綻した結婚を法的に解消することが容易となった。(略)
(略)
未婚の母と子の問題は、進歩的な性道徳の擁護者をもって自認する総統のお気に入りのテーマだった。彼にとって重要だったのは、女性が子供をつくることであり、彼女が結婚しているかどうかなど、副次的な問題にすぎなかった。(田野大輔『愛と欲望のナチズム』講談社〔講談社学術文庫〕/2024/p.88-91)
総統の方針からは当然、堕胎などもってのほか、ということになる。親衛隊を管轄したハインリヒ・ヒムラーは5年内に子供のできない夫婦は離婚させる婚姻法改正を企図し、さらには多婚制も導入しようとしていた。
(略)1943年5月、彼は側近に総統が戦後婚姻法を改正し、戦争功労者に重婚を認めることを決定したと伝えた。勇敢な戦士たちに2人の妻を認めれば、産まれる子供はずっと増えるし、妻たちも競って夫の気に入るようつとめるだろう。重要なのは、彼らが「最上質の子供を世に送り出す」ことであった。(田野大輔『愛と欲望のナチズム』講談社〔講談社学術文庫〕/2024/p.98)
義父母の家に身を寄せたローザの許に夫グレゴールから待望していた手紙が届く。妻が愛している限り死ぬことはないと記されていた。
戦争末期になると、若者のみならず、夫婦や恋人同士の関係にも深刻な影響があらわれはじめた。激化する戦火のなか、人々の間では「あらゆる機会をとらえてお祭り騒ぎをしようという渇望」が強まり、空襲によって破壊された、町の住民が燃えさかる瓦礫の前で踊り狂い、抱き合ったりする光景も見られるようになった。親衛隊保安部の1944年4月の法報告はとくに一部の女性に見られる「不道徳な行動」に注意を喚起している。労働動員や疎開・避難によって生活秩序が大きく変化する一方、長期にわたって夫や恋人から引き離され、短い休暇の間しか一緒に過ごせなくなった多くの女性たちは、日々のストレスや寂しさをまぎらわそうと、一時的な快楽を求めることが多くなった。その結果、「相当数の女性と少女がますます性的放縦に走る傾向を強めている」。このことはとくに「兵士の妻たち」に顕著で、彼女たちはあちこちの酒場で男たちと出会い、ゆきずりの関係に身をゆだねている。報告はこうした「道徳の弱体化」の原因として、女性たちの性的欲求不満に言及している(略)
こうした銃後の状況に、前線の兵士たちは子心をかき乱された。「兵士の妻たちの不貞が前線の夫たちに与える影響は、とくに深刻と見なされなければならない。夫たちは妻の素行を隣人から聞いて、ひどく不安になっている。自分たちが前線で戦っている間、家族の秩序を維持することができない国家の責任を問う声が多く聞かれる」。だが女性の側にしてみれば、男たちが駐屯地や占領地で浮気をしているのだが、自分たちにも同じように楽しむ権利があると考えるのも無理はなかった。とくに空襲が日常化すると、「この世のわずかな喜び」でも享受しようとする女性の行動が目立つようになった。(略)戦火のなかで生きる女性たちにとって、旧来の硬直化した道徳規範など何の意味ももたなかった。彼女たちの放埒な行動は、まさに「生への渇望」の表現だったからである。
ローザはレニに男性と関係を持つことについて問われ、愛している相手ならいいものだと答える。相手を求めているからこそ性交渉に充足感を得られるのである。
翻って、毒味役の女性たちは飢えに瀕している。総統に出される食事は戦争末期の家庭の食生活に比べて格段に良いものが提供される。だが飽くまで毒の混入の検査であり、口にしないことは許されない。口にスプーンを押し込まれ、銃を突き付けられてまで摂取させられるのだ。食事はセックスのメタファーである。