本 木村洋『「蒲団」の時代 自然主義とは何だったのか』(新潮選書/新潮社/2026)を読了しての備忘録
目次
はじめに
第1章 父と子の劇場(1893~1906年)
1 明治日本の分断
2 不健全なる北村透谷
3 高山樗牛のニーチェ主義
4 藤村操の自殺と綱島梁川
第2章 不思議なる宇宙(1906年)
1 厭世自殺の馬鹿青年
2 国木田独歩『独歩集』『運命』
3 島崎藤村『破戒』
第3章 野獣と悪魔(1907年)
1 田山花袋「蒲団」
2 正宗白鳥と真山青果
3 評論の自然主義
第4章 文士の天下(1908年)
1 発禁問題
2 博文館、『中央公論』、新潮社
3 偉人化する文学者
第5章 真摯に告白せよ(1909~1910年)
1 告白小説の流行
2 前進する個人主義
3 自然主義対政府
第6章 破壊の後で(1910年代)
1 自然主義の円熟
2 古い悴と新しい悴
3 文化と共同体
あとがき
註
1906年から1910年にかけて発行された主要新聞の記事から自然主義に関連する記事を拾い、高等教育の普及と軌を一にする活字メディアの隆盛を背景に、旧世代の為政者・思想家・教育家が固執する「道徳」に対し、厭世、煩悶、性慾、本能といった「自然」をぶつけ揺さぶりをかけた1865年以降生まれの文学者たちの姿を浮かび上がらせる。メディアを賑わす文学者たちが政治家や軍人と並ぶセレブリティに成り上がったからこそ、私生活を暴露する「私小説」が多くのフォロアーを獲得できたことが詳らかにされる。
維新以降に推進されてきた近代化が、日清・日露戦争の勝利によって達成されたとの認識が生まれるとともに、日露戦争後の時期には、国家や社会の中軸を担った世代の交代が促進され、第二世代(新世代)の登場が印象づけられる。「民衆」の登場も含め、日露戦争後はひとつの画期として、歴史的にも、同時代的にも、認識されていた。(成田龍一『シリーズ日本近現代史④ 大正デモクラシー』岩波書店〔岩波新書〕/2007/p.ⅲ)
国木田独歩(1871-1908)の作品は当初人気が無く、一流の文芸誌に載ることはほとんどなかった。ところが『独歩集』と『運命』で漸く評判を得る。
(略)独歩の小説の主人公たちは口々に世界や自己の「不思議」さを言い立て、ひいては社会のさまざまな価値観を非自明化する。
とりわけ「悪魔」(『運命』)という短編には、「不思議」という言葉が17回出てくる。その主人公の若者は手記のなかで、世界や自己の「不思議」さをしつこく訴えずにはいられない。「我黙して山上に立つ時、忽然として我生存の不思議なるを感ず、此時に於て『歴史』なく『将来』なし、ただ見る、我が生命其者の此不思議なる宇宙に現存することを」。
「悪魔」だけではない。「牛肉と馬鈴薯」には「不思議なる宇宙を驚きたいというふ願」をもつ著述業の主人公が出てくる。「湯河原より」(『独歩集』)の主人公は「不可思議なる大宇宙」に心を寄せる男だったし、「春の鳥」(『独歩集』)の語り手も「人生不思議の思」に浸されている。
このように「不思議なる宇宙」に思いを馳せる視野のなかで、周囲をとりまく世界は確かな根拠を失い、人間や社会への懐疑が昂ぶっていく。「人は愚と悪と肉塊のみ、美とは空名のみ、愛とは動物の発作のみ」という「悪魔」のくだりが、その様子を指し示す。「牛肉と馬鈴薯」で主人公が「忠君愛国」の側につく俗物(綿貫という男)と対立することも、この文脈で目を引く。「不思議なる宇宙」という、国家のはるか上位にある極大の時空間に思いを馳せる視野のなかで、国家は自分の人生にとって縁遠いものでしかない。「湯河原より」の苛烈な言葉もこの傾向に連なる。主人公はそこで社会道徳を激しく攻撃する。(木村洋『「蒲団」の時代 自然主義とは何だったのか』新潮社〔新潮選書〕/2026/p.76-77)
独歩以前に厭世・煩悶を描いた作品が無かった訳では無ないが、むしろ厭世家に対する不賛同を示すか、新奇さを取り繕うものであった。それに対し独歩の煩悶は真に迫り、若い読者の共感を得た。『破戒』などで知られる島崎藤村(1872-1943)もまた独歩の愛読者であった。
『破戒』にはどのような表現意識が抱かれていたのか。手がかりになるのが、〔引用者補記:作中人物で「穢多」を告白する著述家〕猪子の『懺悔録』について述べた、「面白く読ませるといふよりも、考へさせる方だ」(20頁)という地の文の言葉である。この言葉こそは『破戒』を強固に支える執筆方針を示した自己解説だったと見られる。国木田独歩の目指す小説のありかたとの一致をここに見てとれる。先に見たように、独歩は「面白く読ます」流行小説を不満に思い、「思はしむる」小説を書くことを目指した。(木村洋『「蒲団」の時代 自然主義とは何だったのか』新潮社〔新潮選書〕/2026/p.92)
『破戒』に1865年以降生まれの読者たちは他人事とは思えない、自分の似姿を見出した。
『破戒』は「子」の世代〔引用者註:1865年より前に生まれた「父」の世代に対し、1865年以降に生まれた世代を指す〕の心を揺さぶる力を備えていた。『破戒』の全578頁の大半が〔引用者補記:『破戒』の主人公〕丑松の煩悶で埋められるような筆の細密さに、読者は驚いた。青年の苦しみを写す『破戒』の表現が強い印象を残したことは、当時の評からわかる。
「『破戒』の一篇は、『独歩集』が地ならしを為た処へ出たので、彼の新しい思想新しい苦悶を抱く一団の人々に、段取り善く迎へられた。自分達の胸を搔き揺るやうな、又は同じ苦悶を擁いで居る自分を更にまのあたり見せて呉れられた様な気がして、『破戒』は全く当時の思想そのものを具体的に作と為て見せた趣があつた」(太田水穂「小説界に於ける時代の創始者」『文章世界』1980年6月)。(木村洋『「蒲団」の時代 自然主義とは何だったのか』新潮社〔新潮選書〕/2026/p.95)
独歩や藤村に続くのが『蒲団』を著わした田山花袋(1872-1930)である。
「蒲団」は時雄という妻子ある小説家を主人公に据える。時雄は神戸女学院を出た小説家志望の芳子を弟子にとり、自宅に住ませる。妻との生活に倦んでいた時雄は、芳子を慕うようになる。芳子は時雄に好意を寄せるそぶりを見せた。だが芳子は同志社の学生と交際し始め、ひそかにこの男と肉の関係を結んでいた。時雄はそのことを尻、芳子をその父親に託して、一緒に郷里に帰らせた。結末のところで時雄は芳子の使っていた蒲団に顔を埋めて涙を流す。よく知られているように、これは花袋自身の体験を告白したものだった。
「蒲団」の冒頭のくだりが関心のありかをよく表わしている。
「数多い感情づくめの手簡――2人〔時雄と芳子〕の関係は何うしても尋常ではなかつた。妻があり、子があり、世間があり、師弟の関係があればこそ敢て烈しい恋に落ちなかつたが、語り合ふ胸の轟、相見る眼の光、其底には確かに凄じい暴風が潜んで居たのである。機会に遭逢しさへすれば、其の底の底の暴風は忽ち勢を得て、妻子も世間も道徳も師弟の関係も一挙にして破れて了うであらうと思はれた」。
「凄じい暴風」と言われるものは、個人を縛りつける社会道徳や社会秩序を超えた危険な力の働きを指し示す。「蒲団」がくりかえし訴えるのは、この超道徳的な力の働きが人間という生き物を奥深く支配しているということだった。
(略)
「蒲団」は「自然の力」などと言われるこの超道徳的な主体性の発動を、数々の禍々しい描写をつうじて確かめる。とりわけ超道徳的な主体性に駆り立てられる人間の姿を象徴するものとして、匂いを嗅ぐ動作がある。(木村洋『「蒲団」の時代 自然主義とは何だったのか』新潮社〔新潮選書〕/2026/p.110-112)
「自然の力」すなわち「性慾」の描写を試みたのは花袋に留まらない。花袋の革新性は、告白を手段とした人間研究であった点にある。
この論争的な物語にいっそうの衝撃を加えるのが、告白という手立てである。花袋は「蒲団」で自分の体験を打ち明けた。地理書の編集に携わる30代半ばの小説家という作中の情報から、主人公が花袋その人だとわかる。(略)
(略)
自分の社会的地位や周りの迷惑をもかえりみない、この攻撃的とも強引とも言える発話の構えが、社会道徳に縛られない新たな表現主体のあり方を鮮やかに印象づけた。(略)花袋は道徳や習俗を破ることも厭わない斬新な発話態度をつうじて、近代人たる自己を公衆の面前に展示した。「蒲団」は内容(性欲描写や野獣じみた主体像)と方法(告白)の両面で、先端的な文学のあり方を誇示した。(木村洋『「蒲団」の時代 自然主義とは何だったのか』新潮社〔新潮選書〕/2026/p.115-116)
以後隆盛する告白小説はしばしば政府による発禁処分の対象になる。
もちろん告白小説もさまざまだし、楽屋落ちや身辺雑記にすぎない作例も目につく。だがそれとともに、これまで見たような数々の不穏な告白小説が世を騒がせていた。告白小説は厭世に好意を寄せたり、社会道徳から外れた男女関係を正当化したり、本能主義を言い募ったり、周りの人間の秘密を暴いたりし、保守派論客や政府や世間から反感を買う性質を帯びていた。この新興の表現には、文学者の放縦な思想や欲望を描き出すことで、国民統合をよしとする価値観に戦いを仕掛ける役割が宿っていた。告白小説をたんに非社会的な読み物と捉えるこれまでの見方は、告白小説の帯びていた、この不吉で禍々しい魅力を見逃している。(木村洋『「蒲団」の時代 自然主義とは何だったのか』新潮社〔新潮選書〕/2026/p.202)
告白小説が一世を風靡する背景には、高学歴者の増大と雑誌の普及により、文学者が政治家や軍人と並ぶ公人として扱われるようになったことがある。象徴的なのは1907年に時の首相・西園寺公望が文士招待会を催し、1908年の独歩の死に際し新聞・雑誌が追悼記事・追悼特集を盛に行ったことである。
(略)自然主義はとくに1908年頃の発禁問題をつうじて、社会のすみずみに知れわたるほど社会を騒がせた。さらに進取の気象に富んだ出版人や雑誌社が文学や自然主義の隆盛を支えた。この風潮に連なるかたちで、多くの新聞や雑誌は文学者を、政治界の偉人などと並べる新式の偉人として見いだした。(略)
(略)むしろ文学者の生活や思想が社会的、公的な意味を帯び始めたからこそ、文学者や思想を描くことによしとする小説が可能になったのではないか。(木村洋『「蒲団」の時代 自然主義とは何だったのか』新潮社〔新潮選書〕/2026/p.188)
「むしろ文学者の生活や思想が社会的、公的な意味を帯び始めたからこそ、文学者や思想を描くことによしとする小説が可能になった」に得心が行く。
まずは、『東京騒擾画報』(第66号、1905〈明治38〉年)を開いてみょう。日露戦争のさなかに刊行されていた『戦時画報』の「臨時増刊」である。B4判のグラフ誌で、国木田哲夫(独歩)が編集主幹となっている。巻頭には「巡査派出所焼打ちの実況」の図が掲げられている。モノクロだが、「群集」が派出所を壊し、その残骸に火をつけ気勢を上げている様子が描かれる。(成田龍一『シリーズ日本近現代史④ 大正デモクラシー』岩波書店〔岩波新書〕/2007/p.2)
独歩の短篇「悪魔」に見える「我黙して山上に立つ時、忽然として我生存の不思議なるを感ず、此時に於て『歴史』なく『将来』なし、ただ見る、我が生命其者の此不思議なる宇宙に現存することを」という虚無的な記述には、大量の戦没者・傷病者をもたらした日露戦争の惨禍がある。換言すれば、自然主義は日露戦争の落とし子であった。
独歩の「我生存の不思議」の先にあるのが、綱島梁川(1873-1907)の日露開戦後の神秘体験である。
(略)梁川は1904年の夏から11月に3度神を見るという体験をした。その3度目のもっとも強い体験は、夜に筆を執って何ごとかを書いているときに起きた。
「唯だ忽然はつと思ふやがて今までの我が我ならぬ我と相成り、筆の動くそのもまゝ、墨の紙上に声するそのまゝ、すべて一ゝ超絶敵不思議となつて眼前に耀き申候。この間僅かに何分時といふ程に過ぎずと覚ゆれど、而かもこの短時間に於ける、謂はば無限の深き寂しさの底ひより、堂々と現前せる大いなる霊的活動とはたと行き会ひたるやうの一種のShocking錯愕、驚喜の意識は、到底筆舌の尽くし得る所にあらず候」(『病間録』375-376頁)。
そのうえで梁川はこの体験を、「神我の融会」、「我即神となりたる」ものと言い表す(379頁)。「超絶敵不思議」「無限の深き寂しさ底ひ」などの厳かな文字列をつうじて、長年にわたり病で肉体が侵されてきた人間が、ひたむきに救済への手がかりをつかみとろうとする様子が綴られる。「我即神となりたる」という一種奇矯で、論争的な内容は、理解しがたいものと咎められた。だが同時に、やみがたい救済への願いに彩られたこの体験録は、時代の悩みと共振することで、明治の「倅」たちのあいだに強力な浸透力を備えた(のちにその反響をとりあげる)。(木村洋『「蒲団」の時代 自然主義とは何だったのか』新潮社〔新潮選書〕/2026/p.58-59)
綱島梁川の生涯は短かったが、ヒルマ・アフ・クリント[Hilma af Klint](1862-1944)との同時代性を思う。