展覧会『2人展 会田誠・岡田裕子』を鑑賞しての備忘録
カスヤの森現代美術館にて、2026年5月30日~8月16日。
白い画面に不揃いの矩形を繋げ並べた絵画「直角、手描き、黄色」シリーズと、制作途上の絵画《混浴図》3点(各2180mm×3330mm)とを出展する会田誠と、霊媒師の如く岸本清子・林三從・山崎つる子に会話させるオーディオドラマを中心としたインスタレーション《井戸端で、その女たちは》を出品する岡田裕子との二人展。
会田誠が会期中に制作を進めた《混浴図》3点(各2180mm×W3330mm)は、湯船に浸かる多様な人々で埋め尽くされる。ドナルド・トランプアメリカ大統領がふんぞり返っていると思えば、アドルフ・ヒトラーとマザー・テレサとが並ぶ。乳房を切除した女性がて、『カーマ・スートラを読み込む少年がいる(湯中りしそうだ)。酩酊したピーポくんがは男性と少女とに支えられている。C-3POは慧可を気取って達磨に腕を差し出す。唐傘小僧などの妖怪も跋扈する。ウィング型のワインオープナーは付喪神か。時代・場所も、有名か無名か、果ては実在か非在かも超えた様々な人物・キャラクターが同じ湯に浸かっている。分け隔て無いことが重要である。
《混浴図》の公開制作が行われる展示室の脇にある階段を上がると、ヨーゼフ・ボイス[Joseph Beuys]の常設展示室がある。会田誠は以前、都市論をテーマとした個展「Ground No Plan」において、未来のヴィジョンを示す導師的存在でったボイスに扮し、現在では美術家はボイスのような役を果たせないと嘆いて見せた(《アーティスティック・ダンディー》)。ボイスには神話的なエピソードが付いて回る。
(略)1970年代になってからのボイスは、より露骨に、自らの戦争体験を起源として位置づけ、神話化していった。つまり、脂肪とフェルトを用いるきっかけをつくったあの有名なエピソード、クリミア半島上空で撃墜され、瀕死の重傷を負ったボイスが、通りがかりの現地民に保護され、一命を取り留めたというタタール人の伝説である。真偽をめぐる疑義が多く呈されながらも、そのエピソードは、彼の造形理論がもつ治療的効果についての分かりやすいイメージを提供してくれるだろう。(福元崇志「ボイス以後のボイス」鈴木俊晴他編『ボイス+パレルモ』マイブックサービス/2021/p.25)
《混浴図》の湯の色は、ボイスの作品に登場するフェルトの灰色と脂肪の黄褐色とに近い。のみならず、フェルトと脂肪は治療具であり、治癒という点で湯治にと通じる。さらに色味からトトロと結び付けてみたい。トトロのふかふかなお腹は温泉のように心地よく、治癒効果があるに違いない。
トトロのお腹の上で眠りたい。これって、人間の究極の夢じゃないだろうか。妄想ではなく、かなり現実的な感覚の気がする。どこまでも柔らかくて、温かい。でも、しっかりと支えてもらっている実感もある。微かに陽だまりの匂いがして、その匂いと温もりに身体が包まれている(どうです、究極でしょ。人間が想像する究極の寝心地、理想の寝場所だと思いませんか)。誰からも傷つけられず、誰も傷つけなくてすむ。それを保障してくれる場で、人はやっと本物の眠りを手に入れられる。(あさのあつこ「眠ること」『図書』第923号〔2026年8月〕)
翻って《混浴図》の温泉は、治癒の場であり、「誰からも傷つけられず、誰も傷つけなくてすむ」場ではなかろうか。例えば国境のような架空の線によって分断された世界を繋ぐ場である。
〔引用者補記:杉本博司の「海景」《カリブ海、ジャマイカ》において〕水平線は、はっきりと分かれているものもあれば、淡いグラデーションで境界がはっきりとしないものもある。しかし、たとえ境界が明確に見えるときも、それは人間の認識においてそのように見えるのであって、海と空のあいだには水蒸気のやりとりが常に行われており、海には空気が、空には水が混じっている。つまり私たちが「境界」と呼ぶものは、実は絶えざる物質交換の場であり、固定された線などそもそも存在しない。(鈴木健「あわいの水平線 杉本博司の時間について」『ユリイカ』第58巻第7号〔2026年6月〕/p.125)
《混浴図》は絵空事であり、ユートピア(ギリシャ語の「無い[οὐ]」「場所[τόπος]」に由来)である。同様にあらゆる境界もまた絵空事である。
(略)古来人間にとって、死は絶対悪ではなく、病も悪ではなく、病と共に生きることも含めての死生観、生存観のようなものを持っていたのではない。田辺〔引用者補記:元〕の「死の哲学」もまた、死を忌避するのではなく、死が生を媒介するような形で生きること、死者とのあいだの相互的な関係を持つことを説く。(略)
生きていることは仮の姿である。生きていることは仮象である。生きているということは死につつあるということである、そう捉えれば生とは苦かもしれない。しかし死後に三十三間堂の菩薩らが集合するような慈悲の世界に行けるのだとしたら、いや生きているときにもすでにあの世界を垣間見ながら生きているのだとしたら、仮象の世界であっても、ここには尊厳というものが生まれるのだろう。生も死もない、現在にしか依拠していない現代の我々は、何にもまなざされない、ただ、いまの自分たちのためだけの「個別的な生」を生きている。(中村佑子「個と類と、杉本博司」『ユリイカ』第58巻第7号〔2026年6月〕p.63-64)
岡田裕子《井戸端で、その女たちは》は、井戸とグラスをセットしたテーブルとを設置した展示空間で、岸本清子、林三從、山崎つる子という3人の女性美術家の先達の霊媒となった作家が、架空の会話を展開するインスタレーションである。男性作家たちの中で作家活動を行うことの苦労や、前衛的な活動が家族に受け容れられない悲嘆が開陳される。女性の先覚者の思いを吐露させることで成仏させる夢幻能的作品と評し得る。井戸という水場は死者と生者(鑑賞者)とが出会うあわいである。
「あわい(間~」とは、単なる中間ではない。曖昧な場所、というだけでもない。複式夢幻能で、あの世(異界)とこの世が混じり合った領域と時間が「あわい」である能楽者の安田登はいう。あわいとは、異なるものが異なるまま接触し、互いに浸透し、しかし完全には同一化しない混じり合った領域のことである。(鈴木健「あわいの水平線 杉本博司の時間について」『ユリイカ』第58巻第7号〔2026年6月〕/p.125)
「異なるものが異なるまま接触し、互いに浸透し、しかし完全には同一化しない混じり合った領域」を舞台とする点で、《混浴図》の湯船と《井戸端で、その女たちは》の井戸端とは共通するのである。