可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 杉本博司個展『海景 江之浦 2022-2026/前写真、時間記録装置』

展覧会『杉本博司「海景 江之浦 2022-2026/前写真、時間記録装置」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー小柳にて、2026年7月4日~9月12日。

船の出ていない元旦の相模湾を空と海とを水平線で等分するように撮影した「海景」シリーズと、化石を天然の記録装置として撮影した「Pre-Photography Time-Recording Device」シリーズとで構成される、杉本博司の個展。

(略)子供の頃に家族との週末旅行で、真鶴から根府川のほうへ湘南電車で向かう途中に通る、通称「眼鏡トンネル」という旧東海道線のトンネルがあったんですね。正式名称は赤沢隧道といい、非常に大きなコンクリートの側壁があって、片側は海に向かって窓を開けている。隧道に列車が入ると、暗いなかにパッパッとコマ落としのように海が見える。ああ海だな、と思っていると隧道を抜けた途端に、相模湾の大海原がパッと眼下に開ける。それが私の子供の頃の記憶の原点なんです。ああ海だな、と思ったところから、今日も昨日も記憶があるように、毎日の記憶がいまに至るまでつながっていて、自分の意識を遡ることができる。眼鏡トンネルを抜けたところと同じ海原を見晴らせるいまの江之浦測候所という場所が、意図的にそうしようと思ったわけではないのに、導かれるように土地が与えられました。いつの間にか、最初の記憶の眼鏡トンネルの近くまできていたんです。(杉本博司「杉本立体曼荼羅 数寄の生態系をめぐって」『ユリイカ』第58巻第7号〔2026年6月〕/青土社/p.48)

《Bay of Sagami, Enoura》7点(各508mm×610mm)は、2022年から2026年にかけて、作家が自ら設立した文化施設「江之浦測候所」(神奈川県小田原市)から元旦の船の出ていない相模湾を撮影したモノクロームの作品である。中央を走る水平線により上半分の空と下半分の海とに画面は等分される。海面は漣が立ち微細に震え、あるいは沿岸流など流れを思わせる筋が入る。

 ロラン・バルトは『明るい部屋』のなかで、写真に固有の時間様態を「それはかつてあった(ça-a-été)という言葉で捉えた。写真とは不在の証明であり、死の予告であり、過去の亡霊が現在に穿つ傷口である、と。バルトの写真論は深く鋭い。しかし杉本の写真の前に立つとき、その枠組みは半分しか機能しない。
 なぜなら杉本の写真は、「かつてあったもの」を指し示すのではなく、「かつてあったものが、いまもここにある」という不思議な現在形を生きているからだ。「海景」シリーズを例に取ろう。40年以上にわたって世界中の海と湖を撮り続けたこの連作の起点には、「原始人が見ていた風景を、現代にも同じように見ることは可能か」という問いがある。その問いの射程はバルトの死の時間論とは逆方向を向いている。(鈴木健「あわいの水平線 杉本博司の時間について」『ユリイカ』第58巻第7号〔2026年6月〕/青土社/p.125)

《Bay of Sagami, Enoura》7点中、2025年撮影の2点と2026年撮影の2点とは、空が明るく海が暗いものと、上半分の空が漆黒に染まり海が白く浮かび上がるものとの対で並べられている。恰もポジとネガのようだ。

 杉本の「海景」は、ただの風景写真ではなく、認識の脱出装置のようにも見えてくる。私たちは水平線を見るとき、世界を上下に分けている。しかし、その水平線を回転させたらどうなるだろうか。見慣れた境界は、突如として見慣れない通路になる。上下の土所は崩れ、海と空は反転し、身体の感覚そのものがずれていく。
 (略)なんと杉本作品のなかには、すでに「海景」を90度回転させた《Revolution》という作品があるという。これは巨大な作品で、美術館で作品の前を横切ると、海から宇宙に飛び出せるような感覚になるらしい。英語では回転も革命もRevolutionだ。見慣れた水平線も、回転すれば革命になる。革命とは、制度を壊すことだけではない。認知の座標軸を回転させることでもある。世界そのものが変わるのではなく、世界を見る軸が変わる。そのとき、同じ風景が別の宇宙として現れる。(鈴木健「あわいの水平線 杉本博司の時間について」『ユリイカ』第58巻第7号〔2026年6月〕/青土社/p.127)

沢山の扁平な巻貝の化石の残る石を撮影した《P.P.T.R.D. 028》(825mm×660mm)は無数の銀河を思わせる。《P.P.T.R.D. 040》(825mm×660mm)は化石の残る石を凹と凸との2枚に割ったものを並べて撮影してある。重ね合せれば化石が石の中に消えてしまう。物質と反物質のメタファーだ。

 「ニュートリノを知ることは、ミクロの素粒子からマクロの宇宙まで知ること」。素粒子実験を専門とする横山将志・東京大教授は強調する。
 (略)
 背景には風変わりな性質がある。超新星爆発、宇宙線と地球大気の衝突などで発生し、少なくとも地球上では1平方センチあたり毎秒600億個も通り過ぎている。
 だが電気的に中性で、他の物質とはほとんど反応せず、検出が極めて難しい。17種類ある素粒子の関係などを示し「人類の知の最高傑作」と言われた「標準理論」で、その質量はゼロと扱われてきた。
 しかし、梶田隆章・東京大卓越教授らは「スーパーカミオカンデ(SK)」(岐阜県飛騨市)を用い、「電子型」「ミュー型」「タウ型」の3種類あるニュートリノが飛行中に種類を変えると発見。この変身は「ニュートリノ振動」と呼ばれ、質量がなければ起こらない。標準理論に見直しを迫り2015年、ノーベル賞に輝いた。
 02年にノーベル賞を受賞した小柴昌俊・東大名誉教授(当時)らは、SKの先代「カミオカンデ」(同市)で超新星などからのニュートリノをとらえ、宇宙を知る新しい観測手段になると示した。
 今年6月、東大などの国際チームは、超新星爆発で宇宙に蓄積されている「超新星背景ニュートリノ」の兆候を世界で初めてとらえたと発表した。1年間で5個程度しか検出できないまれな現象であり、SKで約5000日分のデータを分析した。超新星爆発は炭素や鉄などの元素を産み出すと考えられている。実験代表者の関谷洋之・東京大准教授は「発見と断定できるよう観測を継続し、星の成り立ちや元素が生まれた仕組みを定量的に解明したい」と話す。(田中泰義「物理学揺るがすニュートリノ」毎日新聞2026年8月17日6面)

恰も赤沢隧道の先に相模湾が開けていたように、素粒子という極小の物質を追っていくと広大な宇宙の極大へと通じる。反対のもの同士が繋がる。綺麗は汚い、汚いは綺麗。オクシモロンは真理であり、そこにシェイクスピアが今日も生きる一端がある。