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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『没後50年 髙島野十郎展』

展覧会『没後50年 髙島野十郎展』を鑑賞しての備忘録
渋谷区立松濤美術館にて、2026年7月4日~9月6日。

髙島野十郎(1890-1975)の回顧展。画業を20点強の作品を通して概観する「プロローグ:野十郎とはだれか」、同時代の画家や同郷の画家の影響を主に戦前の作品に見る「第1章:時代とともに」、画壇から距離を置き生前には評価されなかった作品を愛蔵した人々を紹介する「第2章:人とともに」、留学や国内旅行で描いた風景画を転換する「第3章:風とともに」、作品に仏教その他の思想を読み取ろうとする「第4章:仏の心とともに」、繰り返し描いたモティーフの作品を展観する「エピローグ:野十郎とともに」の6つのセクションで構成される。
蝋燭を繰り返し描く「孤高の画家」とのイメージを払拭して美術史に位置付けることを企図したという章立ては、モティーフ、交流、思想といった異なる切り口を混在させたため晦渋である。なおかつ冒頭と掉尾に繰り返し画業を概観するセクションを設けたことで、その意図を自ら覆してしまったようだ。とりわけ第1会場の地下展示室の展示構成は動線や解説パネルの配置で鑑賞者を惑わせる。時代順の展観の方が良かったのではないか。壁面やキャプションの色分けなど構成をより認識しやすい工夫が欲しい。

髙島野十郎は1890年に福岡県の酒造業者に生まれた。旧制第八高等学校を経て東京帝国大学農学部水産学科に進学。1916年、魚の感覚に関する研究で「恩師の銀時計」授与候補となるが辞退し、画業を選ぶ。1920年代には個展を開催し黒牛会展へ出展する。1930年から1933年にかけてアメリカ、フランス、イタリアなどに洋行し、帰国後は一旦生家に戻った後、上京。戦災で疎開した一時期を除き在京し、東京五輪に伴う開発に伴い千葉県柏市に転居し晩年を過ごした。没後、1980年開催の「近代洋画と福岡県」展(福岡県文化会館)で《すいれんの池》(1949)[009]が注目され、1986年には初の回顧展「写実にかけた孤独の画境 髙島野十郎」(福岡県立美術館)が開催された。以降、没後30年、没後40展、生誕130年など複数の回顧展が現在に至るまで開催されている。

《絡子をかけたる自画像》(1920)[001]は、やや前屈みに正面を見据える上半身像。アルブレヒト・デューラー[Albrecht Dürer]の影響が顕著で、法衣「絡子」から禅宗への関心が窺える。美術史へ位置付け、作品に思想を読み解く本展の趣旨に沿い、冒頭を飾るに相応しい。煙草の煙を吐き出す胸像《煙草を手にした自画像》(戦前)[065]とともに鑑賞者に挑むイメージである。学生時代に描かれた《傷を負った自画像》(1914-1916頃)[059]は首と右臑から出血している点より、異様な目付きのために忘れ難い印象を残す。

静物画《椿とリンゴ》(1918)[028]には障子の前の卓上に椿を挿した花瓶と林檎3個とが於かれる。同じ様な色味の林檎は等間隔で直線的に並ぶ。岸田劉生《林檎三個》(1917)[049]の林檎もまたいずれも同じ色味で等間隔に直線上に並べてあり、影響が顕著である。《りんご》(1935)[040]では3つの林檎の色味が異なり、相互の感覚が等しくなく、なおかつ真ん中の林檎が僅かに手前に出る。ハローキティの体重は林檎3個分だ。林檎3個には秘められた力が潜むのだろうか。
3(個)を意識していると、1つの鉢と2つの茶碗を描く《鉢と茶碗》(1922)[031]あるいは1つの器と2つの林檎を描く《静物》(1925)[035]。また、3輪の白薔薇を描いた《ばら》(1958)[156]や3輪の牡丹を描いた《牡丹》(1963頃)[160]、さらには《満月》(1963頃)[161]の3方から満月に向かう枝などが目に留まる。神と人間のようなキリスト教世界の二元論を超えた発想を3という数字に託しているのではないか。「科学をやつてゐると自分の頭が滅茶苦茶になる、その滅茶苦茶になるのを感じないドン感者が科学的天才といふ奴等」(『遺稿ノート』)とは、近代科学がキリスト教世界で生まれた特殊なものであるにも拘らず、それを普遍と捉える過ちを訴えるものではなかろうか。3には二項対立を止揚する力が潜んでいる。静的にではなく、動的に世界を捉えなくてはらない。なぜなら世界とは千変万化そのものだからである。

《ひまわりとリンゴ》(1912-1926頃)[063]には向日葵を活けた花瓶の脇に青い林檎が添えられる。向日葵は業火に灼き尽されんばかりに歪み、その「熱」による気流のように背景もウネウネとする。明らかにフィンセント・ファン・ゴッホ[Vincent van Gogh]の影響が認められる(類例作品《ひまわり》(1912-26頃)[038])。壺と林檎3つを描く《静物》(1925)[035]にもうねる筆致で描かれる。全ては常にうねり変転する。「花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事……それは洋人キリスト教者には不可能」(『遺稿ノート』)という言葉には、キリスト教との対照で仏教の一切空が示されているのではないか。
向日葵[Zonnebloemen]と言えば太陽[Zon]だが、太陽は大日如来の象徴である。萬鉄五郎《太陽の麦畑》(1913頃)[058](出展なし)の触手にも見える粘着質な陽光まで極端ではなくとも、《田園太陽》(1956)[043]の農地を照らす夕陽には光が粒子であることを訴えるように、触覚を刺戟する。「花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事」における、砂一粒のザラザラした感じには、真理を摑み取る意識が反映されているように思われてならない。
《蝋燭》(1912-1926)[003]を始め本展には多くの蝋燭の絵が並ぶ。蝋燭の炎はゆらゆらと揺れる。炎は太陽であり大日如来であり四曼である。「四曼を一にして表はす、それを寫実といふ」(『遺稿ノート』)。第2会場(2階サロンミューゼ)奥の特別展示室には《蝋燭》(1965頃)[077]、《蝋燭》(1948以降)[083]、《蝋燭》(1948以降)[084]、《蝋燭》(1948以降)[085]、《蝋燭》(1948以降)[140]、《蝋燭》(1948以降)[141]、《蝋燭》(1948以降)[167]、《蝋燭》(1948以降)[168]、《蝋燭》(1948以降)[169])が3×3で並ぶ。恰も曼荼羅のようである。

《パイプ》(1935-1944)[148]では白い皿に置かれたパイプから煙がゆらゆらと立ち上る。かわらけの皿に置かれた紙巻き煙草から上がる煙を描く類例作品には《春の夜》(1935-1944)[118]と名付けられる。煙が春霞に擬えられているのであろうか。煙は雲散霧消するが、無になるのではない。やはり一切空である。《煙草を手にした自画像》の作家が浮かび上がる。「『あいつ死んぢやつたよ』『あゝそうか』と言つてぽつと微笑」(『遺稿ノート』)。