可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 毛利悠子個展『Recompose』

展覧会『第60回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館帰国展 毛利悠子「Recompose」』を鑑賞しての備忘録
横浜美術館〔ギャラリー9〕にて、2026年7月24日~11月23日。

第60回ヴェネチア・ビエンナーレ(2024)の日本館で開催された毛利悠子「Compose」(キュレーションはイ・スッキョン[이숙경/Sook-Kyung Lee])を再構成した展覧会。盥やバケツ、ポットや壺などに繋がれたチューブが水を通す際に起こす揺れで鈴やドラムなどの楽器が音を立てる「モレモレ」シリーズ8点と、アンティークの家具に組み込まれたスピーカーと電球とが、果物に挿し込まれた電極が感知した抵抗値によって音を立て、光る「Decomposition」シリーズ7点とで構成される。

展示室入口脇の通路に設置された「モレモレ」シリーズの1点は、モーターにより組み上げられた水が透明のチューブにより天蚕糸で吊られた黄色いゴム手袋に流し込まれ、手袋から漏斗へさらにPETボトルへと落とされ、PETボトルからゴムホースで金属製の黄色いタオル干しスタンドに取り付けられた薄紫の長靴へ、さらにホースで青いガラスの壺へと運ばれていく。壺の水は再びモーターで手袋へと汲み上げられる。チューブに引っ掛けた糸の先には鈴が取り付けられ、チューブを通る際の振動で鈴が鳴る仕組みである。常にモーターを動作させている訳ではないため、鈴が鳴る時間帯と鳴らない時間帯とがある。ジャン・ティンゲリー[Jean Tinguely]の役に立たない機械のような見る者を脱力させるような動作をしながら、コーディネイトされた色彩により鹿威し的機能を担うためのミニマルな造形が魅力的である。隣に並ぶ「Decomposition」シリーズの1点は、アンティークの卓上に、電極を挿したフルーツが収められた透明アクリルケースが置かれ、果物から続くコードが繋ぐ卓の下の2個の電球や、プランターハンガーの4個の電球を明滅させる。モレモレの鈴などが音を立てている際には、恰も「Decomposition」が呼応するかのようである。
展示室内の最大規模の「モレモレ」シリーズの1点は、造花から透明のビニールシート、半透明の水色の波板へと水が流れ落ちる際に、天蚕糸で吊ったトライアングルが鳴る。レジ袋、ビニール傘、バケツなどと接続されている。他の「モレモレ」シリーズの鈴、ドラム、シンバルの音、さらに「Decomposition」シリーズの発する音とともに交響曲のようなな音を奏でる。
「Decomposition」シリーズの果物は電球と結び付けられることで、果物=植物が光を蓄えていることを鮮やかに示す。そして、「モレモレ」シリーズにおける水同様、光があらゆる生命を循環することが暗示される。

 (略)無機質な都市は森に対立するようにふるまう。あらゆる森は、ガイアの身体を生気づけるために太陽の光をその身体へと迎え入れることを可能にする力を生から作り出す。じっさい、どの植物にとっても、大きくなるということは、みずからの身体に光を蓄積するということ、地球外の恒星からやってくる光をますます蓄積してゆくことである。それゆえ植物はその1つ1つが恒星からガイアの無機質な身体へとやってきた地球外物質を吸収するエージェントである。生の最も地球的な表現と考えられている木は、他所からやってきた光をその炭素の肉のうちに収め、引き留めている。1個のリンゴ、1個のナシ、1個のジャガイモ――それらは、わたしたちの惑星の無機質な物質のうちにカプセル化された地球外の小さな光なのだ。動物がそれぞれ食事をするときに他者のうちに探し求めているのは、まさにこの同じ光である(他の動物を食べるのか他の植物を食べるのかはほどんど重要でない)。栄養を摂取する活動はすべて、地球外の光の秘密裡で不可視の取引以上のものではない。この光は、これらの運動を通じて、身体から身体へ、種から種へ、界から界へと流れてゆくのである。生きものたちは石を恒星の堆積物へと変態させる。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.162-163)

「モレモレ」シリーズは、地下鉄駅構内の漏水に対するブリコラージュ的措置に着想したという。地下空間という人工環境における漏水は、人間身体を自立させるという都市に纏わる幻想を穿つ。

 それゆえ、産業的なモノカルチャーを実践しているとして農業を非難するのは不当であり間違っている。モノカルチャーの真のゆりかごは都市なのだ。他なるものとの連続性や接触がまったくなかったとしても異なる種と共棲しうるという考えを抱いたときから、絶対的な生や消滅としての死といった幻想が生み出されるのである。人間の身体の自立という幻想を都市は供給している。この観点からすれば、都市とは葬儀のための装置である。都市はわたしたちに死の幻想を象徴的に真実にすることを許すのだ。それゆれ、あらゆる政治学は――それが人間のモノカルチャーについての学問である限りで――その根本から危うくなっているのであり、放棄されねばならない。もっぱら人間にのみ関わる知はありえない。なぜなら、これまで見てきたように、あらゆる生(個体のそれであるか種のそれであるかはさほど重要でない)はインタースペシフィック(異種間的)であるからだ。生きものについての科学は、異種間の知でしかありえない。そのうえ、わたしたちは次のことを顧みてこなかったように思われる。あらゆる都市は第二の身体を、つまり農業的であると同時に畜産的でもあるような、インタースペシフィック(種をまたいだ)第二のリヴァイアサンを前提としているのであり、そしてこのリヴァイアサンは、たとえ都市の身体の外側で亡命生活を送るよう強いられてきたとしても、都市の前提かつ可能性の条件となっているということを。女たち、男たち、植物たち、動物たちのあいだの、種をまたいだ出会いなくして生きていけるような都市などない。そうした出会いは食事のたびに執りおこなわれ、住むことによって承認される。つまりどんな都市も、そこに滞在する男や女に生を与えたり、隠れ家や道具、家具、エネルギー、酸素を提供したりするのに必要な植物や動物からなる身体のうえで生きているのである。人間という個体はすべて、その個体が食べ、昇華し、変態させてきたすべての若鶏やサーモン、雌牛、小麦、大麦、玉蜀黍の日常的な再受肉でしかない。どんなアーティファクト(人工物)も、他の生きものによる労働や身体の、あるいはガイアの無機質な肉の再受肉である。国家をその生命とするリヴァイアサンは、たんに人間の身体から構成されているのではなく、それと同様に、そしてなにより、これらすべての動物や植物の身体、キノコやバクテリア、石からも構成されている。これらのものこそが自身の全権力を「政治的」身体に与えているのだ。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.163-164)

第60回ヴェネチア・ビエンナーレ国際展日本館の「Compose」展では、展示に使用した果物を堆肥にして敷地に撒いたという。果物=植物が都市=人間を支える基盤であることを暗示する。「どんな都市も、そこに滞在する男や女に生を与えたり、隠れ家や道具、家具、エネルギー、酸素を提供したりするのに必要な植物や動物からなる身体のうえで生きている」。

 (略)21パーセントの酸素が含有されている空気というのは植物の生の副産物でしかない。それは植物の代謝に由来するもの、植物の暮らしから出た廃棄物である。別の言い方をすれば、誰かによって修正された存在、アーティファクト(手を加えられた物)なのだ。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.167)