可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『田中信太郎作品展』

展覧会『田中信太郎作品展』を鑑賞しての備忘録
アートフロントギャラリーにて、2026年6月5日~8月29日。

アートフロントギャラリーが所蔵する田中信太郎(1940-2019)の絵画、彫刻、エスキースを展観。

《長いソナタ》(1900mm×3650mm×300mm)は灰色の画面の下端に、極緩やかなS字を描く白い石膏による立体物を取り付けたアクリル絵画。灰色の画面は絵具のたらし込み等によるのか、顕微鏡で覗いた細胞のようなタッチで変化が付けられている。生命的であるというより腐蝕による経年変化を擬態しているようだ。実際、暗いオレンジ色のアクリル絵画《ST200805-15》(335mm×335mm)では鉄錆びの表情を作っている。酸化のような環境による緩慢な変化を伝えるのが、左から右に向かい上り下り、再び上る緩やかな弧を描く石膏の立体物である。画面中央には山吹色の垂線が引かれる。ヴォルフガング・ライプ[Wolfgang Laib]がコンクリートの床に黄色い花粉を置く姿を連想される色遣いである。黄の垂線は一瞬の光であり、極めて生命的だ。

詩の時間的性格は現在的であるといって差支えないが、なおまた詩の現在はいわゆる「永遠の今」であると見ることもできる。永遠の深みを有った現在が詩の形式的規定の上にあらわれている。詩のリズムの反復ということは現在が永遠に繰り返すことである。(同右〔引用者註:九鬼周造『時間論』〕、160-161頁)
 詩とは、それだけをとれば言表され現在化された文字および音声の集積からなるものである。ただし、九鬼はここで、詩の形式がはらむ押韻や繰り返しそのものが、現在という非連続の連続の無限を表現し、その深みにおいて永劫回帰的なものを響かせることこそに着目するのである。そこで九鬼は、三好達治、萩原朔太郎、長歌を継いだ反歌などを分析しつつ、つぎのようにのべている。
現在が深みを有つように繰り返すのである。多少長い詩形にあっても、すべてが現在の1点に集注するように、技術上リズムとか韻とか行とか畳句とかまたは反歌というようなものを用いてでも繰り返すのである……詩のそういう外形上の技術は詩を同じ現在の場所に止まらて足踏みをさせているようなものである。詩を永遠の現在の無限な一瞬間に集注させようとするのである。(同右、164頁)(檜垣立哉『日本近代思想論 技術・科学・生命』青土社/2022/p.159-160)

永遠の繰り返しにおける、現在の無限な一瞬間への集注こそ、《長いソナタ》の眼目ではなかろうか。

 (略)精神病理的な観察からえられた他者との(木村の事例では父との)タイミングがあわない、あるいは自分のタイミングが「ずれる」という症例をあつかいながら、木村〔引用者註:木村敏〕はつぎのように述べていく。
このような[タイミングというような]時間が動き出す一瞬の刹那、これは普通に言う個人的・主観的な「内的時間意識」でも、その根底に(個人の意識を超える拡がりとして)考えられている「永遠の現在」とでもいった全一的な次元のことでもない……意識の現象であると同時に意識の現象でもないような出来事であり、個人を超えると同時に個人に属してもいる出来事である。〔引用者註:『木村敏著作集7』124-125頁〕
ここで木村は、垂直な深部としての「生命性」(それ自身を言表化すれば――もちろんそれは不可能であるのだが――「永遠の現在」という「全一的」なものとしてイマージュ化せざるをえないもの)と、意識として言表化され、ノエマ的に整序されてしか示されない位相という、深さと装層としての接触面を、自己と他者、そして自己と世界が成立する局面としてとりだしてくるのである。
だから、タイミングと自己のあいだには思いもかけぬ深い関係、この2つを同義語と見なしていいほどの共属関係がある。われわれが自己とか自分とか呼んでいる何かは、はじめからわれわれの所有物として与えられているものではない。われわれはそのつどの世界との出会い、他人との出会い、あるいは自分自身との出会いに際して、瞬間瞬間にその何かを経験のなかに獲得し続けているにすぎない。〔引用者註:『木村敏著作集7』127頁〕(檜垣立哉『日本近代思想論 技術・科学・生命』青土社/2022/p.193-)

《韓(HAN)―黒髪》(1940mm×1940mm)は、黄緑にオレンジを重ねた暗いオレンジ色の画面の上端中央から下端右側へ溶断するかのような緩やかな弧が走る。弧は黒い線とその周囲の明るいオレンジとから成る。艶めかしい1本の黒髪は、「永遠の現在の無限な一瞬間に集注」させる閃光である。その閃光の度、世界と出遭う。「黒髪」=閃光は、《長いソナタ》における黄色い垂線に等しい。
《奇跡》(2610mm×800mm×800mm)は真鍮の垂線である。それ自体《韓(HAN)―黒髪》の「黒髪」であり、《長いソナタ》の黄色い垂線である。特徴的なのは、真鍮の棒の中央の空隙があることである。その空隙は、「われわれが自己とか自分とか呼んでいる何かは、はじめからわれわれの所有物として与えられているものではない」ことを示す。「そのつどの世界との出会い、他人との出会い、あるいは自分自身との出会いに際して、瞬間瞬間にその何かを経験のなかに獲得し続けている」、その何かを受け容れる空間である。すなわち、奇跡とは、現在であり、自己である。