展覧会『すずきしほ個展「星あつめのつづき」』を鑑賞しての備忘録
SAN-AI GALLERYにて、2026年8月18日~29日。
もこもこ、とげとげといった擬態語が似つかわしいモティーフを絵画や塑像に仕立てる、すずきしほの個展。
石粉粘土で作られた立体作品群は「絵本の中のケーキ屋さん」と題される。王冠を遇ったケーキ(おにぎり?)、台座に載せられた豆大福、スティック状のショートケーキのような形が並ぶ中には、香水瓶のような化粧品容器のような形もあり、「ケーキ屋さん」ではなく、「絵本の中のケーキ屋さん」ならではの世界が起ち上がる。《おやすみのかたち》(140mm×180mm)や《島までおさんぽ》(140mm×180mm)といった絵画に登場するモコモコしたモティーフ、あるいは《朝のキラキラさん》(140mm×180mm)や《もこもこクッキングⅡ》(215mm×165mm×55mm)のような綿を入れ込んだクッションに刺繍・貼付・着彩した作品から抜け出したかのように、立体作品と平面作品との間に境界がない。
《どこからきたの》(1167mm×1167mm)はクリーム色の画面。下に臙脂の楕円に近い形がある。臙脂の楕円に一部重なりあるいは重ならずに、深緑色のギザギザしたものが配される。緑のギザギザに菖蒲などの葉を思い浮かべれば、楕円は池となる。ギザギザを流星のような飛翔体を見れば、楕円は大地=地球になる。ギザギザを吸引する力に着目すれば、楕円は真空[Пустота]とも解し得る。謎めいた印象を高めるのは、楕円の上にうっすら浮かぶ四つ足の動物を横から捉えたシルエットである。下の層に描かれていたものがクリーム色で塗り込められることでほとんど掻き消えている。それは獣の残像に見える。恰も鑑賞者が近付いたことで、臆病な動物が臙脂の穴の中に逃げ込んでしまったかのようだ。
広く読まれた現代ロシアの小説作品『チャパーエフと空虚』(原書は1996年刊)では、ピョートル・プストタという特徴的な名をもつ登場人物(「プストタ」は「空虚」という意味の言葉でもあります)が、次のような考察をしています。モスクワはロシアにある。ロシアは2つの大陸〔ヨーロッパ大陸およびアジア大陸〕にまたがって存在している。この2大陸は地球にある。地球は銀河にあり、銀河は宇宙にある。では、宇宙はどこにあるのか。これまでに挙げられたものをすべて包摂している領域はどこにあるのか。そのような領域は、それについて考えている我々の思考のなかにしかないのではないか。とすれば、では我々の思考はどこにあるのか。宇宙が我々の思考のなかにあるのだとすると、我々の思考は宇宙のなかにあるのではないことになる。そうじゃないか?――このような考察をめぐって繰り広げられるソクラテス的な対話に、ちょっと耳を傾けてみましょう。
我々は乾杯して、グラスをあおった。
「じゃあ、地球はどこにある?」
「宇宙にです」
「宇宙はどこだ?」
僕は一瞬考えこんだ。
「宇宙は宇宙にあるんですよ」
「その宇宙がある宇宙はどこにある?」
「僕の意識にです」
「どういうことだ、ピョートル。それじゃお前の意識は、お前の意識にあるってことになるぞ」
「まあ、そうなりますね」
「なるほど」チャパーエフは口ひげをしごいた。「じゃあ、大事なことを訊くぞ。つまり、それはいったいどこにある?」
「ご質問がよくわかりまえsん、ワリーリイ・イワーノヴィチ。場所の概念は意識のカテゴリーのひとつなわけですから……」
「どこなんだ、それは。その場所の概念はいったいどこにある?」
「じゃあ、こう言いましょう。それは場所だとかそういうものじゃないんです。言うなればそれは、現……」
僕は口籠もった。そうだ、これこそ彼が言わせようとしている言葉にちがいない。もし僕が「現実」という言葉を使ったら、彼はまたすべてを想念に帰するつもりなのだ。そしてそれはどこにかるかと訊く。すると僕は頭にあると答える……。ひっかけだ。
このような対話を通じて、ピョートルは、世界など存在しないという目眩のするような考えを理解するに至ります。結局のところ、すべては広大などこでもないところで生じるのだ、と。この小説のタイトルは『チャパーエフと空虚』です。この間に世界的に有名となった、この小説の著者――ロシアの作家ヴィクトル・オレーゴヴィチ・ペレーヴィン――は、わたしたちはどこに存在しているのかという問いにたいして、このタイトルによって答えてくれているわけです。わたしたちは宇宙のなかに存在しているが、その宇宙は空虚のなかに、つまりどこでもないところに存在しているのだ、と。いっさいは巨大な空虚に取り囲まれている――これはミヒャエル・エンデの『はてしない物語を思い起させます。(マルクス・ガブリエル〔清水一浩〕『なぜ世界は存在しないのか』講談社〔講談社選書メチエ〕/2018/p.33-35)
残像のような獣が表わすのは、(全体としての)世界であり、そのような「世界など存在しない」ということなのかもしれない。
《苔だんごの唄》(727mm×1000mm)は、赤紫のカーテンが脇に引かれた草地のような舞台に、淡いピンクの光の中、モコモコとした草大福のようなものが鎮座している。「草地」と「草大福」とはともに深緑だが、前者が斜線を重ねるタッチにより、後者が粒状感のある塗り方をすることで、一体感とともに異物感をも具現化させている。朗らかな桃色の光と赤紫とのカーテンが補色の効果でステージの「草大福」が映える。「草大福」という存在を現象させる舞台は、「意味の場」での表象と解し得る。
存在するものは、すべて意味の場に現象します。存在とは、意味の場の性質にほかなりません。つまり、その意味の場に何かが現象しているということです。わたしが主張してるのは、存在とは、世界や意味の場のなかにある対象の性質ではなく、むしろ意味の場の性質にほかならないということ、つまり、その意味の場のなかに何かが現象していることにほかならないということです。だとすると、次のような問題が生じないでしょうか。意味の場もまた対象である。意味の場についても、真偽に関わりうる思考によって考えることができるからだ。そこに何かが現象しているということ、これが意味の場の性質だとすると、やはり存在は対象の性質であるということになるのではないか。だが、意味の場もやはり意味の場のなかに現象する(さもなければ存在するとは言えない)となると、これは矛盾しているのではないか、と。しかし、そのような矛盾は生じません。それは――逆接的にも――そもそも世界は存在しないからです。存在しているのは、無限に数多くの意味の場だけです。それらの意味の場は、ある部分では重なりあいますが、別の部分ではどんな仕方でもけっして接しあうことがありません。ピョートル・プストタが気づいたように、結局のところはすべてはどこでもないところで生じるわけです。これは、まったく何も生じないということではありません。むしろ逆に、無限に数多くのことが同時に起こっているということです。(マルクス・ガブリエル〔清水一浩〕『なぜ世界は存在しないのか』講談社〔講談社選書メチエ〕/2018/p.105-106)
本展のキーヴィジュアル《星のおさんぽ》(273mm×273)は、木枠を削ることで上下左右の端が僅かに波打つ画面が下から5分の2の位置で淡いピンク色の光の上側と深緑の下側に分割されている。ピンク色の炎のようなものが2つ、画面中央右の上下境界付近と、画面左端で僅かに切れるように深緑の領域の中段に配される。草地で燃える鬼火のイメージである。画面の上には、石粉粘土で出来た金色の塊が載る。鬼火のいる草地、草地を描いた絵画。その絵画と接する塑像。「意味の場」とその多数性を表わすものと解することができる。「すべてはどこでもないところで生じ」、「無限に数多くのことが同時に起こっている」のだと。
(略)どのような科学も、世界それ自体を明らかにするわけではありません。何であれ、それぞれの学問分野で説明できること――何らかの文士や、日食現象、ありは小説のある1行や、論証における論理的誤謬、等々――だけを明らかにするのである。世界は存在しないという洞察は、わたしたちが再び現実に近づくのを助け、わたしたちがほかならぬ人間であることを認識させてくれます。そして人間は、ともかくも精神のなかを生きています。精神を無視して宇宙だけを考察すれば、いっさいの人間的な意味が消失してしまうのは自明なことです。しかし悪いのは宇宙ではなく、わたしたち自身です。つまり近代的ニヒリズムを支えているのは、わたしたち自身が犯す非科学的な間違いにほかなりません。すなわち、物それ自体を宇宙のなかの現われてくる物と取り違え、それ以外のすべてを生化学的に惹き起こされた幻覚と見なすという間違いです。(マルクス・ガブリエル〔清水一浩〕『なぜ世界は存在しないのか』講談社〔講談社選書メチエ〕/2018/p.198)