展覧会『生誕130年・一九三〇年協会設立100年 前田寛治 ポエジイとレアリスム』を鑑賞しての備忘録
東京ステーションギャラリーにて、2026年7月4日~8月30日。
前田寛治(1896-1930)の画業を辿る。第1章「“絵は詩である”」は、東京美術学校在学中にノートに記した言葉を掲げ、家族や故郷に纏わる作品と活動初期の作品とを展観する。第2章「パリ留学―写実への目覚め」は、大原コレクションに感化されパリに滞在した時期の人物画・静物画・風景画を紹介。第3章「帰国後の活躍―レアリテ(実在感)を求めて」では「日本の画壇に恐るべき敵なし」と主に帝展を舞台に活躍した時期を主に人物画で振り返る。第4章「一九三〇年協会―“生命の写実”」では、作品発表の舞台として里見勝蔵・小島善太郎・佐伯祐三・木下孝則とともに設立した「一九三〇年協会」に纏わる作家の作品を特集する。第5章「“如何に超越すべきか”」では、『病中日記』の言葉を冠し、早過ぎた晩年に取り組んだ海景画の習作などを並べる。
前田寛治は1896年に鳥取県東伯郡中北条村(現在の北栄町)に生まれた。鳥取県立倉吉中学校卒業後、第三高等学校工科に不合格となった後、徳冨蘆花『自然と人生』の「コロー評伝」に感化され画家を志し、1916年に東京美術学校へ入学。在学中に故郷の文化団体「東伯画会」(程なく「砂丘社」に改称)に参加。1921年、東京美術学校を卒業、研究科に進学。第3回帝展に《花と子供等》[1-16]で初入選を果たす。故郷で開かれた大原コレクションの展覧会でモーリス・ドニ[Maurice Denis]やアンリ・マティス[Henri Matisse]、とりわけポール・セザンヌ[Paul Cézanne]に感化され、平和記念東京博覧会(1922)に《立てる子供》[1-15]を出品した頃に渡仏を決意。同年末、アルベルト・アインシュタイン[Albert Einstein]夫妻[2-4, 5, 6]も乗船していた榛名丸でフランスへ向かった。アカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエール[Académie de la Grande Chaumière]やアカデミー・モンパルナスなどに通い、里見勝蔵の案内でモーリス・ド・ヴラマンク[Maurice de Vlaminck]と会い、フィンセント・ファン・ゴッホ[Vincent van Gogh]の墓参を、セザンヌ縁の地を巡る。川口軌外夫妻、佐伯祐三夫妻を始めとした日本人芸術家とも交流を重ねた。1925年8月の帰国後、第6回帝展に《J・C嬢の像》[2-53]が特選第三席を得て脚光を浴びる。第8回帝展(1927)で《横臥裸婦》[3-6]が特選受賞、1928年には帝展の無鑑査出品資格を得、1929年には帝展の審査員に推挙されたが鼻腔内主要で入院。病室で完成させた《海》が第10回帝展で帝国美術院賞を受賞した。1930年4月16日死去。翌日の東京朝日新聞朝刊には「惜しまれた鬼才遂に起たず」と訃報が出た。
【第1章:“絵は詩である”】
冒頭を飾る作品《母の像》(1928頃)[1-5]は後年の作品で、臙脂の衣装の母親が椅子に坐る姿を描く。足を表わさないのは恰も頂相のようで、画家の母親に対する敬意が窺える。赤、直線的な椅子(坐像)、漫画の効果線のような線の連なり、対象に視線を奪われる結果としての描き残しのような背景など、円熟期の要素が全て盛り込まれている。
《竜巻》(1921)[1-17]は海岸の崖上から岩に打ち付ける波、沖の竜巻を捉えた作品。後年一冊を物すほどギュスターヴ・クールベ[Gustave Courbet]に心酔する予兆とも解されるが、点描の筆致は、クロード・モネ[Claude Monet]ら印象派の影響を感じさせる。《花と子供等》(1921)[1-16]は坂の脇に咲く紫陽花を眺める少年・少女を捉えた作品で、細かな点を連ねて描画しているのが眼を惹くが、解説ではゴッホの影響が指摘されている。《立てる子供》(1922)[1-15]は帽子を被り木立の前に立つ少女の像。葉叢に融け込むような少女はやや俯いている。ジャン=フランソワ・ミレー[Jean-François Millet]らバルビゾン派に通じるものがあると言う。
【第2章:パリ留学―写実への目覚め】
《白い橋》(1923)[2-13]は、白い橋の向こうに赤い屋根の家並みを描いた作品。右下から伸びる白い橋が中央の樹木へ突き出す。赤い屋根の家が中央に引っ張られるように傾いでいるのが眼を惹く。《赤い風景》(1925)[2-15]でも臙脂の樹々のシルエット――広重《東海道五十三次之内 庄野》を連想する――を背に臙脂の屋根の家、臙脂の木製の柵などが中央に寄り集まっている。中央に寄せる構図は、バゲットや果物、ポットなどを描いた《静物》(1923)[2-19]でも展開される。他方、《街の風景》(1924)[2-18]では都市に蝟集する積木のような建物を画面全体にバランス良く配して画面を構成している。
3階から2階へ降りて最初に目に飛び込むのが、《メーデー》(1924)[2-42]。道路の奥から労働者の一団が赤い旗を掲げて迫る様子を表わした作品。道路の石畳や工場や煙突の背後から放たれる陽光が効果線となり、労働者たちの姿を強調する。文部省在外研究員としてヨーロッパに滞在していた同郷のマルクス主義研究者・福本和夫(1923年6月から8月にかけてパリに滞在)、関東大震災による混乱で送金が遅れたことと相俟って社会主義的な関心を強めた。第一世界大戦終結後、社会主義は理想の世界を――しかも国の枠組みを越えて――実現する思想として輝いていただろう。その象徴たる赤に、芸術追究のため日本を飛び出した作家が特別な感情を結び付けたとして何の不思議も無い。
《ブルターニュの女》(1925)[2-62]は格子柄のワンピースの上から黒いジャケットを羽織り、緑のブルトン・ハットを被った女性の坐像をモデルの左前から4分の3面観で縦長の画面(1660mm×1010mm)一杯に描く。黒いジャケットにより背後の闇に溶ける上半身に対し、白地に黒い格子のワンピースの裾が下半身を大きく見せ、坐る女性にどっしりと落ち着いた印象を生む。左耳に付けた翡翠のようなイヤリングが浮き立って見えるために、なおさら女性に対する重力が感じられる。
《仰臥裸婦》(1925)[2-65]は両手を頭の後ろで組みベッドに横たわる裸体女性を描いた作品。フランシスコ・デ・ゴヤ[Francisco de Goya]《裸のマハ[La Maja desnuda]》を思わせる。背後の窓枠による格子とモデルの腕、背、腰、脚の直線が乳房や腹の柔らかさを強調する。《裸婦》(1925)[2-66]には、左腕を直角に曲げて持ち上げ、左手を頭に載せ、ベッドで上半身を起こす女性を描く。ルネ・マグリット[René Magritte]の《遠近法:ダヴィドのレカミエ夫人[Perspective : Madame Récamier de David]》のベッドで起き上がる棺桶よろしく、女性の左側の身体の線が直線となっている。やはり幾何学的な線が乳房や腹の柔らかさを伝える。
【第3章:帰国後の活躍―レアリテ(実在感)を求めて】
《静物》(1926)[3-15]は、卓上の皿に載る果物、水差、ソーサーに載せられたカップ、ナイフ、ナプキンなどが描かれる。画面中央の闇には水差を消し去った痕跡が残る。右下にずらして描き直したのだ。皿に載る果物が翡翠のような球体で眼を惹く。その皿からナプキンとナイフによって視線が右下へと引きずり下ろされる。卓自体、右側へ向かって下がっており、不安定な形をしている。セザンヌの影響は明白だ。《籠の静物》(1929)[3-16]では籠の中の赤い果物が主役になり、緑の果物は引き立て役に徹している。対象に集注するとき視界から消えてしまう感覚が、籠の周囲の描き残しにより表現される。
《C嬢》(1926)[3-1]は椅子に坐る黒い服の少女を描く。椅子の背が直線を形作り、暗い背景と黒い衣装との間に浮かび上がる少女の顔の生命感を浮かび上がらせる。《赤帽の子》(1927頃)[3-5]には赤い帽子を被った少女が描かれる。黒い衣装と緑の背景によって赤い帽子に視線を引っ張り、少女の顔に眼を向けさせる。《赤い帽子の少女》(1928)[3-4]では赤い帽子に赤い着物の少女を描く。背中の斜め格子、頭の背後のもやもやしたものにより、少女の顔に視線を集める。《白い服の少女》(1928)[3-3]では塗り立てのペンキのようなべったりした黄緑の背景が少女を浮き立たせる。白い服の陰影は黄緑の光(?)に呼応するように暗緑色で描かれる。
《横臥裸婦》(1927)(3-6)・《裸婦》(1928)(3-12)・《裸体》(1928)(3-11)にはいずれもベッドに横たわる女性が描かれる。ベッドの線が傾くことで動きを生んでいる。《横臥裸婦》(3-6)は青いシーツが水のようで、《裸体》(3-11)では足元に恰も1匹の錦鯉が泳いでいるように見える。《裸婦》(1928)[3-7]は赤いシーツ(?)の上に横たわる女性を描く。周囲に配される点描ないし細かな線の連続が女性を引き立てる効果線の役割を担う。描き残されたような画面の端は、女性に集中する際の視覚効果を倣うようだ。《伏臥裸婦》(1928)[3-10]ではベッドに俯せになる裸体女性を描く。青や緑で女性を囲むことで裸体を浮かび上がらせる。仰向けの《裸婦》[3-7]とは姿勢だけでなく色味も補色へと反転している。する。
《棟梁の家族》(1928)[3-14]は、曲尺や図面を置いた卓の奥に棟梁と妻、4人の子供たちを表わした作品。棟梁を大黒柱として坐る妻、嬰児を背負う娘、2人の男の子を周囲に配する。卓により空間は狭められ、家族の一体感が強調される。里見勝蔵が「前田の最高能力」と絶賛したと言う。
【第5章:“如何に超越すべきか”】
荒波の打ち寄せる《海》の制作に取り組んだ最晩年。《竜巻》[1-17]の海へと還っている。