可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 高橋亜弓個展『水の戯れ』

展覧会『高橋亜弓個展「水の戯れ」』を鑑賞しての備忘録
The Artcomplex Center of Tokyo[ACT3]にて、2026年8月25日~30日。

複数の人体、または鰭、翼、羽、植物などが組み合わさったイメージの水彩画と、人体と自然・宇宙とが一体化したイメージの油性木板とで構成される、高橋亜弓の個展。

前半には水彩画作品が並ぶ。
《アルルカン》は、両脚を開き首を伸す道化師を描く。中央からコンパスのように脚を開いた立つ道化師は、最上段で一方の腕を右向きの両足とは逆に左を指図するように伸し、他方の腕を何か拾うように地面に向ける。さらに長い頸が自らの胴へと180度曲げられる。着脱可能な身体部位を恰も福笑いのように繋ぎ合わせてある。渦巻く頭髪が首や腕の廻転運動を喚起する。髪の青い曲線、腕の一部に見える水草のようなイメージが水を連想させる。
《アンドロギュヌス》には、1つの下半身を共有する2人の人物が描かれる。折り曲げた脚を生やす胴体から2人の上半身が伸び、互いに背を反らすことでバランスを取り合う。一方の人物は左右を見渡す動きを表わすためか、2つの頭部が繋がったように表わされる。その人物の胸には水滴の形が覗き、水滴が滴り落ちる。
表題作《水の戯れ》は、左に向かって泳ぐ人魚と組み合わされたもう1人の人物のイメージ。長い髪を靡かせ両腕を前に伸して左に向かって泳ぐ人魚の胴体は円形をなしてUターンし、尾鰭が右腕に纏わり付いている。人魚の髪に接するようにもう1人人物の顔が右向きで配される。右腕が人魚の身体を抱え右の人差指で後方(画面右側)を指し示しつつ、左腕はだらりと下げられ、人差指が前方(画面左側)に向けられる。2人の身体が2つの円の重なりとして組み合わされ、∞の形を取る。水の果てしない循環を表現する。
《苗床の鳥》には垂直落下する翼を持つ人物が描かれる。真っ直ぐに伸した右脚には蔓が巻き付く。左脚が曲げられて、臑が右脚に直交する。その交点から腕が斜め上に突き出す。顔は真下に向けられ大きな眼を見開く。蔓を天に伸すために落下を目指しているらしい。
《孵化する夢》は両脚を抱えて膝に顔を付けるように丸まる人物を卵型で表わした作品。足を揃えて閉じられた脚に両腕を添わせ額を手に付ける姿が凝縮するように描かれる一方、髪の毛が卵の中で拡がり、足の指が卵から突き出し、さらに卵自体が影により浮遊していることが示されることで孵化の印象を生む。
《群青の跳躍》は左に向かう2人の人物を重なるように表わした作品。左を向く人物が右腕を前に伸すのに合わせ、もう1人が顔と腕とを添わせる。その身体に絡むように後方(画面右側)に髪が靡く。脚は1本だけ見え、膝を曲げ、胴体から切断される。脚を屈折させる動きと、ロケットのブースタのような切り離しにより、推進力が生み出される。
《キマイラ》は2つの頭部と3本の腕・2本の脚を持つキメラを表わす。1本の腕を前に2本の腕と2本の脚とが後ろに向け左に向かい這うキメラは、2つの頭部を後ろに向けて曲げる。腕に生える毛は炎のように浮き上がるのと相俟って動的な印象を生む。腕の1本と脚の1本には鱗のようなものが見える。身体の所々に見える水滴の形と差される青によって水になじむ雰囲気を持つ。
《青い人魚》には、胸から尾鰭のような2本の腕を生やす人魚が描かれる。胴体の先は円のような模様が入り青く、ぐるっと1回転する。その先には帯のようなものが巻いている。後ろにぐっと曲げた顔が後方を見詰める。《赤い人魚》は2本の腕と1本の脚、1本の鰭を持つ人魚を楕円状に表わす。髪を左右に靡かせる頭部を前に突き出し、肩から腹部、脚部に弧を描き身体が折り曲げられる。左腕は背に廻され、右腕は腰の辺りを支える。尾鰭に向かう部分は歪んだ円などの模様があり赤い。その部分に脚が巻き付くように載せられる。
《正装の怪物》は、蝶の羽根を首の周囲に配した、尾鰭と蹄のある脚を持つ存在を表わす。右上で丸い顔が鑑賞者に向く。その下に蝶の羽根が襟として飾られる。右目の眸は2つあり、3つの眸、両耳のイヤリングの円、蝶の羽根の円模様とが響き合う。鱗を持つ腕が前(画面右側)に突き出され、両手が重ねられる。黒い胴体から1本の蹄を持つ脚と、尾鰭のある下半身が伸びる。
《朝と夜の歌》には、4本の腕(脚)で這う人物の身体を、浮遊するもう1人の人物が片腕で支える姿を表わす。オレンジの球体を1本の腕で抱え立ち去ろうとする人物の腰の辺りを、右上の雲の中から現われた人物が片腕を廻して抱える。その姿を振り返り見る這う人物の目には眸が2つある。
円、水滴、流線といったモティーフと青によって水のイメージが通底する。水は生命の象徴である。また、人体に鱗や羽を組み合わせたキメラは、あわゆる生命が起源を共通にする連関を暗示する。

 惑星規模で見るなら、双児の誕生は理屈に合わない珍事ではなく、誕生のパラダイムそのものである。すべての生きものはガイアというただ1つの同じ母を持っており、この母を他の無数の存在と共有している。
 同じ種のすべての存在が双児であるだけでなく、すべての種が双児なのだ。ヒト、アリ、コナラ、シアノバクテリア、ウイルスは、それらが身体であり精神である世界の実在性を絶えず複製するような、ヘテロ接合体の双児にほかならないのである。(エマヌレーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.28)

後半には油性木板の作品が並ぶ。
《やまびこの対話》には、木の葉や球体が置かれた地の上を浮遊する2人の人物が表わされる。手前には地面に手を置き、天を指差す人物の上半身が浮かぶ。その身体の中にはもう1本の腕が見える。その人物の背後には、背を向ける人物がいて、その身体は裸木のようなものが並ぶ壁面を持つドームになっていて、1つの入口(扉)が見える。浮遊と空洞、2人の存在が、音の共鳴を暗示する。
《ふわり》は脚を開いて上に持ち上げる人物を表わす。左を向く人物の横顔からは髪が楕円に拡がる。豊かな脹ら脛を持つ両脚をV字に開いている。その人物の身体の股間に顔を埋めるように青いシルエットの人物が覆い被さる。波のような木目が全面にはっきりと表わされているのが浮遊感を高める。
《世界の樹》には、2つの上半身と1つの半球のような下半身を持つ存在が地上から浮いている姿が表わされる。半球の下半身からは2本の脚が揃えて伸びる。その半球から切り離された連山のような上半身がある。右側の上半身には左向きの頭部から根らしきものが伸
びる。腕は真下に降ろされ、地に人差指を着ける。左側の上半身には左右に向けられた2つの頭部が接合しており、腕が前上に向けられ、人差指で天を示す。
《失われたもの、まだそこにあるもの》は、折り曲げた脚の踵を左腕で支えるように屈んだ人物が地面から浮遊する姿が表わされる。左向きの顔から左右に髪が伸びる。左の髪の先からは雲が現われる。離れていく雲を眼で追っているらしい。胸の辺りには水面が水平に拡がる。両脚を抱える腕の肱の辺りからは木が生える。左手は曲げた両脚の踵を支え、2本ある右腕は自らの顔と天とをそれぞれ指差す。
《月を渡す》には、腹部で繋ぎ合わされた上半身だけの2人の人物の仰向けの姿が描かれる。宙空で仰向けの人物は真上を向く。右腕は指先を地に着け、左腕は曲げて左手の人差指で天を差す。その人物の腹部で繋がるもう1人の人物には顔が無い。首は洞となっていて、そこから月が、満月に変化するように5つ出て来る。
《声をきかせて》は、地平線から姿を現わした人物が、もう1人の人物の胸に穿たれた穴で耳を欹てる姿を描いた作品。地平線から上半身を覗かせる人物は、右肘を大地に着け、もう1人の人物の上半身の胸に開いた円形の穴に顔を挿し込み、右手を右耳に翳して、音を拾っている。片腕は肱を大地に着けて、指で天を差す。穴の開いた人物はやはり大地を指差すとともに別の手で雲を放つ。頭部は身体から切り離され、真上に向かって上昇する。
《雲はく巨神》は、巨大な壁面に囲まれた場所に浮遊する人物が雲を吐き出す姿が表わされる。画面の左右には壁が切り立つ。左の壁には入口が見える。その間に沢山の根を放つ切り株があり、その上に3本の腕を持つ人物の上半身が浮遊する。左に向けた顔の先には雲が流れる。顔の周囲には天体を思わせる円が点在する。3本の腕はジェスチャーしており、天体の運行、自然現象を司っているらしい。
《雲の対話》は、目を開いた顔と目を瞑った顔とが雲をやり取りする姿を描いた作品。世界を覆う壁が切り立つ。扉が1箇所ある。能面のような顔が2つ向かい合わせになり、目を見開いた方へ目を閉じたものが雲を放つ。
大地や壁の存在により抽象的に表わされた世界を舞台に擬人化された自然現象を表わす、神話的な作品群。版画によるイメージの重ね合わせが、閉鎖的でありながら果てしなく拡がる宇宙を適格に表現する。葉脈を顕わにした木の葉やドアの存在が神話と現実とを媒介するのも魅力的である。神々の戯れに翻弄されることを言祝ぎたい。