映画『まさゆめ』を鑑賞しての備忘録
2026年、日本製作。
110分。
監督・編集は、吉開菜央。
振付は、関かおり。
撮影は、小田香と吉開菜央。
照明は、加藤大輝。
美術は、加藤小雪。
音響は、北田雅也。
吹雪の森へ女性が歩いて行く。靴は雪に埋まる。立ち止り、梢を見上げる。辺りを見回し、しゃがみ込む。腰を雪に着ける。大の字になって仰向けに倒れる。
34歳になったとき体調を崩した。とにかく眠れなくなった。そうすると今度は食べられなくなった。良くない出来事が立て続けに起こる。全ては自分に原因があるのだと思った。薬を飲むと気絶するように眠れた。自分を改善するためと標語を作りトイレに貼った。何故だか自分がこの景色を見ることが出来る時間はそう長くない、そういう気がした。
舞台。女性が床に仰向けに倒れている。4人の人物が女性に近寄る。1人が女性の左腕を持ち上げ、揺らす。他の3人もそれぞれ頭、右腕、右脚を動かす。身体を擦り、身体を伸す。
未明の部屋に女性のシルエットが浮かぶ。朝陽が昇るのに合わせて徐々に室内が明るくなり、女性の顔が顕わになる。瞑想している。禅寺での朝課に続いておこなわれる坐禅をしていた。
吉開菜央は34歳のとき体調を崩した。不眠と拒食。そこに突然の母の死。駆け込んだ禅寺で和尚から人の命に価値などないと言われ、思わず笑ってしまう。参禅し、経を唱え、坐禅を組む傍ら、食事を取り、掃除し、眠るという規則正しい生活を送る。
(以下では、全篇に言及する。)
吉開菜央のセルフドキュメンタリー映画。
冒頭は、映像詩のように展開する。吉開は雪の森に倒れる。心身を病み、母を失った衝撃に打ち拉がれた状況を象徴する。その姿はステージに倒れる姿により反復される。とりわけ、忙しない日常に追われていたことがスティル・モンタージュで挿入され、坐禅を中心とする禅寺での日々と対照をなす。
吉開の師事する和尚は、多くの宗教が提示する物語という精神安定化装置を禅は拒むと説く。生きるとは良くも悪くも夢を見ていることに他ならないと、不動心による克己を訴える。不動心を涵養するのは、読経、坐禅を中心に、食事、清掃、運動、睡眠という規則正しい生活である。
吉開を中心に、規則正しい生活を送る参禅者たちの姿が淡々と描かれる。身体の発する音、生活の中で生まれる音、周囲の環境から漏れ来る音が強調され、鑑賞者はともに参禅する気分となる。音慣れない作法に戸惑ったり、正坐で脚が痺れて動けなくなったりと、初心者のぎこちない姿がそのまま映し出されることで、参禅に親近感を抱かせもする。
冒頭、倒れた吉開が参禅時の朝食で米を口にする流れは、釈迦と乳粥のエピソードを踏まえているだろう。そして禅寺での修行のドキュメンタリーを挟んだ後、再び冒頭の映像詩的描写に連なる後半では、生飯(さば)を磨り潰して団子にし、山に整形する。まんま、まんまと呟きながら、梅干しでその頂を赤く着彩する。山は乳房となる。乳首から乳が垂れる。吉開が幼児のホームヴィデオが流れ、母乳を吸う姿が映し出される。吉開は今、米=乳(乳粥)を口に含むことにより再生する。倒れていた吉開は起ち上がる。
好雪片片別処に落ちず。雪片には乳が、海に散骨した母が重ねられている。雪が地面に落ちて溶けるように、斃れた人は溢れた乳の如く大地に、海に還っていく。
不動心など望むべくもない。それでも苦しさも夢と、安心して苦しめる世界への可能性を拓く希望が提示される。