展覧会『長瀬桜子「暗い星座の光」』を鑑賞しての備忘録
Bambinart Galleryにて、2026年8月21日~9月5日。
モティーフを写し取ることで不確かな自らの姿を画面に探り出そうとするかのような油彩画で構成される、長瀬桜子の個展。
《挿話の塵》(455mm×380mm)は、紫色の額縁に収められたキャンヴァスに、画面か額かの区別無く、黒い短い線と白い短い線とが、縦横無尽に配されたかのような抽象的なイメージ。線は直線ではなくやや曲り、枝分かれするものあり、連なるものあり、小魚が泳ぎ廻るかの如くである。四周の紫の枠の内側には黒い線、枠に出ると白い線となる。その越境が枠内のタッチと相俟って、線の躍動感を強める。
《洞窟の壁》(455mm×380mm)には、灰色と褐色とが混ざり合う背景に手が2つ画面一杯に荒々しいタッチで描かれる。右側4分の3ほどを占める大きな方の手には黄緑やクリーム色の光が射す。影は紫色で添えられる。左側には手が半分切れた形で覗く。2つの手は1人の両手ではなく、2人の左手であるようだ。《洞窟の壁》というタイトルからは、原初の芸術であるネガティヴハンドを想起せざるを得ない。
《束》(333mm×242mm)のベージュと褐色との混沌とした画面には青い花らしきものが描かれる。擦れて模糊としたイメージで、2、3輪の「花」はモスグリーンの紙で包装されているようにも、葉・茎ごと束ねられているようにも見える。抽象化的な作品であるために、香月泰男の《青い太陽》に通じるような、塀越しの青空のようにも解し得る。
《白紙》(380mm×455mm)には、開かれた本が画面一杯に描かれる。オフホワイトの頁には、若葉を想わせる黄緑の光が当たる。何も記されていないタブラ・ラサ[tabula rasa]は、ジョン・ロック[John Locke]の経験主義、あるいは、ジャン=ポール・サルトル[Jean-Paul Sartre]の「実存は本質に先立つ[l'existence précède l'essence]」を象徴しているのかもしれない。オフホワイトの画面一杯にモスグリーンと褐色とで楕円を描いた《平皿》(318mm×410mm)も同旨の作品と言えるかもしれない。禅画の円相、吉原治良の円のシリーズを連想させもするが、楕円は惑星の運行のような宇宙のイメージへと通じる。
《26.03.14(土)》(530mm×652mm)は、クリーム色の画面にモスグリーンを荒々しく塗りたくり、朱色、ビリジアンなどを差した混沌とした画面である。クリーム色と朱色とで、明朗な雰囲気がある。タイトルには日付が採用されているため、具体的な景観を表わしているのかもしれないが、何を模っているのか特定するのは難しい。支配的な緑系統の色味からは森のイメージを喚起させられる。実際、出展作品中最大画面の《空と草原》(652mm×910mm)では自然景観をモティーフとしている。クリーム色の画面に黄緑の草原を表わしつつ、上端と左右の端の上側を青空が額縁のように囲うのが印象的だ。そして、画面上半分には褐色や紫などで表わされたモティーフは何を表わすのか定かではない。言葉に回収されることから逃れ、安直な理解を受け付けない。
《棚》(455mm×380mm)は、灰色の画面に棚と器を限られた線で表わす。ある種の静物画であるが、モティーフは灰色に融け込むようで、むしろ配置、構成を探究する抽象画に近い。棚が分類を象徴するなら、その棚を掻き消すように塗り込められた絵具により、分類を拒むものとも解される。やはり言葉に絡め取られない、絵画ならではの表現を模索しているように見える。
《石》(318mm×410mm)は、灰色や褐色の画面を水色が覆う。浅い水の中にある石を描くようだ。橋本平八は《石に就いて》で河原で拾った石を模刻した。無数の石から選択し、木に彫り出したのは橋本平八だが、モデルの石を造形したのは(主に)水と言える。翻って《石》は、彫琢をテーマにした作品とは言えまいか。そして、変転し、形が定まらない姿を如何に捉えるかを模索しているようだ。
《走馬灯》(455mm×530mm)は、クリーム色を基調に、褐色、青などを配した抽象的な作品。中央にハイライトとなる白が配され、他の作品に比べて明るいイメージである。光と闇とで構成される世界に、水を想起させる青を配することで、変転を表わすのだろう。やはり移ろいこそ、表現されるべきことが明らかにされている。
《遠い近さ》(242mm×333mm)は、灰色、オレンジ、白などで混沌とした画面に何かの形が表わされるが、そのモティーフは定かではない。1つの世界に対する複数の視点から異なるイメージが起ち上がるのではなく、そもそも複数の世界が無限に存在して、定まることがない。そのような世界を表わすのに画面に絵具を定着させてしまう。動態を静態で表現する絵画こそ、オクシモロン的だと、作家は画題《遠い近さ)――展覧会タイトルにおける暗い明るさの変奏――で訴えるのである。
作家は、世界を描き出すことで、却って自身の存在の輪郭を明らかにしようと目論んだのだ。だが模糊として捉えどころがなく窮してしまう。輪郭とは錯視の結果であり、明確に自己を切り分ける線は存在しないためだ。常に変化して止むことが無いことに気付き、その動的な姿を画布に固着させようとする、その矛盾の実践が画面上で展開されている。