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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『壁に世界をみる 𠮷田穂高展』

展覧会『壁に世界をみる 𠮷田穂高展』を鑑賞しての備忘録
三鷹市美術ギャラリーにて、2019年12月7日~2020年2月16日。

𠮷田穂高(1926~1995)の回顧展。時代順に全4章で構成。いずれも画家である父・𠮷田博、母・𠮷田ふじを、兄・𠮷田遠志に囲まれて育った𠮷田穂高は、短歌や洋画に手を染めた後、版画を中心に活動するようになった。「Ⅰ.誕生から形成期」ではその初期の活動を追う。1955年に兄とともに渡米し、古代マヤ文明に感化された。「Ⅱ.メキシコとの出会い(1950年代中頃~60年代前半)」ではマヤ文明の影響のもとに制作された作品を展観する。「Ⅲ.コラージュと写真製版(1960年代後半~70年代)」では再度渡米してポップアートに触れた後の、コラージュ的手法による作品を紹介する。最後の「Ⅳ.私のコレクション(1970年代末~1995年)」では、旅先などで撮影してきた写真を素材に制作した後期の作品を展示する。

「Ⅰ.誕生から形成期」では、初期に取り組んだ油彩作品が数点紹介されている。中でも最初期の《秋》(1948)は前景に舞台のような広い空間を空け、右手に中央へと伸びる柵を、奥に舞台の書き割りのような樹木を配する。紅葉をもたらす魔法をかけるかのように黄色い太い輪郭線が樹木を支配する。また、樹木の重ねるような描き方には、既にレイヤーへの関心がうかがわれる。主に紹介されるのは版画作品。太陽を街を見下ろす人物として造形した《太陽》(1952)、衣の裾の広がりを誇張することで仏像の魅力を大胆に提示する《弘仁佛》(1954)、光の球のとその動きで闇を立ち上げる《夜》(1954)、飛石を中心に構成することで茶道の過程重視の姿勢を表現する《茶室》(1956)など。「愛執にさいなまれゐる夜々も茗荷の花は地にくされゆく」(1949)など、数首の短歌もあわせて紹介されている。
「Ⅱ.メキシコとの出会い(1950年代中頃~60年代前半)」では、《呪術者》(1956)、《繁茂》(1956)、《古代人、黄》(1959)、《兆》(1960)、《掟》(1963)など多くの作品に勾玉か甲虫の幼虫のような形が描き込まれているのが気になる。勾玉が太陽や月を表すのか胎児を表すのか、またマヤ文明に特徴的な形なのかどうかは定かではないが、呪術的な力を呼び込もうとしている印象を受ける。
「Ⅲ.コラージュと写真製版(1960年代後半~70年代)」では、《PACO》(1965)、《こよみ-青》(1966)、《大空の神話》(1969)、《LANDSCAPES, No.1》(1970)、《一軒家のある風景、A》(1974)、《家、緑の壁》(1977)など、女性の身体が作品の中に取り込まれた作品が並ぶ。時計やフィルムとの組み合わせはサルバドール・ダリを、建物と女性との組み合わせはポール・デルヴォーを想起させる。Ⅱ章の作品との関係では、勾玉のような幾何学的・抽象的な形態から、ポップアートの受容によってより訴求力のある女性の身体という具体的な形をとるに至ったようにも見受けられる。《裏通りの神話(三幕九場)》(1976)では複数の場面をつなぐ役割を女性(の身体)が果たしているが、あるいはリプロダクションから再生、ひいては時間を超越する存在の象徴として女性(の身体)がとらえられているのだろうか。
「Ⅳ.私のコレクション(1970年代末~1995年)」では、《白い土の塀》(1983)や《サンミゲル旧一番通り》(1987)など、構造物や建物が異空間にタイムスリップしたかのような印象を受ける作品が目を引く。コラージュや版画(複数の版)は複数の世界を一つの画面にまとめあげてしまう機能を有するが、そのことが時代を超えて何かを召喚してしまうという発想に連なるのだろうか。《赤の壁》(1992)、《土色の壁》(1992)など壁への着目は、時代時代の状況を刻印してきた複数の版から構成される画面として壁を発見したことに基づくのかもしれない。

展覧会 百瀬文個展『I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U』

展覧会『百瀬文「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」』を鑑賞しての備忘録
EFAG EastFactoryArtGalleryにて、2019年12月7日~2020年1月18日。

百瀬文の映像作品《I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U》(2019)、《Jokanaan》(2019)、《Social Dance》(2019)を根来美和のキュレーションにより紹介する。

《Jokanaan》は、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『サロメ』のクライマックスである、サロメが所望した切断されたヨカナーンの首に対峙するシーンのアニメーション作品。大理石の彫刻のように白色で立体的に造形されたサロメ。その手のみがヨカナーンの血に塗れて赤い。また、アニメーションが流れる画面の左手にはもう1つ画面が併置され、モーションキャプチャーによりサロメの動きを担当する黒いタイツの男性ダンサーの姿が映し出されている。アニメーションのサロメとダンサーの動きとは一致しているが、異なる画角となっている。男性ダンサーは次第に興奮を高め、モーションキャプチャーのためのタイツを脱ぎ捨ててしまう。そのことで動きは一致しなくなる。
女性のサロメが男性のヨカナーンを求めながら彼に拒絶される。彼女の彼に対する欲望がかなえられないと、サロメはヨカナーンの首をその代替物として手に入れる。サロメによってその首は、蛇、赤い舌、毒液といった性的な隠喩で形容される。サロメは怒りにとらわれた興奮状態の中、その首は犬に食わせるとか鳥に啄ませるといった抛擲に言及する。生者たるサロメは死者たるヨカナーンを思いのままにできるとの期待は、欲望の実現が不可能であることを明白にするばかりであり、サロメは苛立つのだ。ところで、首の上空への投擲行為に俯瞰する視線を読み取ると、その行為は自己認識の獲得を表すだろう。自己認識は、自己との距離を必然的に生み出し、両者の不一致に対する不安に苛まれることになる。この自己像と自己との一致を実現する(距離をゼロにする)とき、不一致というアンビバレンスは解消されるが、自己の認識もまた失われる。百瀬文の作品における、男性ダンサーがヨカナーンの首を載せた皿にその頭を置くラストシーンは、自己の同一性の達成を表すが、それは自己認識が失われること(=死)を必然的に伴うという当然の帰結を示すのだ。サロメを男性ダンサーに演じさせたからこそ、表象と自己との不一致という問題がくっきりと浮かび上がったと言える。また、欲望の対象となる女性が欲望の主体として立ち現れながら、その実態は男性原理の投影(いわゆる「ファム・ファタル」)にすぎないことを「黒子」としての男性ダンサーにより揶揄している。さらに、黒子のあからさまに見せる点では、モーションキャプチャーによる映像にオペラよりも「文楽」のような人形劇との親和性を見て取れる。

表題作の《I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U》は作者がカメラに向かって目を開いたり閉じたりしてモールス信号により"I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U"というメッセージを送り続ける映像作品。(おそらくほとんどすべての)鑑賞者はモールス信号を読み取れず(情報伝達手段の不適合)、作者は実際には鑑賞者が見えない(情報伝達の内容と実情との不一致)。だが、作者からの警告だと解釈すれば、"Big Brother is watching you"(マスとしての「リトル・ブラザーズ」の存在も)の隠喩ともとれ、容易に読み取れないメッセージこそ必然であるとも言える。映画『パラサイト 半地下の家族』においてもモールス信号が重要な役割を果たしていたが、情報を見せることで見せなくさせる現状の打破、特殊なメッセージの送信という表現に仮託されているのだろうか。

《Social Dance》は、ベッドに横たわる女性が、過去の交際相手とのやり取りを語る映像作品。もっとも、女性は手話を用いているため、モールス信号同様、ほとんどすべての鑑賞者は、字幕を通してでなければ、直接には内容を理解できない。途中、ベッドに腰掛けた男性が女性の手をつかむが、その仕草はあたかもダンスのペアが手を取り合うように見えるかもしれないが、女性の言葉を遮り、その言葉を奪う行為そのものである。男女間のコミュニケーションのあり方や、第三者による「誤訳」の危険を、手話を用いることで明快に示した作品であり、「ソーシャル・ダンス」という和製英語にひっかけたタイトルは相当に辛辣だ。

映画『ジョジョ・ラビット』

映画『ジョジョ・ラビット』を鑑賞しての備忘録
2019年のアメリカ映画。
監督・脚本は、タイカ・ワイティティ(Taika Waititi)。
原作は、クリスティン・ルーネンズ(Christine Leunens)の小説"Caging Skies"。
原題は、"Jojo Rabbit"。

第二次世界大戦末期のドイツ。10歳の内気な少年「ジョジョ」ことヨハネス・ベツラー(Roman Griffin Davis)は、ヒトラーユーゲントの合宿に参加する朝を迎えた。鏡に向かって気持ちを奮い立たせようとする彼を忠誠心なら一番だと励ますのは空想上の話し相手であるヒトラー総統(Taika Waititi)。意を決したジョジョは親友のヨーキー(Archie Yates)とともに合宿へと向かう。合宿で少年たちを指導するのは、戦場で右目を失ったクレンツェンドルフ大尉(Sam Rockwell)や、18人の子供を産むことで国家に奉仕したというミス・ラーム(Rebel Wilson)ら。参加者はナイフを用いたり模擬的な白兵戦を行ったりと様々な訓練を重ねていく。森の中で訓練している際、年長者のクリストフ(Luke Brandon Field)やハンス(Sam Haygarth)によって集められた子供たちが殺戮を畏れてはならないとけしかけられる。おどおどしていたジョジョが目をつけられ、この場でウサギを殺すよう命じられる。ジョジョは悩んだあげくウサギを逃がそうとするが、ウサギは即座に捕まえられてその場でクリストフに殺されてしまう。脱走兵の父親と同じ臆病者だと蔑まれたジョジョは泣きながら逃げ出し、皆から「ジョジョウサギ」と囃し立てられる。森の中に一人でいると総統が現れ、ウサギは本来勇敢な動物だと諭される。意を決したジョジョは、心配して探しに来てくれたヨーキーを置き去りにして、手榴弾の投擲訓練に駆け込み、クレンツェンドルフ大尉の手から手榴弾を奪い取って思い切り放り投げる。だが木に当たった爆弾は跳ね返ってジョジョのそばに落ち、爆発してしまう。顔面や足に大怪我を負ったジョジョが恢復すると、母親のロージー(Scarlett Johansson)は顔の痕を気にするジョジョを外へと連れ出す。ロージージョジョの事故の後に事務職へと左遷されたクレンツェンドルフのもとへ向かい、ジョジョに役目を与えるよう要求する。ジョジョはポスター貼りや召集令状の配達などの任務を割り当てられることになる。ある日、一人家にいたジョジョは、2階にある亡き姉インゲの部屋から物音がするのを聞く。

 

ナチスドイツの少年の心に総統が棲み着いたのは、ビートルズが若者の心をつかんだのと何ら変わらない当然の流れだったのだと冒頭シーンからThe Beatlesの"I Want To Hold Your Hand"が流れるオープニング・クレジットまでで鮮やかに示す。このような作品こそドイツを舞台とする作品を英語で制作する意義がある。
これだけキャラクターの造形とキャストがはまっている作品も珍しいのではないか。内気な少年であるがゆえに総統や国家に自らを重ねていくジョジョ(Roman Griffin Davis)、ジョジョに似た性格で気立てのいい少年ヨーキー(Archie Yates)、いい加減で頼りない体で状況をやり過ごすクレンツェンドルフ大尉(Sam Rockwell)、カリスマが虚像であることを常に晒している総統、狡猾で意地の悪いゲシュタポのディエルツ大尉(Stephen Merchant)、生き延びるために感覚を研ぎ澄まし知恵を絞るユダヤの少女(Thomasin McKenzie)、などなど。その中でもジョジョの母親ロージーが素晴らしい。ロージーをとらえる不自然なカメラワークの理由がこれ以上ないくらいの切れ味で明らかになる見せ方にも痺れる。また、その伏線ともなる「行進」動作は、ロベルト・ベニーニ監督の『ライフ・イズ・ビューティフル(La vita è bella)』へのオマージュだろう。
靴がダンスを、あるいは地に足がついているのかどうかということを、さらに靴紐を通じて愛情や成長を伝えている。

展覧会『ブダペスト ヨーロッパとハンガリーの美術400年』

展覧会『日本・ハンガリー外交関係開設150周年記念 ブダペスト国立西洋美術館ハンガリー・ナショナル・ギャラリー所蔵 ブダペスト ヨーロッパとハンガリーの美術400年』を鑑賞しての備忘録
国立新美術館〔企画展示室1E〕にて、2019年12月4日~2020年3月16日。

ハンガリー最大の美術館であるブダペスト国立西洋美術館ハンガリー・ナショナル・ギャラリーのコレクション130点を紹介する企画。

前半の「第Ⅰ部:ルネサンスから18世紀まで」は、「Ⅰ-1:ドイツとネーデルラントの絵画」(8点)、「Ⅰ-2:イタリア絵画」(聖母子4点、聖書の主題6点、ヴェネツィア共和国の絵画8点の計18点)、「Ⅰ-3:黄金時代のオランダ絵画」(6点)、「Ⅰ-4:スペイン絵画 黄金時代からゴヤまで」(6点)、「Ⅰ-5:ネーデルラントとイタリアの静物画」(5点)と「Ⅰ-6:17~18世紀のヨーロッパの都市と風景」(8点)、「Ⅰ-7:17~18世紀のハンガリー王国の絵画芸術」(3点)、「Ⅰ-8:彫刻」(11点)の8章65点で構成。後半の「第Ⅱ部:19世紀・20世紀初頭」は、「Ⅱ-1:ビーダーマイアー」(計7点)、「Ⅱ-2:レアリスム 風俗画と肖像画」(計17点)、「Ⅱ-3:戸外制作の絵画」(計9点)、「Ⅱ-4:自然主義」(計6点)、「Ⅱ-5:世紀末 神話、寓意、象徴主義」(計10点)、「Ⅱ-6:ポスト印象派」(計7点)、「Ⅱ-7:20世紀初頭の美術 表現主義構成主義アール・デコ」(計9点)の7章65点で構成。

冒頭を飾るのは、ルカス・クラーナハ(父)《不釣り合いなカップル 老人と若い女》(1520)と同《不釣り合いなカップル 老女と若い男》(1520-22頃)。サイズは異なるが、ともに若さに欲情する老人をテーマとしていて対となる作品。弟子(アレクサンドロス大王)から愛人(フィリス)を遠ざけようとしたアリストテレスが、その愛人に屈従させられる様を描くヨーゼフ・ハインツ(父)《アリストテレスとフィリス》(1600)も近いテーマの作品。ハンス・ロイ《聖ヒエロニムス》(1515頃)は風景の右下と左下にそれぞれ画面外側(右、左)を向くヒエロニムスとライオンを配する構図、ヘルマン・ヴァイヤー《キリストの磔刑》(1616)はキリストの周囲にいる3人のポーズが興味深い。続いてイタリア絵画のセクション。複数の聖母子像を比較できるゾーンが設えられ、聖書主題の絵画、ヴェネツィア共和国の絵画が続く。ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ《聖ヨセフをカルメル修道会の守護聖人にするよう、アビラの聖テレサに促す聖母》(1749-1750頃)は、降臨した聖母マリアを中心に複数の聖人が描き込まれるが、それぞれのポーズと配置、とりわけ雲を空から地上に引き下ろすように描くことで生まれる動きと、左手奥に屹立する太い2本の柱との対比が興味深い。黄金時代のオランダ絵画のセクションでは、聖書中のエピソードをテーマに劇的な場面を表現したクラース・コルネリスゾーン・ムーヤールト《ベニヤミンの袋から発見されたヨセフの杯》(1627)やヤン・ミーンセ・モレナール《聖ペテロの否認》(1633)と、猥雑な農村の人々を描いたヤン・ステーン《田舎の結婚式》が対照的。スペイン絵画の空間では、展示室内の他の作品と比べて小さな作品だが、エル・グレコの《聖小ヤコブ(男性の頭部の習作)(1600頃)が色使いも含め印象に残る(広い展示室の角に専用の壁面を設けて展示されているせいもあろうが)。ネーデルラントとイタリアの静物画が並ぶ展示室では、犬に襲われた少年を描くペドロ・ヌニェス・デ・ビリャビセンシオ《リンゴがこぼれた籠》(17世紀後半)に動きがまるで感じられず、他の作品に呼応するように静止した場面になっているのがかえって面白い。続く17~18世紀のヨーロッパの都市と風景のセクションでは、フランチェスコ・フォスキ《水車小屋の前に人物のいる冬の川の風景》(1750年代末/1760年代初頭)の精緻に描き込まれた雪景が凍てつく寒さを伝える。フィリップ・ペーター・ロース《羊飼いと漁師のいる岩窟》(1704-5)は水辺の洞窟からの「ピクチャレスク」な景観を写す。前方には大きな岩壁が聳えて視界は閉ざされ、洞窟の前に広がる小さな水辺の明るさ(洞窟の暗さ)が示される。東京都写真美術館の「イメージの洞窟」展との関連で、カメラ(=暗室)や眼球、人間の意識などに意識が及ぶ。ハンガリー王国の絵画を紹介する小さなスペースを挟み、彫刻の展示室が続く。像主不明の水晶彫刻ジョヴァン・ジョルジョ・ラスカリス(に帰属)《理想化された女性の肖像》(1500-10頃)、3人の腕の絡ませ方に注目したいレオン・ハルト・ケルン《三美神》(1640-5頃)、近時紹介される機会の多い感のあるフランツ・クサーヴァー・メッサーシュミットの「性格表現の頭像」シリーズから《こどもじみた泣き顔》(1771-5)と《あくびをする人》(1777-1781)とが展示されている。続く第Ⅱ部の冒頭は市民が室内装飾にふさわしいと感じるような穏健な作風を意味する「ビーダーマイアー」の作品群。フラッシュをたいたかのように画面から浮かび上がる少年の鑑賞者に手を差しのばす姿が印象的なフェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラー《ウィーンのマグダレーネングリュントの物乞いの少年》(1863)、肩を露出した女性が窓辺で白い鳩を抱くバラバーシュ・ミクローシュ《伝書鳩》(1843)など写実的な作風の作品が並ぶ。本展のハイライトは「レアリスム 風俗画と肖像画」と題されたコーナーだろう。メインヴィジュアルに採用されたシニェイ・メルシェ・パール《紫のドレスの婦人》(1874)、逆光の中にドレスアップした女性をとらえたギュスターヴ・ドレ《白いショールをまとった若い女性》(1870頃)、花束を手に草原に佇む女性を描いたロツ・カーロイ《春 リッピヒ・イロナの肖像》(1894)をはじめ複数の女性の肖像が並ぶ。ムンカーチ・ミハーイの《パリの室内(本を読む女性)》(1877)や同《本を読む女性》(1880年代初頭)は豪華な調度で埋め尽くされた室内に女性を姿を描くが、女性もその調度のような装飾としてとらえる時代の視線も透ける。シニェイ・メルシェ・パールの《ヒバリ》は、裸体をさらす女性が草原に寝そべり頬杖を突いて青空を行くヒバリを見上げる作品。女性とともに寝そべるかのように地面に近い位置から空を仰ぐように描いた構図が印象的。続く「戸外制作の絵画」の展示室では、前の部屋で《フランツ・リストの肖像》(1886)などの肖像画が展示されていたムンカーチ・ミハーイが実験的な作画を試みたらしい《ほこりっぽい道Ⅱ》(1874)や、メドニャーンスキ・ラースローが山岳風景を画面の中に溶かしこんだような《アルプスの風景》(1890年代後半)や、水辺に沈む洞穴を描いた同《岩山のある水辺の風景》(1900頃)が目にとまる。「自然主義」のセクションでは、アデルスティーン・ノーマンがとらえた《ノルウェーフィヨルド》(1890頃)の明朗な自然の光景と、それとは対照的に夜の室内に佇む女性の顔が浮かび上がるチョーク・イシュトヴァーン《孤児》(1891)が印象的。続く世紀末絵画を紹介する空間では、スナップ・ショットのようにちょっとした女性の仕草を画面に印象的に定着させたリップル=ローナイ・ヨージェフ《白い水玉のドレスの女性》(1889)、幼児と母親とが溶け合うように描かれるウジェーヌ・カリエール《母性》(1890-1900頃)、ドミニク・アングルの《泉》にインスパイアされたヌード作品ジュール・ジョゼフ・ルフェーヴル《オンディーヌ》(1881)、立ち上る煙が怪しさを高めるグラーチ・ラヨシュ《魔法》(1906-7)、現実的なモティーフを描きながらこの世ではない感覚を生んでいるチョトヴァーリ・コストカ・ティヴァダル《アテネ新月の夜、馬車での散策》(1904)など、魅力的な作品が並ぶ。続くポスト印象派のコーナーでは、画風とテーマとが熊谷守一の《ヤキバノカエリ》を連想させるツィガーニ・デジェー《子どもの葬儀》(1907-8)が胸を打つ。身近な人物への優しいまなざしが印象的なリップル=ローナイ・ヨージェフの赤ワインを飲む私の父とピアチェク伯父さん》(1907)や、つづら折りの山道をあえて柵越しに描いたツィッフェル・シャーンドル《柵のある風景》(1910頃)も面白い。最後は「20世紀初頭の美術」の紹介で幕を閉じる。

地味だが、その分、知らない作品との出会いも期待できるし、比較的ゆったり鑑賞できるだろう。ただし、作品点数が130点と多いので、時間にゆとりを持って足を運ぶべき。

映画『ライフ・イットセルフ 未来に続く物語』

映画『ライフ・イットセルフ 未来に続く物語』を鑑賞しての備忘録
2018年のアメリカ映画。
監督・脚本は、ダン・フォーゲルマン(Dan Fogelman)。
原題は、"Life Itself"。

 

第1章「主人公」。青年(Jake Robinson)がカメラが見つめている。ナレーター(Samuel L. Jackson)は彼、ヘンリーこそが主人公であると、撮影者に顔をアップでとらえるよう要求する。ゲイであるヘンリーが失恋について語り出すと、彼は主人公ではなかったと、今度はヘンリーの話を聞いているセラピストのケイト・モリス博士(Annette Bening)にカメラを向けるよう要求する。彼女こそが主人公だ。ケイトが職場を出て煙草を吸いながら通りを歩いていくと、主人公だってたばこを吸う、映画向きではないがなどと、ナレーターが煙草についての適当な話題を被せる。ウィル・デンプシー(Oscar Isaac)が現れ、交差点を渡りかけたモリス博士にファンだと語りかける。立ち止まり振り向いたモリス博士をバスがはねる。ウィルが駆け寄るが、倒れたモリス博士の頭部からは大量の血が流れている。サミュエル・L・ジャクソン(himself)が現れ、状況を確認すると、手の施しようがないと退散する。ここで画面はカフェでラップトップに向かうウィルに切り替わる。これまでの話はウィルが書いていた「信頼できない語り手」の手法による映画の脚本であった。ラップトップを閉じたウィルは、カウンターでエスプレッソをダブルで注文する。受け取ったカップに大量に酒を注ぎ込み、精神安定剤を飲み込むと、ボブ・ディランを聞けと大声で歌い出す。店員に追い出されるようにしてウィルは店を出る。ウィルはモリス博士の診察を受けている。気分はどうかと問われると、以前と同じだと答える。ウィルはアビー(Olivia Wilde)を失った際に入院し、退院後にモリス博士の診療を受けていた。モリス博士はウィルがアビーの話題に触れたのを切り口に、彼女について語るよう促す。

 

全5章で構成。
ウィルの妻アビーがボブ・ディランの熱烈なファンという形で、全編にボブ・ディランの曲と詩とが織り込まれている。とりわけ歌詞が要所で語られ、それがこの映画のメッセージに重ねられている。ボブ・ディランについて知っていればまた違った味わいがあるのだろうが、たとえ知らなくともその前向きなメッセージは十二分に伝わるだろう。
ウィルの妻アビーの卒業論文のテーマが「信頼できない語り手(unreliable narrator)」であり、それが文学のみならず人生それ自体(life itself)へ適用されることが明示される。

映画『フォードvsフェラーリ』

映画『フォードvsフェラーリ』を鑑賞しての備忘録

2019年のアメリカ映画。

監督は、ジェームズ・マンゴールド(James Mangold).

脚本は、ジェズ・バターワース(Jez Butterworth)、ジョン=ヘンリー・バターワース(John-Henry Butterworth)、ジェイソン・ケラー(Jason Keller)。

原題は、"Ford v. Ferrari"。

 

1960年代のアメリカ。キャロル・シェルビー(Matt Damon)は、ル・マン24時間レースを制覇した唯一のアメリカ人ドライバーだった。だが生きていること自体が幸運だと医師に告げられるほど深刻な心臓疾患のため、引退を余儀なくされる。シェルビーは「シェルビー・アメリカン」社を設立し、理想のスポーツカーを製造することに余生を捧げることにする。イギリス出身のレーサーであるケン・マイルズ(Christian Bale)は、自動車修理工場を営みながら、ドライバーとしてカーレースへの参戦を続けていた。マイルズは激しい気性の持ち主で荒っぽい客あしらいしかできず、工場の経営状態は極めて厳しかった。だが妻モリー(Caitriona Balfe)は、彼の本領はコースでこそ発揮されると夫を支え、息子のピーター(Noah Jupe)も父親のことを誇りに思っていた。販売不振に悩むフォード・モーター・カンパニーの社長ヘンリー・フォード(Tracy Letts)は事態打開を模索し、アイデアを出すよう社員に檄を飛ばした。販売戦略担当役員のリー・アイコッカ(Jon Bernthal)は、映画スターはフォードに乗らず、フェラーリに乗るものだ、一番速い車を製造こそしているからこそフェラーリは憧れの的となっているのだと指摘し、フェラーリの買収を進言する。フェラーリは交渉に応じ、アイコッカが最終交渉のためイタリアのフェラーリ本社を訪れる。会長エンツォ・フェラーリ(Remo Girone)と面会するが、調印は引き延ばされ、結局破談となる。フェラーリはフォードによる買収をフィアットにリークすることで、フィアットからより良い条件を提示されることを狙っていたのだった。フェラーリに利用された上、現在のトップは所詮は偉大なる創業者の息子に過ぎないと侮蔑されたヘンリー・フォードは怒り心頭に発し、フェラーリが常勝しているル・マン24時間レースで勝てるレーシング・カーを製造するよう厳命する。アイコッカはアメリカでル・マンを最もよく知る男であるキャロル・シェルビーの元を訪れ、フォードのために車をデザインするよう依頼する。シェルビーはまたとないチャンスに興奮し、一流のレーサーでありメカニックでもあるケン・マイルズをチームに引き入れるようとする。だが、マイルズはフォードに不信感を抱いており、色よい返事をしない。

 

自動車やカー・レースについての知識・興味がなくとも楽しめるのは、何より主演のMatt DamonとChristian Baleがともに魅力的な男を演じ、バディものとしても優れているからだろう。巨大企業の狡猾さや組織の力関係なども分かりやすく描き込まれ、単なるサクセス・ストーリーではない、苦みのある展開も良い。

Caitriona Balfeが気っ風がいいケン・マイルズの妻モリーを好演。目を見張るようなシルエットが自動車修理工場の裏口に姿を現す登場シーンからして痺れる。

映画『マザーレス・ブルックリン』

映画『マザーレス・ブルックリン』を鑑賞しての備忘録
2019年のアメリカ映画。
監督・脚本は、エドワード・ノートン(Edward Norton)。
原作は、ジョナサン・レセム(Jonathan Lethem)の小説『マザーレス・ブルックリン(Motherless Brooklyn)』。
原題は、"Motherless Brooklyn"。

1950年代のニューヨーク市。フランク・ミナ(Bruce Willis)の探偵事務所の所員であるライオネル・エスログ(Edward Norton)とギルバート・コニー(Ethan Suplee)が車に乗って待機している。トゥレット症候群を患うライオネルは、いつものように不意に場違いな言葉を大声で発してしまう。さらに緊張感からセーターの袖の糸を引っ張っる動作を止められず、ギルバートに糸が目立たないように裁ってもらう。そこにボスのフランクが現れ、二人に指示を出す。今から指定された部屋に向かうので一定時間が経過したら電話をかけること、電話口で待機して建物に近づく者を報告すること、電話口で会話の内容を聞き取り記憶すること、「トイレに行く」と言うのを聞いたら二人で援護に入ること。ライオネルは突飛な言動で周囲を困惑させるが、人並み外れた記憶力の持ち主で、フランクは彼を高く買っていた。フランクはギルバートにライオネルの指示に従うよう言い含めると、建物に入っていく。ライオネルは電話ボックスに向かい、指示通り電話をかける。異様に巨大な体格の用心棒らしき男も含め、黒い服に身を固めた男たちがフランクのいる部屋へ向かった。フランクは男たちからある女性の身辺を洗っていることについて詰問され、フランクはその女性に関する情報を取引材料に一山当てようとしているようだった。フランクが頑なな態度を貫くために事態は悪化し、フランクは遂に「まずはトイレに行く」と発する。ライオネルはギルバートとともに護衛に向かうが、フランクは車で連れ去られてしまう。二人が後を追うが、車を見失ってしまい、フランクに向けられた発砲でようやく見つけることができる。二人がフランクのもとに駆けつけたときには男たちは既に逃走し、ゴミ捨て場に倒れていたフランクは背後から打たれ銃弾が腹部を貫通していた。フランクは二人によって車へ担ぎ込まれる際、被っていたホンブルグハットを回収するよう言いつける。病院に搬送するが、フランクは虫の息。ライオネルはフランクの身に何が起こったのかを聞き出そうとするが、"Formosa"という言葉を残して息絶えてしまう。ライオネル、ギルバート、そしてダニー・ファントル(Dallas Roberts)とトニー・ベルモント(Bobby Cannavale)の4人の所員はいずれも孤児院にいたところをフランクに拾われていた。フランクは単なるボスに止まらない存在で、4人の失意は大きかった。ライオネルはフランクの妻ジュリア(Leslie Mann)のもとに遺品を届けるが、夫婦仲が冷え切っていたため、彼女からは何の手がかりも得ることができなかった。ジュリアには腕時計以外の遺品を引き取る意思がないため、ライオネルに委ねられることになった。翌日、ライオネルが事務所を訪れると、警察の捜索を受けた後で、部屋中が散らかっていた。ジュリアは自宅にも警官がやってきて下着の入った引き出しまで調べられたとお冠。しばらく親類に身を寄せるのでトニーを中心に事務所を切り盛りするよう言い置いて事務所を後にする。ライオネルはそれまでの浮気調査の担当から外され、当面は送迎依頼の担当になる。ライオネルは事務所で電話番をしながら、電話口で聞いたフランクと男たちの会話の記憶とフランクの遺した"Formosa"という言葉を頼りに、フランクが殺されるに至った背景を探り始める。

 

"If!"などと突然奇声を上げてしまうトゥレット症候群を患う私立探偵ライオネルが主人公。周囲からは"Freak Show"などと蔑まれながらも、その類い稀な記憶力でボスのフランクから信頼され、その信頼が支えだったライオネルにとって、フランクの突然の死はあまりにも痛切だった。ボスであり友人であるフランクの死の謎を解明するため、症状を抑えられないまま危険な捜査にのめり込んでいく。様々なハンデを背負った主人公が描かれてきただろうが、トゥレット症候群を主役にした映画はかつてあったのだろうか。鑑賞者にとって、最初はかなり違和感
があるが、ライオネルのひたむきな生き様に絆されて、次第に受け容れられるようになっていく。

Bruce Willisが格好いい。本作や『ムーンライズ・キングダム(Moonrise Kingdom)』のようなキャラクターを演じているところをもっと見たい。