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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『木下直之全集 近くても遠い場所へ』

展覧会『木下直之全集 近くても遠い場所へ』を鑑賞しての備忘録
ギャラリーエークワッドにて、2018年12月7日~2019年2月28日。

木下直之の研究成果を総覧する企画。「つくりものの世界」、「作品の登場」、「ヌードとはだか」、「都市とモニュメント」、「戦争の記憶」の5つのテーマの展示を中心に、その他の関心テーマやノートや著書などを紹介するコーナーで構成。

「つくりものの世界」で紹介される「つくりもの」とは、日用品を組み合わせて別の何物かをつくり出す、見立てによる遊びのことである。同種の材料を変形させずに用いる「一式(飾り)」が鉄則という。つくりものは江戸時代に見世物として、寺社の開帳の際に興行され、干物細工、貝細工、籠細工などが人気を博した。その延長上に現われた生人形(活人形)は、本物の人間に見紛うリアリティを誇った。生人形の女性像について撤去が命じられたことがあったそうだが(1856年)、着物の下のリアリティが咎められたからだという。「ヌードとはだか」をめぐる問題は、明治には黒田清輝の作品をめぐる裸体画論争が、近年でもろくでなし子の女性器をモティーフにした作品をめぐる裁判として、変奏しながらも今日まで断続的に取り上げられている。街頭の彫刻にヌードが見られる理由としては、軍服を脱いで武装解除という、戦争から平和への転換を象徴するためとも考えられるという。宇品港の凱旋塔が平和塔へと名を改め、三宅坂寺内正毅像が台座はそのままに三美神像へと置き換わったように、平和への転換については「戦争の記憶」の継承のあり方についても考えられるべきである。歴史の継承という点では、「都市とモニュメント」としての城、とりわけ天守閣が問題となる。名古屋城天守閣の木造復元に際して金鯱の復元をどうするか(何時を基準に復元するか)は今まさに問題になっている。

このように木下が取り上げてきたテーマには相互に関連性がある。しかもその多くは等閑視されてきた事柄であり、木下が取り上げなければ日の目を見なかったであろう。木下により一見ユルくパッケージされながら、美術品や美術館の公共性をめぐる問題(群馬県立近代美術館作品における白川昌生作品の撤去、福島市におけるヤノベケンジ《サン・チャイルド》の撤去など)、芸術作品の芸術性(愛知県美術館における鷹野隆大作品への措置など)、記憶(とりわけ負の歴史)の継承(大槌町旧庁舎などの災害遺構の保存問題や、広くダークツーリズムの可能性など)、歴史の復元(日本橋をめぐる首都高の移設や、前述の名古屋城天守閣復元など)、といったいずれも極めてアクチュアルな問題に連なるテーマである。

展覧会 第11回恵比寿映像祭「トランスポジション 変わる術」

展覧会『第11回恵比寿映像祭「トランスポジション 変わる術」』を鑑賞しての備忘録
東京都写真美術館他にて、2019年2月8日~24日。

東京都写真美術館が毎年開催している、映像作品の展示・上映を中心としたフェスティヴァル。展示など無料の企画と、上映などチケットが必要な有料企画とがある。

東京都写真美術館3階の展示企画より、ルイーズ・ボツカイの《エフアナへの映画》。アマゾンの奥地、ブラジルとベネズエラの国境地帯の森に暮らすヤノマミ族を紹介するドキュメンタリー作品。枝を切り払いながら森に入りって魚を獲りに行く様子や、室内で赤ん坊を抱きながら編み物をする姿など、カメラはある母親を中心に追っていく。表情を間近にとらえながら、被写体の人物がカメラを意識することはほとんどない。通訳を介した質問がわずかになされる他は、ナレーションも字幕もない。ヤノマミ族の暮らしの中に入り込んだような映像体験が可能となっている。はじめはナタのような道具以外はほとんどが森で手に入りそうなものしか映らない。だが、ゴム製の人形で遊ぶ様子が出て来たり、ラジオ(音楽プレーヤー?)で音楽を聴いたり、と次第に森では得られない道具が登場し、最後の、皆が集まる祭りのような場面では、複数の男たちがケータイらしきもので人々を撮影する様子た映し出される。娘の名前にスペイン語系(?)の響きがあったり、森の外とのつながりはあり、そのつながりへの依存が徐々に強くなっていることが示されている。そして、ラストは、映像が真っ暗となり、伝統的な生活のため森を守るべく戦い続けるという、ヤノマミの長老の、ポルトガル語による演説が紹介される。

東京都写真美術館2階の展示企画より、カロリナ・ブレグワの《広場》。台湾のある街角にある小さな広場にある茂みから、歌声が聞こえたという噂が立つ。茂みの中には彫刻があったはずだと、そんな噂を聞いた住民が、広場に向かい、茂みを確かめる。やはりそこには彫刻があり、その彫刻が歌っていることが判明する。歌を聴くために広場の茂みに集まり始める人たち。彫刻は女性の声で「尋ねたいことがある」と繰り返し歌っている。彫刻の歌を楽しむ人もいれば、彫刻が歌うことを受け容れられない人も、昔からある彫刻がなぜ歌い出すのか訝しむ人もいる。そして、彫刻に対してなぜ歌うのか問いかける者、彫刻が歌うことに対して怒り出す者が現われ始める。状況は一向に明らかにならないまま人々だけが次第に混迷度を深めていく様が描かれる。茂みは植物に覆われて、彫刻の姿が一切映されない点が象徴的で、作中では結局なぜ彫刻が歌うのか、真相は藪の中である。日々確かに存在していながらやり過ごしていた問題が、ある日何かの拍子で明るみに出て、人々が対応を迫られるという状況を描いているのだろう。街中にある彫刻も、人々の目に触れる場所にありながら、なぜそこに存在するのか分からないものがある。視界に入っていながら意識していないという問題を象徴するのに彫刻ほどふさわしいものはなかったのだろう。

東京都写真美術館地階1階の展示企画より、ミハイル・カリキスの《とくべつな抗議行動》。イースト・ロンドンの7歳の子供たちが環境問題について話し合う場面と、仮面劇のような映像とを組み合わせた作品。とりわけ、子供たちが話し合う場面の、個々の発言や表情が素晴らしく、見入ってしまう。

デヴィッド・オライリー東京都写真美術館3階で《エヴリシング》と題されたヴィデオ・ゲームとその解説映像を、同館地階1階で《おながい、なにかいって》というアニメーションをそれぞれ展示している。《エヴリシング》というゲームは、植物や動物などあらゆる生命をプレーヤーが動かすことができるというもの。次々と様々な生物の立場に入れ替わっていくことができるのが、ポイントの1つ。もう一つのポイントは、生命全てに共通する「ダンス」なのだが(コントローラーに「ダンス」という機能のボタンが用意されている)、よく分からなかった(ゲームの操作をマスターできれば楽しめたのかもしれない)。解説映像では、全ての生物のつながりを訴えており、壮大な内容だと分かる。生き物が90度ずつ回転するような変な動きをするのがと、ダンスだとかジャズだとか、マティスみたいな言葉が出て来るのが印象的。《おながい、なにかいって》は、猫とネズミらしきキャラクターをシンプルな造形で描き出し、それでもなお鑑賞者に情動を伝えることができることを証明して見せた作品だという。確かに描かれる場面や呈示される情報は限られ、かつスピーディーに展開していくのだが、ついキャラクターに感情移入してしまう。

恵比寿ガーデンプレイスセンター広場では、さわひらきの《platter》と題されたインスタレーションが展示されている。テントの中に2つの画面が据えられ、室内と世界の果てのどこか(屋外)とを舞台に、脚の生えたやかんやらティーカップやらが歩き回る様が映し出される。付喪神百鬼夜行を見せる見世物小屋のような趣向であろうか。テントの中には不思議な世界に魅せられた者は、広場からテントが消え去ったときに童子に姿を消し去ってしまう、というようなストーリーを抱かせる魅力的な装置である。

展覧会『六本木クロッシング2019展:つないでみる』

展覧会『六本木クロッシング2019展:つないでみる』を鑑賞しての備忘録
森美術館にて、2019年2月9日~5月26日。

日本の現代アートの現況を3年に1度のペースで紹介する森美術館のシリーズ企画の6回目。「つながり」をテーマに、主に1970~80年代生まれのアーティスト25組を取り上げている。

 

会場の入口にのぞくのは、とぼけた顔をしたピンクの巨大な猫のキャラクター、飯川雄大の《デコレータークラブ―ピンクの猫の小林さん―》。カメラで全てをとらえられないように設置することで、写真が現実の一部しか切り取れないことを訴える作品だという。デコレータークラブ(decorator crab)は、周囲にあるものを貼り付けてカモフラージュする蟹のことらしいが、この作品はショッキングピンクで一際目立ち、特に擬態するような装飾もないため、謎を呼ぶタイトルだ。

佃弘樹はドローイングや写真、インターネットで収集したイメージを組み合わせてイメージを再構成した、《Ouroboros》、《The Record 02》を展示している。流木や岩などを床や台に並べた無題のインスタレーションと相俟って、今日的なヴンダーカンマーを呈示しているかのよう。

複雑系・人工生命学の池上高志研究室とロボット工学の石黒浩研究室が制作した機械人間オルタを、映像作家ジュスティーヌ・エマールが撮影した映像作品《ソウル・シフト》。オルタは顔と手のみ皮膚などが備わっっているロボット。機械部品の動作が丸見えで、ぎこちない動きをし、イルカの鳴き声のような音声を発する。だが、子供のような黒目勝ちな目を持ち、顔の筋肉がつくる表情を持ってもいる。2体のオルタからは哀愁が漂う。

一貫して「破壊と再生」と「修復」をテーマに制作をしてきたという青野文昭は、放置された自動車を家具や衣服、本や雑誌、空き缶、樹木などと組み合わせ、家具が徐々に変化して自動車や人物や植物へと変身するかのような、あるいは家具の中に自動車や人が埋まっているのを作家が彫り出すような、不思議な魅力を湛えた作品(《なおす・代用・合体・連置―ベンツの復元から―東京/宮城(奥松島・里浜貝塚の傍らに埋まる車より)2018》)を出展。《なおす・復元―沖縄の村はずれで破棄された車の復元―『GUN』2018》とともに赤い三角コーンが備わっている。赤い三角コーンに込められた作家の思いも気になる。

林千歩は、アンドロイドとの恋を描いた映像作品を中心とするインスタレーション《人工的な恋人と本当の愛-Artificial Lover & True Love-》を展示。ヒロインが轆轤で器を制作していると、アンドロイドが後ろから覆い被さるようにして、ヒロインとともに粘土に手を入れる。「変化」する粘土は男性器のメタファーだろう。映像作品の手前にはアンドロイドの座るデスクが置かれ、その上のモニターでは、ヒロインを窃視するような映像が流れている。周囲に設置された家具や壁には女性下着が飾られる。性的モチーフの氾濫は、アンドロイドや生殖技術が実現する「無性生殖」世界へのアンチテーゼと解される。両サイドの壁に設置された鏡にはどのような意味があるのだろうか。

アーティストユニット「目」は、《景体》と題した、大規模な海のインスタレーション。岸壁に打ち寄せ砕ける波ではなく、海原から切り出したような波を呈示する。どんよりした昏い水は不穏さとともに何かが生まれる予兆を感じさせる、パンドラの筺のようでもある。

今津景の絵画《ロングタームメモリー》はインターネットで手に入れたイメージなどをもとに、生命の誕生や進化、あるいは再生などをテーマにした大画面の作品。情報の神殿のようなものがあるとして、そこに安置される壁画を思わせる。インターネットからイメージを収集する点で佃弘樹の作品に、再生というテーマで榎本耕一の《雨の中の善悪両方神》に共鳴する。また、絵画を壁面から浮かせ、絵画の背景を青く塗り、LEDその他の装飾品を設置する見せ方は、杉戸洋の作品に通じるものがある。

田村友一郎のインスタレーション《MJ》は、50年前のニール・アームストロングの月面着陸(1969年)と、マイケル・ジャクソンムーンウォーク(1983年)とを組み合わせた文明批判の試み。富豪が金に飽かせたところで月旅行ができるかできないかという現状は、「人類にとっては偉大な飛躍」から、(ムーンウォークのように)進んでいるようで後退していると、「γνῶθι σεαυτόν(Know thyself/汝自身を知れ)」との言葉を突きつける。

川久保ジョイは、ギャラリーの壁面に山岳のような絵画を描いている。《アステリオンの迷宮―アステリオンは電気雄牛の夢をみるか?》と題されたこの作品は、人工知能アステリオンによるNASDAQ至上の20年予測を、ギャラリーの壁面を削って塗り重ねられた塗料を曝け出させることで表したもの。少数者による富の独占や世界的な格差の拡大を暴く意図で制作されたものだという。また、グローバル資本主義について、ギリシャ神話のミノタウロス(アステリオス)を足がかりに、ヨーロッパの歴史や自らのルーツなどを交えて解き明かす映像作品《アステリオンのオデッセイ》を上映している。スペインにおけるキリスト教(政治)、イスラーム(学問)、ユダヤ教(金融)の棲み分けや、バイロン卿が私財を擲ってギリシャ独立の英雄になったことでヨーロッパがギリシャの後継者を主張できたことなど、興味深いエピソードが並ぶ。

佐藤雅晴の映像作品《Calling(ドイツ編、日本編)》では、電話の着信音が鳴り、そして鳴り止む場面が次から次へと映し出される。いずれも誰かしらが居合わせていても良さそうな場面に、誰一人存在しない場面であり、そこに何か不穏な空気が漂う。

万代洋輔の「蓋の穴」シリーズは、不法投棄された物を使って制作した彫刻を撮影した写真作品。身代わりとなる人形(ひとがた)、あるいは神の依り代をイメージさせるような彫刻が、人気のない自然の中に鎮座する。

杉戸洋インスタレーション《トリプル・デッカー》。巨大な絵画らしきものが壁面に並んでいる。「絵画らしきもの」とは、一般にイメージされる、キャンバスに絵が描かれているのとは異なって、額縁に当たる部分に布きれが貼られていたり、いくつかの大きな布が画面に張り合わされたりしているからだ。「とんぼ と のりしろ」と題された東京都美術館での個展(2017年)では、作品そのものというより、その見せ方に痺れた。そのため期待が大きかったが、今回は規模が大きかったせいもあってか、とらえきれなかった。

 

「つないでみる」というテーマを掲げているだけあって、多様な作品が並んでいても、まとまりのある印象を受ける企画であった。そして、そのまとまりを生み出しているのは「不在」であるように思われた。作家たちが何らかの不在をとらえ、それを作品へと形象化していると思えたのである。過去に存在したもの(歴史)への眼差し、今、等閑に付されているもの(弱者、不都合な事実、非科学的な存在)への眼差し、将来には存在しなくなってしまっているもの(人間)への眼差しである。

展覧会 デイヴィッド・ホックニー&福田平八郎二人展『二人のカラリストの出会い』


展覧会『二人のカラリストの出会い デイヴィッド・ホックニー|福田平八郎』を鑑賞しての備忘録
ART GALLERY THE CLUBにて、2019年2月16日~3月30日。

デイヴィッド・ホックニーと、彼が来日した際、目にして影響を受けたという福田平八郎の作品とを合わせて紹介する企画。

デイヴィッド・ホックニーの《The Yosemite Suite》から5点が紹介されている。単純な線や点を用いて、印象派の画家が取り組みそうな彩色の風景画を描いている。前景・中景・遠景を明瞭な線や滲むような線などで描き分けていることが明白で、版画の特性を活かし別々の版を組み合わせ、奥行きを出しているのだろうと思った。だが、これらの作品は、版画ではなくiPadで制作したものであった(技法としてiPad drawing printed on paperと記されている)。版ではなく、レイヤーだったようだ。改めて見れば、素人がコンピューターで描くような描線だ(現在のプロのイラストレーターはこんな「CGです」みたいな描線にしないように思う)。枝の先には光の軌跡(残像)であろう黄色い弧のような線が複数あり、太陽の光に輝く葉がそよぐ様を表現しているのがもう一つの特徴。平面の中に空間と時間とを再現しようとしている。
デイヴィッド・ホックニーがもう1点展示されている、プールを描いた作品《Litograph of Water Made of Lines, a Green Wash, and a Light Blue Wash》。この作品の右手には、福田平八郎の、鮎を描いた作品《鮎》が並べられている。ホックニーの作品は明るい日差しの中、プールの透き通る水がつくる細波とそれが水底につくる影とをとらえる。福田の作品は対照的に明るさはないが、鮎が泳ぐ水面に、鮎のように身をくねらせる波が描かれ、波の姿を表す点で共通する。ホックニーが日本で訪れた展覧会には福田の《漣》が展示されていたといい、その影響関係を示すべく並べたのだろう。水面・水中・水底というレイヤー、光・動き・時間というテーマは、ホックニーが新しいメディアに果敢に挑みながら、今日まで取り組み続けているようだ。
なお、福田平八郎の作品は他に《紅梅》、《白桃》、《花菖蒲》、《インコ》の4点が展示されている。

展覧会『奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド』

展覧会『奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド』を鑑賞しての備忘録
東京都美術館にて、2019年2月9日~4月7日(前期は3月10日まで。後期は3月12日から)。


辻惟雄『奇想の系譜』が採り上げる、岩佐又兵衛狩野山雪伊藤若冲、曽我蕭白長沢芦雪歌川国芳に、白隠慧鶴と鈴木其一とを加えた計8名の絵画を紹介する企画(なお、下記で*を付した作品は前期のみ展示される作品)。

冒頭(ロビー階の展示室)は伊藤若冲の作品。会場に入ると、波しぶきをあげる鯨と向かい合う白象とが描かれた、海と陸、黒と白との対比を見せる《象と鯨図屏風》の大画面が目に入る。その向かいには、雌雄の鶏を六曲一双の計12の画面に描き、雄鳥の尾が動きの軌跡のように描かれた《鶏図押絵貼屏風》が展示されている。これらモノクロームの作品に次いで、《旭日鳳凰図》*をはじめとした鳥などを描いたカラフルな作品が続く。鶏や周囲の景物を写実的に描きながらアジサイの花のみ着物の図案のように画一的に描き込んだ《紫陽花双鶏図》、海棠の枝に目白押しのメジロを描くとともに、海棠や辛夷の花や葉を綿密に描き込んだ《海棠目白図》*、虫たちが数多く群がるヘチマの葉に、丸い虫食い穴や変色を描きこんだ《糸瓜群虫図》*などが印象的。
続いて、曽我蕭白の作品。赤い着物を腰に巻いて上半身裸の雪山童子が樹上で腕を広げ、それを樹下で見上げているとぼけた顔の青鬼を描いた《雪山童子図》の印象が極めて強い。虹を描いた《富士・三保松原図屏風》*や、奥行きがあり、眺めているうちに探勝の気分を味わえる《楼閣山水図屏風》*、フェルトペンで描いたような描線がユニークな《虎渓三笑図》*の印象が霞んでしまう。なお、最もアクの強そうな《群仙図屏風》(着色の文化庁所蔵のものも、墨画淡彩の東京芸術大学所蔵のものも)は後期に展示予定。

1階の展示室は長沢蘆雪の紹介から始まる。伊藤若冲の《象と鯨図屏風》と呼応するような《白象黒牛図屏風》が出迎える。それに向かい合うのは金地に孔雀の艶やかな姿を描いた《牡丹孔雀図屏風》、柿の実を抱えてとぼけた表情を浮かべた猿を描いた《猿猴弄柿図》、ナメクジとその軌跡を描いた《なめくじ図》、小さすぎて描いている内容が見えない《方寸五百羅漢図》、意図的なのか、畳目や朱が混じった署名が切迫した緊張感を与える《方広寺大仏殿炎上図》など風変わりな作品が目立つ。黒い牛と一体化したような牧童と闇に溶け込むような牧童とを描き、異界へと紛れ込まされるような《牧童図》*が忘れがたい。
続いて岩佐又兵衛の作品。《山中常磐物語絵巻第四巻》*(同第五巻は後期に展示予定)と《堀江物語絵巻》*は本展のハイライトだろう。とりわけ、金地の襖絵に囲まれた室内で、鮮やかな緑の畳の上に、赤い襦袢の女性の体が後ろ手に縛られたままうつ伏せになり、簀子に斬られた首が転がる、《堀江物語絵巻》における国司の妻の斬首シーンは圧巻。古来、斬首(処刑)はスペクタクルであったことを想起させる。《本性房怪力図》でも見られる、殺戮と笑みという状況が、死への恐怖と興味とを表している。地獄でなぜ悪い
次いで狩野山雪の紹介。《寒山拾得図》*は曽我蕭白に劣らないアクの強さ。拾得が寒山の肩に手を回しているのが何とも。《梅花遊禽図襖》は梅の木が横へ上へ斜めへとガクガクと伸びていく。襖という枠の中で精一杯背を伸ばそうとするならこのように伸びるだろうかと、梅の木の意思を感じさせる作品。版木いっぱいに人物を彫り込んだ棟方志功の作品も想起させられた。《龍虎図屏風》では波と一体化した龍の胴や、波の形に呼応するような虎の縞模様が興味深い。

2階の展示室は白隠慧鶴で始まる。《達磨図》(萬壽寺所蔵)は、似絵よろしく、描き直していったような複数の描線や短い運筆を重ねて表したもみあげなどちびちびと描いている顔と、一気呵成に描き込んだ衣紋との対比が面白い。手のみを大きく描いた《隻手》は「両手をたたけば音がするが、では片手の音はどうか」という公案を絵にしたもの。
続く鈴木其一は《貝図》が出色。無地に数種の貝と梅の実とを描いたもの。梅の実が単純化・図案化されたように描かれているのに対し、貝殻の模様は極めて写実的に描き込むことで、貝のデザインの美しさや不思議さが浮かび上がる。オランダのヴァニタスのように器やテーブルを描きこまず、マネの人物画に通じるような無地の背景にすることによってモダンな印象を見る者に与える。
最後は歌川国芳。最後に展示された、いずれも寺に奉納された作品が印象深い。浅草寺に奉納された《一ツ家》は老婆が童子を殺害しようとするのを娘が留めようとする劇的なシーンを描いたもの。片肌脱ぎの老婆が目玉が飛び出さんばかりに娘をにらみつけ、左手で娘の顎とつかむ。右手には童子を殺害するための刃物が握られている。童子はその首を差し出すかのように首を傾げている。新勝寺に奉納された《火消千組の図》は、描き分けられた大勢の鳶人足の表情が見飽きない。火消しの持つ鳶口がやや斜めに多数描き込まれ、向かい風のようにも見える横に走る木目に対してリズミカルな動きを感じさせる。左上方に画面に溶け込むように小さく描かれた家並みの効果も面白い。

 

江戸時代の絵画の魅力を感じさせる作品が紹介されてはいる。ただし、奇を衒ったような作品が多い。美術史からこぼれ落ちた作家に光を当て、美術史の書き換えを狙ったのが『奇想の系譜』だったようだが、出版から半世紀経った今でも、その認知度が上がり人気が高まったとして、「サブカルチャー」の印象をぬぐい去ることができていないのではないか。これらの作家を美術史に位置づけるのなら、「奇想の系譜」に連なる作家がどの作家の流れを汲み、後世のどの画家に影響を与えているのかを示すべきだろう。あるいは、美術史で「正統」と位置づけられている作品との比較対照があって然るべきではないか。少なくとも、紹介した画家たちの美術史への位置づけについての試論を図録に掲載するすべきであった。本展のサブタイトル(江戸絵画ミラクルワールド)、コピー(江戸のアヴァンギャルド一挙集結!)、ロゴ・デザインをはじめとするポスターやチラシのデザイン、図録の内容(企画趣旨と対談、作品解説はあるが、論文は一本も掲載されていない)に到るまで、美術史の書き換えようという姿勢は全く感じられない。

展覧会 ポーラ・シェア個展『Serious Play』

展覧会『ギンザ・グラフィック・ギャラリー第371回企画展
ポーラ・シェア:Serious Play』
ギンザ・グラフィック・ギャラリーにて、2019年2月04日~3月25日。

グラフィックデザイナーであるポーラ・シェアを紹介する企画。

1階は地図をテーマにした作品16点から構成されている。《Tokyo》は、首都圏の鉄道路線図を描いたようなカラフルな作品。位置関係は大まかには合っているが、厳密ではない。おそらくは英語版の東京の地図や路線図を眺め、文字自体のつくる形や音をもとに、東京に対するイメージを組み立てたのだろう。東京湾が暗い色で塗られていて夜景をイメージさせるのが、地図で海が水色で表現されることに慣れている目に新鮮に映った。同時に、都市部のカラフルなデザインを際立たせる役目も担っている。おそらく、東京以外も同様に、地図の骨格は維持しつつ、思うがままに世界を組み立ているのだろう。

地階では、ポスターを中心に、シェアの作品を紹介している。《Best of Jazz》や《Great Biginnings》はロシア構成主義を思わせるような赤と黒を主体とした文字を力強く組み立てることで魅せる。1つの数字だけを扱う《The Number Series》では、欠けたハンガーを用いた"2"や円と半円(弧?)のみで力強い"9"が印象に残る。ロートレックへのオマージュ作品では、文字と「脚」を用いて、Moulin Rouge La Goulueのダンサーの再現が見事であった。

バナーやチラシからは、レトロなコンピューター・グラフィックスのようなイメージを受けるが、その予想を裏切る作品が並んでいる。1階の地図のシリーズは同じ作家であることが明白だが、地階の作品群はそれぞれかなり異なった作風に見える。作家性を強く打ち出すのではなく、ニーズやテーマに合わせて変幻自在な制作態度を採用しているのだろう。

映画『女王陛下のお気に入り』

映画『女王陛下のお気に入り』を鑑賞しての備忘録
2018年のアイルランド・イギリス・アメリカ合作映画。
監督はヨルゴス・ランティモス(Yorgos Lanthimos)。
脚本はデボラ・デイヴィス(Deborah Davis)とトニー・マクナマラ(Tony McNamara)。

スペインの王位継承をめぐってフランスと交戦中のイギリス。アン女王(Olivia Colman)は死産・流産・早世によって17人の子を全て失い、心身ともに病んでいた。そのため、幼馴染みのサラ(Rachel Weisz)を女官長として、身辺の世話から政務に到るまで万事を彼女に頼っていた。サラは戦争の英雄であるマールバラ公爵(Mark Gatiss)の夫人であり、第一大蔵卿ゴドルフィン(James Smith)とともに対フランス戦の継続を図っていた。そこへサラの従姉妹アビゲイルヒル(Emma Stone)が、サラを頼ってやって来る。サラに軽くあしらわれたアビゲイルは、父が没落したために最下級のメイドとなることしかできなかった。野心溢れるアビゲイルは、女王が脚の炎症で苦しんでいるのを知ると薬草を採取して塗り薬を作り、女王の寝室に入り込んで睡眠中の女王の脚に勝手に薬を塗布する。侵入を知ったサラはアンを罰したが、痛みが緩和した女王が取りなしたため、サラはアビゲイルを女王付きの女官に取り立てる。戦争の早期終結を図る野党トーリー党のロバート・ハーリー(Nicholas Hoult)はサラの影響力を排除すべく、アビゲイルに目を付け、アン女王の側近の動向を探るよう要求する。アビゲイルは、アン女王とサラと間に性的な関係があることを知って、サラにハーリーから接触を受けたことを報告するとともに、二人の隠された関係性を仄めかして自らの忠誠を訴えると、サラはアビゲイルの野心を悟り、二重スパイになるのではないかと訝しむ。

現代は"The Favourite"。アン女王の「寵臣」のことだろう。単数形であることからも、サラとアヴィゲイルが女王からの寵愛を求めて争う物語であることが分かる。とりわけアヴィゲイルが上流階級に返り咲くためにあらゆる手段を尽くす様は見応えがある。アン女王に取り入るために甘い言葉ばかり囁きかけるアヴィゲイルに対し、真の友人を自負し、ずけずけとした物言いをつけるサラの潔さも魅力的だ。そして、サラとアヴィゲイルとのどちらかをとるか決めかねて懊悩するアン女王の物語でもある。とりわけ、寝室に飼っているウサギが、亡くした子供の代わりになっていることが分かると(なおかつステュアート朝の後継者がいない状況を踏まえると)、アン女王の中にある悲哀が前景に立ち現れる。

アン女王については、この映画を見るまで、ほとんど何も知らなかった。手許にあったもので一番詳しい記述は下記の通り。

Anne was a popular queen, plump and unthreatening, proudly English and Anglican, the last of the true Stuarts, and argurably the last traditonal monarch, who "touched" for scrofula ( one beneficiary being the infant Samuel Johnson).  She was able to make important descisions about broad political orientations, and her wishes weighed with Parliament and the electorate.  She even attend debates in the House of Lords to put pressure on its members, and was the last monarch to try to refuse consent to legislation (the Scottish parliament's Act of Security of 1703).  But for reasons of personality, intellect and gender she could not be the head of the executive and commander-in chief like William.  Nor did she wish or attempt to have a brilliant court, like Charles II.  So by choice and necessity William and then Anne hastened the transformation of the English monarchy towards being a symbolic, popular, even familiar institution.
(Robert Tombs "The English and Their Hisotry" Vintage Books, 2016, p.313)

サラがジョナサン・スウィフトの名を出すシーンがある。アン女王の時代は、ジョナサン・スウィフトダニエル・デフォーの活躍した時代なのだった。

どこまでが史実に忠実で、どこまでが演出なのかは、よく分からない。豪奢でときに退廃的な宮廷での余興やダンスのシーンが魅力的。とりわけサラのダンスの振付けや、裸のおじさんにトマトか何かをな投げつけているシーンは明らかに奇を衒った趣向で印象的だった。レンズの歪みを敢えて活かしたり、(画面を切り替えるのではなく)カメラを180度ターンさせたりといったカメラワークも面白い。