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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 片野莉乃個展『Inspiration』

展覧会『2021美の起原展特別賞受賞記念個展 片野莉乃個展―Inspiration―』を鑑賞しての備忘録
美の起原にて、2022年9月21日~27日。

絵画20点で構成される、片野莉乃の個展。

《思い耽る》(φ530mm)は、銀を背景とした円形の画面に、俯く女性の頭部に游泳する一匹の金魚を描く。金魚が背にする女性の髪は、金魚と調和する緑と黄を中心に青などが差され、作家の絵画に特徴的な、胡粉による盛り上げによる点が無数に配されている。目、鼻の影、口、首は、閉じた等高線を思わせる黄や赤の線で表わされる。方の露出する服は金魚の補色に近い明るい水色で、黄の点を遇っている。
《思い耽る》の他に、《迎福》(364mm×61mm)、《回遊》(273mm×220mm)、《遊泳》(273mm×220mm)、《泳ぐ夢》(φ530mm)と、展示作品20点中5点に金魚が描かれており、金魚が重要なモティーフであることは疑いない。
「びいどろに金魚のいのちすき通り」。鈴木克美『金魚と日本人』は、1768年の川柳とともに、その頃江戸で金魚玉と呼ばれた小金魚鉢が作られていたことを紹介する。

 といっても、江戸時代の金魚玉に、たいしてバリエーションがあったわけでもあるまい。当時の絵図に描かれたそれは、ほとんどが球形か、上下にやや平たくした上端を引き伸ばしすぼめて口としただけの簡単な形をしていた。細くすぼめた口も、平らな底もついていない風鈴形の、ごく素朴な金魚玉もあった。それを台や棚の上に置いたり、口径より長い木の棒を内側から横に突っかい棒として当てがい、棒の真ん中に紐をつけ、風鈴と同じような感覚で、軒に吊したり、手に下げて持ち歩いたのだった。
 金魚玉は、初めのうちは、せいぜい、大人のこぶしほどの大きさの小容器だった。大きなものは作れなかったのだろう。そのうちに、だんだん大きな金魚鉢も作れるようになり、加賀屋の引札に描かれているような、床面に置いて使える背が高くて真ん丸な、立派な金魚鉢や、前述の「水燭」も作られた。それはもう、江戸も終わりに近くなってからである。口のへりに青や緑のフリルをつけた、あの金魚鉢も、江戸時代にはまだなかった。
 それでもこうして、金魚鉢のガラス越しに四方八方から金魚が眺められるようになって、錦絵の美女が、手に下げた小さな金魚玉の小さな金魚を見る眼差しにも、金魚への好奇心と親近感が窺われるようになった。見られる側の金魚も、より美しくなったかもしれない。
 小さな金魚ならば安価であるし、小さな金魚玉ならせまい場所にも吊せる。びいどろの中の金魚に目を寄せれば、いっとき、浮き世の憂さも忘れられた。金魚玉の金魚こそ、過密都市江戸文化の申し子だったのではないか。(鈴木克美『金魚と日本人』講談社講談社学術文庫〕/2019年/p.162-163)

《思い耽る》の銀色の円形画面は金魚玉に似つかわしい。女性の頭部の位置に配された金魚は、吊された金魚玉の金魚を想起させる。作家に特徴的な胡粉の点が水の中の泡に見えてくる。そのとき、本展に"inspiration"が冠されている理由が見えてくる。
花々を前に絵画を制作する作家の姿を俯瞰して描いた表題作《Inspiration》(530mm×727mm)からも、"inspiration"が創作の刺激や妙案を意味することは間違いない。だが、そもそも"inspiration"は呼吸や息を吹き込むことに由来する言葉である。胡粉の盛り上げによる点が泡であり、空気であるなら、作家は点描によって作品に文字通り息を吹き込んでいたのである。岩絵具で絵画を制作すること、それは土塊に息を吹き込み人間を造ることに比せられる。

もし神が御自分にのみ、御心を留め
その霊と息吹を御自分に集められるなら
生きとし生けるものは直ちに息絶え
人間も塵に返るだろう。(『ヨブ記』34・14-15)
 共に人間は、土くれから造られ、やがては塵に戻っていくという意味が込められた部分である。(略)例と息吹が、塵に戻るべき運命づけられた人間を、しばらくは戻らないようにしているという意味が見て取れる。それは次の『創世記』の有名な一節と逆向きに対応しているとも言える。
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(『創世記』2・7)
 人間は土くれからできている。その土くれに何かが付け加わるとき、人間は人間になる。そもそもアダムという名前の中に、土という材料の痕跡が潜んでいる。人間は大地からできており、やがて死ぬとき、塵となって大地に戻っていく。(金森修『ゴーレムの生命論』平凡社平凡社新書〕/2010年/p.22-23)

紫の陰の中に色取り取りの花が表わされた《garden》(530mm×727mm)にアダムのいたエデンの園を見ることは牽強附会が過ぎようか。

ところで、映画『川っぺりムコリッタ』(2021)には、金魚が空を泳ぐ魂であると説明されるシーンが登場する。そのエピソードの由来は作中で明確にされないが、パンデミックの最中に制作された映画であることもあり、「金魚提灯」の想定も可能だろう(但し、同映画の原作の出版はCOVID-19の流行以前である)。

 江戸時代の疱瘡はまさに死病だった。そして、患者はほとんどが乳幼児だった。
 魔除けによる回避の祈願も効き目がなく、治療法のない疱瘡にかかってしまった不運な患者は、赤い紙燭を通す赤い光に照らされ、まわり全部を赤ずくめに囲まれて寝かされ、ひたすら病魔が去るのを待つしかなかった。赤い「金魚提灯」をわが子の枕元に吊して、赤いろうそくの灯を灯し、回復を祈願した親たちは、どんな気持だっただろうか。(鈴木克美『金魚と日本人』講談社講談社学術文庫〕/2019年/p.229)

本展では会場の都合で上下に分割して展示されている大作《梅が鳴る》(3240mm×1940mm)では、仏間を俯瞰する構図で捉え、仏壇の香炉から立ち上る煙の中に人物や建物のイメージが表わされている。そこには金魚(=魂)が描かれていない。それは浮遊する金魚(=魂)の視点で描かれているからかもしれない。
翻って、表題作《Inspiration》に改めて目を転じてみよう。俯瞰の構図は、やはり金魚(=魂)の視点なのだ。

 人は原初的な母子関係において、母の眼から見た自分を発見し、それを受け入れる。言語は、母が子の身になって唱えた言葉を反復することのよって個体的に発生するが、それは他者であるもの――つまり母から見た子――を自分として引き受けるということである。言葉を反復することは、他者になることなのだ。他者にならなければ自己にはなれない。そしてこの入れ替えにあたって人は、他者と自分を同時に俯瞰する眼を習得する、身につけてしまう。
 こうして人は、つねに、自己を俯瞰する眼とともにあるということになる。というより、自己とは、自己の身体などではない。この、自己を俯瞰する眼のことなのだ。そしてこの自己を俯瞰する眼は、自己に憑くこともできるが、他者に憑くこともできるのである。人間だけではない、自然物にも、場合によっては観念にも憑くことができる。
 観念にも憑くことができる。そして、憑くことができるということは、実在していると感じることができるということなのだ。
 自己を俯瞰する眼にとって、自己の身体がまるで他者のように感じられることはいうまでもない。自己をはっきりと意識したとき、人は、自分の身体を与えられたものと感じる。なぜ自分は背が低いのだろうとか、もっと美人だったらよかったのにとか、考えてしまう。自分とはこの距離のことなのだ。自分とは自分から離れていることなのだというこの矛盾が、言語として表現されなければならなくなったときに、魂が、霊が、神が発生したと考えることができる。これこそ超越の起源というべきだろう。
 作図能力〔引用者註:自他をともに一望するために脳中に俯瞰図を作成する能力〕がもたらした結び目が、魂であり霊であり神なのである。
 (略)
 この実感〔引用者註:「自分といふものは目がさめたらゐたんですからね」との中原中也の発言〕から、少なからぬ人間が――中也もそのひとりだが――神へと向かうことは指摘するまでもない。俯瞰する眼は、簡単に言えば、死なないからである。作図能力も、ひとつの機能なのだから、死ぬことはない。中也の言葉を用いれば、「目がさめたらゐた」その自分に気づく自分なるものは、要するに実体などではないひとつの仕組――道元に倣えばひとつの機関――なのであって、いわば永遠に属しているのである。
 それをたとえばブランショにならって、死に属するといったもいい。
 私という現象は初めから死に属しているのである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018年/p.423-424)

作家がなぜ金魚を描くのか。それは、金魚が魂であり、俯瞰図を作成する能力であるからだ。金魚こそ描くことそのものなのである。

展覧会 会田誠・曽根裕二人展『-・-・ ・- -・ ・-・・ ・-- -・・- ・・-- -・・ ・・ --- ・---- ・・--- ----- ---・・ 侵攻の記憶』

展覧会『会田誠・曽根裕展「-・-・ ・- -・ ・-・・ ・-- -・・- ・・-- -・・ ・・ --- ・---- ・・--- ----- ---・・ 侵攻の記憶」』を鑑賞しての備忘録
ミヅマアートギャラリーにて、2022年9月21日~10月15日。

モールス信号表記による「ニイタカヤマノボレ1208」をタイトルに冠した、会田誠と曽根裕との二人展。

会田誠《紐育空爆之図(戦争画RETURNS)》(1740mm×3820mm)は、ニューヨークの摩天楼が炎に包まれる中、上空を日の丸の戦闘機が∞の形に旋回飛行する場面を描く。太平洋戦争において、アメリカ軍の爆撃機による日本本土空襲の恨みを晴らす、日本の戦闘機による報復作戦を夢想するものであろうか。と言うのも、作家は「うらみ・ます」と題したエッセイを(タイトルに借用した中島みゆきの「うらみ・ます」の歌詞にある「ドアに爪で書いてゆく」イメージを響かせる)ガリ版で印刷した紙を壁に掲示しているからである。そこで、中学生時代から十五年戦争に関心を持っていたと述懐する。

 僕が心動かされるのは、いつも決まって人々の心だった。平穏な生活を送っていたところに突然侵略者が現れ、生活が根こそぎ蹂躙される被害者、およびそれをやる加害者――双方の現場における極限的な心理状態。(略)
 そんな人間なので、ロシア軍の侵攻が始まりひと月ほど経って明らかになった、いわゆる「ブチャの虐殺」を知った時には、強い既視感に襲われた。(略)僕はとっさに「ああ、また、かつて日本軍が中国などでやったような容易には消えない恨みを生むことをやってしまっている…」と思った。(会田誠「うらみ・ます」より)

日の丸の戦闘機が∞の形に旋回飛行するのも、恨みが無限に続いていくことを表わすのであろうか。「恨み」は「増す」他ないのか。

曽根裕《玉山/新高山 No.1》(610mm×915mm)・《玉山/新高山 No.2》(4000mm×500mm)は、青空を背景に冠雪した玉山山頂をを描いた作品。玉山は台湾を統治していた時代、新高山と呼ばれ、富士山を超えて最も高い山であった。真珠湾攻撃を命じた暗号電文「ニイタカヤマノボレ1208」に登場する山である。富士山から新高山へ。より高みを目指す運動は、帝国主義の膨張政策と資本主義の拡大と軌を一にする。なおかつ、絵画が複数化しているのも、資本蓄積を思わせる。2枚の絵画の手前には、雪玉を模した、やや歪な白い球体《Snowballs》が置かれている。雪玉は雪合戦を介して戦争のイメージを招き寄せるより、転がって次第に大きくなっていくことから、やはり帝国主義や資本主義を連想させる。

両作家の作品を併せ見ることで、資本主義、帝国主義、戦争、恨みが蓄積されていくイメージが生まれる。
ところで、会田誠は、「うらみ・ます」とともに「海のCURE」というエッセイを掲示している。すぐ治ると思われた皮膚炎が「腹に背中にとその赤黒い領地を広げ続け」、「もはや全身が痒い感じで、とうてい安眠などできない」悲惨な事態に至り、医師も有効な手立てを講じられない中、海水浴に縋ることにした顚末を描いている。作家は、波打ち際に対して平行になるよう海中を歩行することを繰り返す治療法を編み出し、見事に治癒させたという。ここで、拡大を続けた皮膚炎とは、資本主義、帝国主義、戦争、恨みのメタファーであろう。作家は、それに対して海水浴(海中歩行の繰り返し)という対処法を提示するのである。
再び、《紐育空爆之図(戦争画RETURNS)》に目を向けよう。高さを競う摩天楼こそ、資本主義、帝国主義、戦争、恨み――ひいては皮膚病――の象徴である。ホログラムにより輝く「日の丸」の戦闘機は、「太陽」光線の象徴であり、紫外線により皮膚病を治療すると言うのか。そうではない。確かに海水浴に日光浴は付き物であるが、ここでは、やはり海水に着目すべきである。描かれた戦闘機は(おそらく)日本「海」軍の「零」式艦上戦闘機である。零戦が∞の旋回飛行をするのは水の循環を表わしている。富士山から新高山へに象徴される、より高みを目指す運動を冷却するのは、山頂に降り積もる雪である。雪は融け、川となって、海に流れる。まさに水に流すこと(=零)になる(ウィリアム・ケントリッジの"FORGIVE"に通じよう)。海で水は蒸発し、再び雪となって降るだろう。冷静になって、水に流すことの繰り返し。それが作家の提示する治療法であった。

映画『秘密の森の、その向こう』

映画『秘密の森の、その向こう』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のフランス映画。
73分。
監督・脚本・衣装は、セリーヌ・シアマ(Céline Sciamma)。
撮影は、クレール・マトン(Claire Mathon)。
美術は、リオネル・ブリゾン(Lionel Brison)。
編集は、ジュリアン・ラシュレー(Julien Lacheray)。
音楽は、ジャン=バティスト・デ・ラウビエ(Jean-Baptiste de Laubier)。
原題は、"Petite maman"。

 

鉛筆を手にする老女。アレクサンドリア。傍らに座る少女・ネリー(Joséphine Sanz)が口に出す。老女がクロスワード・パズルに文字を書き入れる。またね。ネリーは老女に別れを告げる。サロペットの少女は少しだけ脚が悪い。廊下に出たネリーは隣の部屋に立ち寄り、そこにいた老女にまたねと告げる。その部屋を出ると隣の部屋へ行って、老女にまたねと告げる。その隣の部屋では母親(Nina Meurisse)が部屋の片付けをしていた。ママ、杖をもらってもいい? いいわよ。母親は窓際に腰を降ろすと、窓から外をぼんやり眺める。娘に背を向けたまま。
ネリーが後部座席に横になって待っている。車の外では、白いバンに荷物を積み込んだ父親(Stéphane Varupenne)がドアを閉め、母親を抱き締めた。母親が自動車の運転席に乗り込む。シートベルトして。白いバンに続いて老人ホームを後にする。お別れはしたの? またねって言ったよ。母親の運転する車は、黄色く色づいた木々の中を抜けていく。おやつ食べていい? いいわよ。スナックをいくつか口にしたネリーは運転席の母親の口元にスナックを差し出す。いくつか食べさせると、飲み物を差し出す。ネリーが母親の首に手を回す。
夜。祖母の家に到着。母親は口にライトを銜え、ネリーを抱きかかえてドアを開ける。着いたわよ。部屋に入った母はネリーを降ろす。ママの部屋はどこ? そこの右側。かつての母親の部屋は、隅にベッドが置かれているだけで寒々しい。ネリーがベッドに横になる。
朝。ネリーがベッドで目を覚ます。部屋を出る。リヴィングには覆いを掛けられたソファがある。キッチンに向かうと、父親が冷蔵庫を運び出そうとして、諦めていた。テーブルの上にはネリーの朝食が用意されている。おはよう。ネリーがテーブルに着いて食事を取り始める。ママ、小屋はどこにあったの? 裏の森の中。案内してよ。やらなきゃいけないことがあるの。3本だった、それとも4本? 4本。四角で? そう。私も作りたい。小屋って何? 小さい頃、ママが作った小屋。パパは覚えてないわ。父親が食器棚をずらすと、塗り残された古い壁紙が見えた。パパたちが壁を塗ったんだ。覚えてる、マリオン? ええ、覚えてるわ。行くね。朝食を終えたネリーはキッチンを後にする。
マリオンは勝手口を出て、裏に広がる森へ。地面は黄色い落ち葉に覆われている。大きな木が倒れて根を見せている脇を抜ける。やや開けたあたりで切り株に向かって、木の実を拾って投げてみる。切り株に座って笛を鳴らしてみる。
夜。母親の部屋。母親がノートの山を前に1冊を手に取り眺めている。それ何? ママが子供の頃の。お祖母ちゃんが全部とっておいたの。字を書くの得意じゃなかったんだね。でも絵を描くのは上手。そう思う? 煙草を吸ってるキツネ、すごくいい。そうね。持って行くのは気が滅入るわ。ベッドの下の収納に入っていた棚に気付いたネリーが取り出し、壁に立て掛ける。ネリーが木の実を並べる。私も森に行ったの。母親も木の実を置く。もう寝ないと。ネリーはベッドに行くよう促される。
ネリーは母親と一緒にベッドに入っている。ママはこの部屋が好きだった。だけど夜は嫌だった。何で? 小さかったから。私は子供だけど嫌じゃない。もう、おねんねの時間よ。寝るときになるとあれこれ聞くのよね。ママに会える時間だから。待たなきゃ駄目。待つって何を? 真っ暗なのに慣れるために。そんなときに現れるの。黒豹がね。ベッドの端っこに。心臓がドキドキするのが聞こえるの。どんどん大きくなるのが。自分の音だったんだけどね。見える? 見えない。私も見えないわ。
ネリーが目を覚まし、ベッドを抜けて台所に向かう。グラスに水を注いで飲む。塗り残された昔の壁紙に目が留まる。ネリーはグラスを持ってリヴィングに向かい、母親のソファーの脇にグラスを置く。ネリーはソファーに潜り込む。私も哀しいよ。何で? お祖母ちゃんにまたねって言えなかった。いつもまたねって言ってたじゃない。最後のはちゃんとしてなかったよ、最後だって思わなかったから。お祖母ちゃんだってそんなの分からなかった。ママたちだって分からない。ママの言うとおり、分からないけどね。どう言えば良かったの? またね。またね。
朝。リヴィングのソファで目を覚ますネリー。母親の姿はない。キッチンに行くと父親の姿だけしかない。テーブルに着くと、父親がシリアルの入ったネリーのボウルに牛乳を注ぐ。リヴィングで寝たの。ママと。ああ、そう言ってた。ママは悲しんでる。分かってるよ。ママはね、今朝出て行くことにしたんだ。その方がいいと思った。仕事があるよ。何? 廊下にある収納。片付けが終わったらすぐにママに会いに行こう。
ネリーが廊下の扉を開ける。雑多なものが棚に並んでいる。その中にラケットとボールの玩具があった。パパ、これ何? パドルボールだよ。打ったらボールが戻ってくるようになってるんだ。1人で遊ぶためのもの? まあ、そうだね。私にぴったりね。
ネリーは早速裏庭に行き、パドルボールで遊び出す。ラケットでボールを全力で叩く。古い代物なので、何度か打ったところでボールが紐ごと森の中へと飛んで行ってしまった。ネリーが森の中へ入っていく。すると、大きな木を引き摺っている女の子(Gabrielle Sanz)がいた。彼女はネリーに気付くと、大きく手を振った。手伝って!

 

ネリー(Joséphine Sanz)の祖母が亡くなった。ネリーは母親(Nina Meurisse)と父親(Stéphane Varupenne)とともに祖母の入所していた老人ホームの部屋を引き払い、祖母の住まいの片付けをする。母親から子供時代に家の裏に広がる森で小屋を作って遊んだと聞いていたネリーは自分も小屋を作りたいとねだるが、やらなくてはいけないことがあると母親は一緒に遊んでくれない。ネリーは1人森へ行く。哀しみに沈む母親は思い出の多い家に耐えられず、一足先に立ち去った。父親が片付けを続ける中、ネリーは裏に広がる森に遊びに行くと、大きな木を運んでいる少女(Gabrielle Sanz)に出会う。ネリーは彼女に手伝うように頼まれる。彼女は大きな木の間に沢山の木を立て掛けて、小屋を作っていた。

祖母の死で鬱ぐ母親を励ます健気な娘。母親が子供時代を過ごした祖母の家に滞在する中、母親が自分と変わらない年齢だった頃のことを実感していく。
冒頭、クロスワードパズルを埋める単語「アレクサンドリア」。図書館のイメージを介して、記憶ないし過去を辿る旅に向かう予兆となっている。
家具を動かしたことで現れた古い壁紙は、過去へのポータルだろう。
森の中に木を立て掛けて作った小屋は、紅葉した葉で飾り付けることで、焚き火のイメージを形作った。Céline Sciamma監督は『燃ゆる女の肖像(Portrait de la jeune fille en feu)』(2019)でも祭りでの焚き火に女性同士の結び付きをもたらす役割を担わせていたのが思い出される。円錐状の小屋(=焚き火)のイメージは、池に浮かぶ四角錐の構造物で繰り返される。
2人の少女がケタケタと笑いながらクレープを作るシーンが印象深い。
本作に関心がある向きには、作風は似ても似つかないが、コメディの『こんにちは、私のお母さん(你好,李焕英)』(2021)の鑑賞をお薦めしたい。

展覧会 小林明日香個展『reproduction』

展覧会『小林明日香個展「reproduction」』を鑑賞しての備忘録
RISE GALLERYにて、2022年9月3日~23日。

同じモティーフの変奏による作品や、版画・写真・模写といった複製に関わる技法を用いて制作された作品などで構成される、小林明日香の個展。

《picture frame 3-a》(460mm×390mm)は、額装された向日葵の絵が別の額装された絵に重ねられ、さらにそれが別の額の絵に重ねられることで、結果的に3つの額に囲まれた向日葵の絵が印刷された布の周囲に、4枚の紺色の布切れを額のように縫い付けた作品。描いた絵を撮影(印刷)し、加工して額装し、それをまた印刷して額装して加工し、と繰り返し加工を重ねている(同じ向日葵を描いた絵画の印刷された画像を切り貼りした作品が併せて展示されている)。

 (略)わたしたちが、絵に描かれた何らかの風景を観ているとしましょう。このときわたしたちは、この風景を誰かが描いたということを知っています。したがって、この風景画を描いた画家と当の風景画がともに描かれた絵を、さらに想像することができます。しかし、この絵もやはり描かれたものです。それも、当の絵に描かれている画家によって描かれたものではありません。絵に描かれた画家は、絵のなかに描かれている絵を(絵のなかで)描いているにすぎません。そこでわたしたちは、もともとの風景画を描いている画家が描かれている絵を描いている画家が描かれている絵を想像することができる――これが無限に続きます。無限背進です。
 すべてを描いている画家は、自らが描いている絵の制作にさいして、まさに当の絵を制作している自分自身を描くことができません。絵に描かれた画家は、それを描いている画家と、けっして完全に同じではありません。(マルクス・ガブリエル〔清水一浩〕『なぜ世界は存在しないのか』講談社講談社選書メチエ〕/2018年/p.112-113)

3重に額装された絵をさらに布で額装した《picture frame 3-a》は、個々の画面を作成している画家の存在を想起させる。「すべてを描いている画家は、自らが描いている絵の制作にさいして、まさに当の絵を制作している自分自身を描くことができ」ないということを作品化した作品と言える。そして、隣に展示されている、《picture frame 3-b》のイメージを1枚の和紙に描き出した作品《picture frame 3-b》(530mm×410mm)によって「すべてを描いている画家」の存在が立ち現われることになる。

また、その中心に描かれているのが向日葵であることに着目すれば、太陽を介して、光をモティーフとした絵画と捉えることもできよう。

 (略)太陽光までをも描かれるべき積極的な対象としたいという、印象派の強い欲求は、〈近代的主体〉の産出の条件となった「無限回の告白」と同じ衝動に導かれている、ということだ。(略)
 (略)今ここであらためて注目しておきたことは、どうして、告白は終わることなく反復されるのか、(略)である。それは先立つ子空白(n回目の告白)を可能なものとしている超越論的な条件は、その後の告白(n+1回目の告白)にとっては、告白の主題、告白されるべき内容へと転じていくからである。告白にとっての超越論的な条件とは、もちろん、〈語る私〉である。〈語る私〉は、そのたびに、「語られる私」へと変換されるが、変換しても変換しても、なお、語り尽くせない残余として残る。いずれにせよ、告白にとっての超越論的な条件、「私」が何であるかということを語るという経験を可能なものとする条件を、何としてでも、語られるべき内容へと変換しなくてはならないという執念がなければ無限回を指向する告白など、起こりようがない。
 (略)
 さて、今、絵画に、あの無限の告白と同じ衝動が転移されたとしたら、どうなるだろうか。絵画を描くという体験そのものにとっての超越論的な条件〔引用者註:光〕が、描かれるべき積極的な主題へと転ずるとしたら、どうなるか。それこそ、何としてでも、光を、そのままキャンバスの上に再現しようという、印象派の方法になるはずだ。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学〉 近代篇2 資本主義の父殺し』講談社/2021年/p.228-229)

《picture frame 3-b》は、額装された絵の入れ籠の構造を描くことで、絵画の存在自体を表現した作品と言えるのではないか。そこに繰り返される額は、合わせ鏡の映像のようである。「私」は、無限に「私」を映し出す。「私」のリプロダクションを生成する。だが、鏡との間に距離が存在する以上、鏡像には(それがどんなにか僅かなものであっても)反射に要する時間のズレが生じる。常に描き尽くせない残余が存在する。その不一致そのもの、すなわち私という主体が問題とされているのだ。

展示室の一番奥に掲げられた《river bank》(606mm×1454mm)は、右側に画面上部(奥)の風車などが立つ河口方面に向かうゆったりした広い流れを青い絵具で描き、左側に彎曲する川岸を木製パネルの白い生地を活かして明るく表現している。画面手前の川岸には、右に向かって口ないし嘴を伸ばす獣ないし鳥の頭部のような流木が大きく表わされている。鉛筆による描画、コピー用紙の貼り付け、パネルの削り込み。とりわけ目を奪うのは、大胆に貼り付けられた2つの木片である。
展示の冒頭を飾る《map》(415mm×375mm)においても、地図を貼った画面や側面に、やはり地図を貼り付けた木片を貼り付けていた。
これらの作品における木片は一体何を示すのであろうか。絵画に付加され、絵画を立体的な作品にすることによって、絵画の平面性に矛盾を生じさせる、絵画における過剰であろうか。作品を〈物自体〉に擬えるとき、過剰である木片は主体そのものの表現になっているのではないか。そうすれば、《river bank》や《map》を――あるいはエアマシンフックを取り付けた《seaside》なども――《picture frame 3-b》と通底する作品であると理解できるかもしれない。

 (略)近代科学の多くの分野において、現実という〈物自体〉は数学的な形式化によってのみ把握できる。ヘーゲルの側、つまり「女性の」側から見ると、現象の領域はすべてではない。そこには例外はなく、その外部に〈物自体〉は存在しない。と同時に、そこは、矛盾に満ちていて、敵対による亀裂が入っている領域である。したがって、そこには何らかのかたちで主観的にゆがめられていない物は存在せず、この現象の領域における亀裂と矛盾を通じて〈物自体〉を認めることができる。言い換えれば、現象のあらゆる領域には、不可能な点、〈物自体〉を示す点が存在するのだが、この点――「絵についた染み」――は、主体の手を逃れる超越性の徴ではなく、まさに主体それ自身の代わりであり、絵に書き込まれた主体なのである。それゆえ次のようなパラドクスが生じる。主体は、〈物自体〉という円環に囚われてはおらず、〈物自体〉に到達できるのだが、この〈物自体〉との特権的な接触そのものが、主体であり、かつ主体が現実に書き込まれる点としての現実における亀裂である、というパラドクスである。〈物自体〉に到達するためには、みずからが書き込まれた跡のすべてを消すべきではない、そして主体が介入できないところに「それ自体で」存在する物を知覚しようとすべきではない――そういうことをすると、主体は、その純粋に知的な産物である抽象的な構築物(たとえば物理学における数式)をますますたくさんつくり出すようになる。ここで再びヘーゲルの口を借りて言えば、問題とはそれ自身の解決である。つまり、リアル(現実的)なもの(〈物自体〉)は、「客観的現実」における、主体の現前によって生じるゆがみそのものに位置付けられる、ということだ。「客観的現実」に適合しない過剰は、究極的には主体そのものなのである。(スラヴォイ・ジジェク中山徹・鈴木英明〕『性と頓挫する絶対 弁証法唯物論トポロジー青土社/2021年/p.506-507)

映画『LAMB ラム』

映画『LAMB ラム』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のアイスランドスウェーデンポーランド合作映画。
106分。
監督
ヴァルディマーシ・ヨハンソナー(Valdimars Jóhannssonar)。
脚本
シーグルヨン・ビルギル・シーグルソンSigurjón Birgir Sigurðsson)とヴァルディマーシ・ヨハンソナー(Valdimars Jóhannssonar)。
撮影は、イーライ・アレンソン(Eli Arenson)。
美術は、スノッリ・フレイル・ヒルマルソン(Snorri Freyr Hilmarsson)。
衣装は、マルグレット・エイナルスドッティル(Margrét Einarsdóttir)。
編集は、アグニェシュカ・グリンスカ(Agnieszka Glinska)。
音楽は、ソーラリン・グドナソン(Þórarinn Guðnason)。
原題は、"Dýrið"。

 

アイスランド。吹雪の高原。馬の群れが遠くに見えてくる。1頭が移動すると、それに合わせて仲間が付いて移動していく。斜面を下った先に畜舎があるのが視界に入る。
1匹の羊が窓から外を眺めている。扉が開く音がする。羊たちが一斉に扉の方を向く。1匹の羊が倒れる。ラジオのスイッチが入る。
台所でマリア(Noomi Rapace)が窓の外をぼんやりと眺めている。夫のイングヴァル(Hilmir Snær Guðnason)が食事の準備をするのに気付いて、マリアも皿を食卓に運ぶ。ラジオから賛美歌が流れる。
切り立つ峰を臨む高原の牧場。マリアは牧草地でトラクターに乗っている。イングヴァルは牧羊犬とともに畜舎に入り、ラジオのスイッチをれると、清掃を始める。イングヴァルが新たな干し草を運び入れると、すぐさま羊たちが食べ始める。イングヴァルは犬を連れて牧草地へ向かう。
犬とともに帰宅したイングヴァルは作業着を脱ぐ。犬を部屋に入れて餌をやる。丁寧に手を洗った後、俎板に向かい羊肉とジャガイモの炒め物を作る。猫も餌の時間だ。
畜舎。イングヴァルが母親を押え、マリアが仔羊を引っ張り出す。母親はすぐに産み落した仔羊を舐める。仔羊はすぐさま脚を踏ん張って立とうとする。
マリアとイングヴァルが食卓を囲む。時間旅行が可能らしい。そうなの? どうやって? 理論上の話さ。それなら実現しようとしてるんじゃない? おそらくな。未来を見ようなんて気は無いさ。今のままで幸せだから。過去に戻れたらいいのに。ああ、そうだな。
畜舎でマリアが1人で羊の状況を確認をしている。家に戻ると、イングヴァルは窓際の椅子で眠っていた。レコードは曲が終わって回転したまま。上の畜舎は確認しなかったから、そこから始めて。マリアが夫に伝える。マリアは寝室に向かい、シーツに包まって眠る。
畜舎。イングヴァルが盥に水を注ぎ、羊に呑ませている。続いて干し草を与えて食べさせる。イングヴァルはテーブルで手帳に記録を付ける。
自宅。食卓で読書していたマリアは、本を伏せ、コーヒーを飲み干すと、立ち上がって出て行く。
畜舎。マリアが生まれた羊の耳に穴を開け、イングヴァルから渡されたタグを取り付ける。作業を終えた2人。順調ね。去年よりも。段々良くなってる。トラクターが聞き慣れない音を立ててるの。分かった。植え付けの前に確認した方がいいな。
犬が吠え立てる。マリアとイングヴァルが畜舎に入る。いつものようにイングヴァルが母親の羊を押え、マリアが仔羊を取り出す。仔羊の姿を見て、2人は動揺する。鳴き声も他の仔羊とは異なっている。マリアは仔羊を抱きかかえると、畜舎から連れ出す。
峰に大きな雲がかかっている。洗濯物が強い風で翻る。
食卓の傍らに置いた盥には仔羊が寝かされている。マリアがその頭を撫でている。イングヴァルが哺乳瓶に牛乳を用意して、マリアに手渡す。マリアは哺乳瓶を仔羊の口の持って行くと、仔羊が懸命に飲み出す。

 

アイスランド。イングヴァル(Hilmir Snær Guðnason)とマリア(Noomi Rapace)は、人里離れた高原の牧羊地を2人で切り盛りし、平穏で幸せな生活を送っていた。ある日、羊の分娩介助を行っていると、2人は姿を現わした仔羊に動揺する。2人はその仔羊を自宅に移し、アダと名付けて育て始める。

(以下では、全篇について言及する。)

冒頭、吹雪の中、畜舎に侵入する者の姿が描かれることなく呼吸音で示唆される。そして、畜舎の窓から外を覗く1匹の羊が映し出される。この羊が侵入者によって妊娠させられることが暗示される。続いて、台所から外を眺めるマリアの姿が映し出される。妊娠させられる羊と同じように映し出されることで、マリアとその羊とが重ね合わされる。
イングヴァルの弟ペートシュ(Björn Hlynur Haraldsson)が突然牧場に戻って来る。イングヴァルはペートシュを運の悪い奴だと寛容だが、マリアは警戒している。実際、ペートシュはマリアに対して好意を持っており、関係を持つ機会を常に狙っている。ペートシュは冒頭の侵入者に重ね合わされる。
マリアとイングヴァルが、ある羊(羊の区別が付かないが、おそらく冒頭で侵入者によって妊娠させられた羊)から生まれた、他とは異なった姿の仔羊をアダと名付け、実の娘のように育て始める。実は2人にはアダという娘がいたが、亡くしていた。
侵入者によって妊娠させられる羊とマリアとが重ね合わされるなら、亡くなったアダと仔羊アダもともに侵入者の子ということになる。すなわち、亡くなったアダはマリアとペートシュとの間の子であったことになる。それは、酔ったイングヴァルがマリアとのハンドボールのようなをゲームをした際、マリアにシュートを許してしまうこと(隙を突かれてしまうこと=間男)でも暗示される。
夫婦の間で時間旅行が話題になった際、マリアが過去に戻りたがっていた。ペートシュとの過ちを無かったことにしたかったからたろうか。あるいは娘のアダが生きていた時代に戻りたかったからだろうか。
マリアは羊のアダの母親である羊が度々家に姿を現わすので射殺してしまう。羊のアダの母親の地位を簒奪する。他方、マリアは、ペートシュも家から追い出す。マリアはイングヴァルと羊のアダとの家庭を再び築いたかに見えた。だが、マリアは自らの過ちの報いを受けることになるだろう。
アイスランド語の原題"Dýrið"は羊ではなく、より広く動物ないし獣を指す言葉のようだ。邦題は英題"Lamb"を採用している。英題にはキリスト教的なニュアンスが加わっているようだが、どうだろう。