可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『ひらいて』

映画『ひらいて』を鑑賞しての備忘録
2021年製作の日本映画。121分。
監督・脚本・編集は、首藤凜。
原作は、綿矢りさの小説『ひらいて』。
撮影は、岩永洋。

 

地方都市にある高校の、早朝、まだ誰もいない教室。
「3月生まれは変わり者ばかりだと言っていましたね。ロックスターのように27歳で死ぬなんて思っている人たちばかりの中で、私は1人長生きしそうです。…」
芝生では選抜された3年生の女子生徒が、学園祭の演し物のダンスの練習をしている。途中で、新藤美雪(芋生悠)がふらつきながら群舞の輪から離れていく。前列中央で踊っていた木村愛(山田杏奈)が美雪の後を追う。美雪は校舎裏で倒れていた。愛が駆け寄ると、朦朧としている美雪は辛うじて「ジュース」と発した。愛は慌ててジュースを買ってくるが、コップを口に持っていっても美雪は口にすることができず溢してしまう。愛はジュースを口に含むと、美雪に口移しする。意識を取り戻した美雪は、保健室に一緒に行こうという愛を残して立ち去る。愛は美雪が落としていた個包装の飴を拾うと、開けて口に放り込む。
保健室で横になっていた美雪がベッドから起き上がりカーテンを開けると、養護教諭の守屋(木下あかり)から自分の代わりに肘を擦り剥いた西村たとえ(作間龍斗)の手当をして欲しいと頼まれる。微笑む美雪。
国語の授業。藤谷(河井青葉)に指名され、たとえが立ち上がり教科書を声に出して読む。学園祭で展示するオブジェに飾り付ける折鶴を作る「内職」をしていた愛は、作業を中断して、朗読するたとえの姿を斜め後ろの席から眺めた。
放課後。ゴミ集積所にゴミ箱を運んでいた愛は、階段の脇の隙間に立って1人手紙を読んでいるたとえの姿に気が付いた。愛はゴミ箱から手を離す。階段を転がったゴミ箱は廊下にゴミを散乱させた。たとえがすぐに箒とちりとりでゴミを片付けるのを手伝ってくれた。たとえっていい名前だね。どういう意味? …さあ。普通聴かない、名前の由来? …そうかな。"example"じゃない方の「譬え」じゃない? ゴミを回収し終えると、たとえは立ち去る。
竹内ミカ(鈴木美羽)に声をかけられ、愛は自転車を走らせて予備校に向かう。校舎で落ち合った多田健(田中偉登)にミカが手作りの弁当を渡すと、愛はミカと別れ、健とともに教室へ向かう。ミカは2人より易しい内容のコースを受講していた。授業が終わり、愛はミカとともにゲームセンターに立ち寄る。健たち3人の男子生徒と合流したところ、健の電話に校舎に侵入して試験問題を盗もうと悪友から連絡が入る。愛が行きたいと関心を示したため、健とミカと愛の3人が夜の校舎へ向かうことになった。フェンスを乗り越え、校舎の開いた窓から校舎に侵入する生徒たち。職員室を目指す同級生を尻目に、愛は1人自分の教室を目指す。

 

高校3年生の木村愛(山田杏奈)は、同じクラスの西村たとえ(作間龍斗)に恋心を抱いている。物静かなたとえには恋人がいないと思っていたが、ある日、新藤美雪(芋生悠)と密かに交際していることを知る。愛は美雪の様子を密かに探り、彼女との距離を縮めていく。

以下、全篇について触れる。

成績優秀、容姿端麗な木村愛(山田杏奈)は、学校行事にも熱心に参加し、大学入学も学校推薦型選抜での合格をほぼ確実にしている。学園祭のためのダンスの振り付けや、クラス展示のオブジェのための折鶴は、愛が理想型な形を実現していく人物であることを象徴している。
愛は、西村たとえ(作間龍斗)に想いを寄せている。だが、たとえが手紙を読んでいる姿を見たことをきっかけに、たとえが別のクラスの新藤美雪(芋生悠)と密かに交際していることを知る。愛は美雪の姿を追い、糖尿病で苦労していることを知ると、化学室で密かにインスリン注射している美雪に近づき同情を示す。
愛は、美雪からたとえとの関係について詮索するが、自分の情報は一切伝えようとしない。また、愛は、友人の竹内ミカ(鈴木美羽)が恋している多田健(田中偉登)が自分に恋心を抱いているのを知って、敢て恋愛対象ではない健との距離を詰める。空虚な愛は、自分に対する関心を持つ状況を周囲に生じさせることで自分の型(たとえが言うところの「全体的に噓」という虚構)を保ちつつ、その殻の内側に他者を侵入させようとはしない。愛は「とじて」いる存在である。だが、たとえや美雪に接するうちに、いつしか愛の型が溶かされていくことになる。なお、たとえや美雪は愛との関係で変化することは無く、「触媒」のようである。その結果、愛は、自分の気付いていなかった感情に目を「ひらく」ことになるだろう。
主要キャストの3人はいずれも良かったが、とりわけ芋生悠が印象に残る。彼女に感心のある向きは、是非、映画『ソワレ』(2020)を鑑賞されたい。

展覧会 加賀谷真秀個展『part of yours』

展覧会『加賀谷真秀個展「part of yours」』を鑑賞しての備忘録
BLANKにて、2021年10月19日~24日。

主に赤、黄、白の系統の絵具を荒々しく塗った画面に、スラブセリフ調の書体で"skin"と記した絵画シリーズ30点で構成される、加賀谷真秀の個展。

正方形または縦長の画面に、ラズベリーのような赤、レモンのような黄、クリームのような乳白色やマロンクリームのような象牙色などの絵具が荒々しい筆跡も生々しく塗り込められている。それぞれの絵具は分割迷彩のように斑に塗り分けられつつ、重ねられたり混ざり合ったりする部分もある。セリフ付きの肥痩のない線で"skin"という文字が最後に刻み込まれている。絵具が支持体を覆うことに着目すれば、描かれたもの=皮膚(skin)と言えよう。

 (略)初期の多細胞生物はクラゲのような動物であっただろう。彼らの「皮膚」は環境に接していて、海水の温度、流れ、pHのような因子を感知するシステムは体表にあり、中枢を持たない神経網も全身に広がっている。人間の大脳にあたるような学習や記憶を担う受容体も彼らは持っている。つまり多くの感覚器、情報処理システムの基礎は、まず体表にあった。
 しかし、その後の進化で、脊椎動物では、魚類が全身をウロコで覆った。さらに陸棲動物になると、前述のように皮膚表面をウロコ、羽毛、体毛で覆うようになり、感覚器は眼、耳、鼻、舌に集約されるようになった。同時に体表にあった感覚器は、その役目を失った。
 しかし、それらの感覚器は存在し続けたようだ。体毛を無くして再び環境に直接触れることになった皮膚で、それらは作動し始めた。
 特に注目すべきは皮膚の表層にある表皮だ。この表皮はケラチノサイトという細胞で構築されている。表皮の深い場所で生まれたケラチノサイトは、次第に形を変えながら皮膚の表面に向かい、やがて死ぬ。平たくなって死んだケラチノサイトが、角層を作る。前世紀までは表皮の役割は角層を作ることだけだと考えられていた。
 しかし今世紀の初め、ぼくたちは、42℃以上の熱、トウガラシの辛味成分カプサイシン、酸によって作動されて痛みを感じるスイッチ(受容体)であるTRPV1がケラチノサイトに存在し機能していることを証明した。それがきっかけとなって、ぼくたちや海外の研究者たちが、様々な環境からの刺激を感知する機能を表皮、ケラチノサイトが持っていることを明らかにしてきた。
 たとえば、電磁波である光、色、電気、時期、あるいは音(超音波も含む)、温度、大気圧、空気中の酸素濃度、突かれたり触れられたりする刺激などの物理学的な現象すべてを感知する応力を表皮、ケラチノサイトは持つ。さらに嗅覚、味覚に関係する様々な分子を識別する能力も持つことが明らかになった。
 表皮は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感すべてと、目や耳で感知できない紫外線、超音波、気圧の変化、磁場などまで感知できる驚くべき感覚器官なのだ。
 さらにぼくたちはケラチノサイトに、大脳の情報処理の基礎となる情報伝達物質、それらによって作動される受容体も存在し、機能していることも発見した。これは、よく考えれば不思議ではない。受精卵が人間の形になる最初の段階で、外胚葉、中胚葉、内胚葉と呼ばれる3つの部分に分かれる。外胚葉は表皮になる。それがくぼんで溝を作り脊椎になり、その末端が膨れて脳になる。目や耳、鼻や舌のような感覚器も外胚葉からできる。
 そう考えると、まず表皮に様々な感覚器、情報処理システムがあり、それから脳や神経系、感覚器が作られるとも言える。それは数億年前の進化の過程でもあっただろう。クラゲのような原始的な動物は身体の表面に感覚器を持ち、能はなく、体表に広がる網状の神経系を持っていた。それが魚の祖先になるとき、神経系は束になり、目や耳や鼻の起源になる感覚器になった。表皮に感覚器や脳にあるような受容体がある、というより、表皮にあった感覚器や情報処理装置が、眼や耳や鼻や脳になったと言うべきだろう。(傳田光洋『サバイバルする皮膚 思考する臓器の7億年史』河出書房新社河出新書〕/2021/p.58-60)

皮膚が「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感すべてと、目や耳で感知できない紫外線、超音波、気圧の変化、磁場など」多様な刺激が入り乱れる場であるなら、支持体の上で鬩ぎ合う絵具は、多様な刺激及びそれを受容する皮膚を描いたものと考えられるのだ。
他方、描画の後に施されたと思われる"skin"という文字の刻印を、画面の表面を覆う皮膚の存在を召還する(invoke)ものと解することも可能だろう。すなわち不可視の膜としての「皮膚(skin)」の存在を"skin"という文字が象徴していると看做すのだ。その場合、絵具は真皮や皮下脂肪、筋肉など表皮の下に広がる世界についての一種の解剖学的表現となる。また、"skin"を彫る(≒掘る)ことが暗示するのは、「皮膚(skin)」という表面の差異を取り去り、身体の内部あるいは基層へと降ることだろう。白日に晒された皮下世界は、赤・黄・白の明るい混沌として画面に表される。そこでは自己と他者の区別は「皮膚(skin)」で行なうようには明瞭ではない。誰しもが自らの一部"part of yours"を見出し、引き受ける可能性を持つ。皮下世界の「共通項」を通じた連帯の可能性を呈示することこそ、作者の狙いではあるまいか。

展覧会 ヒルミ・ジョハンディ個展『Landscapes and Paradise: Poolscapes』

展覧会『ヒルミ・ジョハンディ「Landscapes and Paradise: Poolscapes」』を鑑賞しての備忘録
オオタファインアーツにて、2021年10月2日~11月20日

7点の絵画と、2点の舞台の書割のような作品から成る、ヒルミ・ジョハンディの個展。

《My Raffles Experience (2)》(1500mm×1700mm)には、観光用のサイドカー付きの自転車「トライショー」を運転する男が描かれている。低層の宿泊施設であろうか白い建物が正面奥にあり、そのポーチを経由して画面手前に向かってカーブを描く道をトライショーが走って来る。ところが、今まさに通り抜けようとするのは、人形立てを付けたベニヤ板の書割の間である。道すらも平板な素材で作られて床に載せられたものだ。すると白い建物や周囲の植え込みもまた「舞台美術」かもしれない。対象を的確に伝える描写が、比較的幅の広い筆を素早く動かすことで実現されているために、画中で再現される風景と書割との差異が曖昧になっていることが、作品の謎めいた性格を強めている。

《Landscapes & Paradise Ⅷ(Poolscapes no.3)》(1965mm×2850mm)は、プールサイドに座る水着姿の女性を描いた作品。もっとも、画面の下部に焦茶色の床が、画面の上部にはピンクの壁が覗いているため、2枚の絵画が立て掛けられている光景を描いた作品と言うのがより正確だ。左の「画面」には半分以上をプールの水面が占めており、その奥(画面の上部)にはパラソル付きのテーブルと椅子並んでいる。右の「画面」に描かれたプールは左の「画面」のプールと接続しているが、水の色はより青に近い。「1枚」の絵画であるとともに、2つの画中画であることを示すのだ。右側で長座に近い姿勢でわずかに膝を上げる水着の女性は、その「画面」から切り抜かれたように、周囲に空白を残して表されている。この作品でも、とりわけ右側の画中画の描写において、大胆な絵具の塗りによって、対象とされる室内の光景とそこに置かれた絵画のイメージとの境界が敢えて曖昧にされている。

《Landscapes & Paradise Ⅸ(Poolscapes no.4)》は、壁面に立て掛けられた3枚の絵画を描いた画面(1600mm×1300mm)と、左膝に左肘を置いて頰杖をついている女性を描いた画面(1200mm×800mm)との2枚組作品。大画面では、ライトグレーの壁に木洩れ日を描いた絵画、椰子の木が脇に並ぶプールを描いた絵画、プールのラダー・ハンドルを摑む手を描いた絵画が、壁面の側から手前に向かって、位置をずらして並べられている。とりわけ椰子の木のプールサイドに立ち並ぶ絵画では、プールの周囲がコンクリートの壁に覆われている。おそらくはプールの光景を再現したジオラマを描いたのだろう。ジオラマジオラマを描く絵画、絵画を描いた絵画という3つの階層が作品内部に存在している。そして、このような構造の大画面作品と組み合わされることで、プールサイドで頰杖をつく黒い水着の女性を描いた小画面作品が、実際に水着の女性を描いたものか、写真やイラストを描いたものか判然としなくなるのだ。

《Landscapes & Paradise Ⅻ(A Couple dancing at sunset)》(1520mm×1220mm)は、4枚の衝立や反射板で仕切られた奥に設置された、白亜の建物の回廊でダンスをする1組の男女の写真(あるいは絵画)を描いたもの。画面手前にはグレーの床があり、衝立やそれを支える安定足、反射板や撮影用のスタンドライトとそのコードなどが描かれる。パーテーションで仕切られた空間の床は採光のためであろう白く輝く床がある。シャンデリアのある瀟洒な回廊で踊る男女の写真(あるいは絵画)は、撮影のための背景であるらしい。写真撮影の背景を絵画に再現することで、絵画の対象が必ずしも現実の世界ではないことや、絵画が作家によって構想されたフィクションであることを訴える。

噴水を描いた絵画や噴水を模したと思われる板などを人形立てや土囊で支える《Landscapes & Paradise: Attractions and sceneries(Fountain gardens)》は、まさに書割であり、展覧会場を舞台に変貌させる。背景ないし書割として機能する絵画ないし写真を描いた絵画それ自体が背景画として機能することになる。そして、鑑賞者はイメージの外ではなく、イメージの中へと取り囲まれるのだ。

日常接する情報のほとんどは何らかのメディアを介して手に入れられていて、自らが直接経験して得られる情報は限られている。しかもメディアが伝える情報は、直接取材対象に接して得られたものなのか、第三者の取材内容を取り上げた二次的なものなのか、判然としないことも多い。現実と虚構との曖昧さを描き出す作品群は、「ポスト・トゥルース」の世相を反映していると言えるだろう。だが、それらは、身の回りの人物や事物や風景を描く肖像画静物画や風景画と何ら異なることはない。スクリーン越しの対象は例えば林檎と同じくらい(あるいは林檎以上に)身近な存在だからである。問題は、目の前の林檎や絵画(の描き出すイメージ)との距離感は摑めても、映像の中の対象との距離感はうまく摑むことができないということだ。距離感の錯誤は、時に悲劇を生むことにもなる。

展覧会 大久保如彌個展『From Here to Somewhere, From Somewhere to Here』

展覧会『大久保如彌「From Here to Somewhere, From Somewhere to Here」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY MoMo Projectsにて、2021年9月25日~10月23日。

絵画9点と、中に10点の絵画を敷き詰めたテントから構成される、大久保如彌の個展。

《From Here to Somewhere》(910mm×1167mm)は、草花が咲き乱れる河原の土手のような場所で寛ぐ2人の女性を描いた作品。画面の下側3分の2は、赤と白の花が入り交じって咲き誇る土手が占める。その手前にある緑青のネット・フェンスが画面の下3分の1を覆う。数箇所に蔦が絡みつく。土手の向こうには沸き立つ雲が大きく広がっている。土手の最上部、やや左の位置に、色取り取りの花柄の布を縫い合わせたワンピースを身につけたショート・ヘアの女性が左向きに素足を伸ばして座る。その女性のすぐ後ろ(画面右側)には、同じ衣装を身につけた瓜二つの女性が足を崩して座る。2人の表情は黒髪に隠されて見えない。左側の女性の右手の小指に結ばれた赤い糸が風に吹かれるように後方(画面右側)に長く延びている。途中恰も雲に隠されるかのように見えない。右側の女性の左手の親指に結わえられた赤い糸も、同様に風に吹き流されている。2人の女性は草花の化身であり、草花もまた女性たちの姿の象徴だろう。積乱雲は不穏な出来事の予兆であり、雲の発達に伴う風が赤い糸を吹き飛ばすのは、彼女たちがその事態に巻き込まれることを示唆するものだ。もっとも、草花の種は、風や雨に運ばれてこそ、新たな場所で花をつけることができる。女性たちが身につけるワンピースがパッチ・ワークによって仕立てられているのは、様々な土壌で花を咲かせ、また今後も咲かせるだろうことを訴える。フェンス(≒境界)を乗り越えていく蔦の姿にも、植物(≒生命)の逞しさが表されている。

《Here we are, aren't we?》(803mm×1303mm)は、ガラス窓越しに様々な植物と数種の蝶とが見える温室に佇む、同じ衣装を身につけた3人の女性を描いた作品。右手前から建物を捉えていて、画面の下端と右端とを外壁と窓枠とが囲み、その中の3枚の窓ガラスそれぞれに女性の姿が描かれている。右側の窓の女性はしゃがんで横を向き、顔や脚が見えない中央の女性は右手を窓ガラスに当てて、外を眺めているようだが、目元は影になって見えない。左の窓の女性は中央の窓の女性とほぼ同じポーズをとる。窓には斜めに針葉樹の影が映り込んでいる。窓のある側と反対側が南向きなのだろう、一面ガラスとフレームとで構成されている。その奥、すなわち建物の裏手には裸木が立ち並ぶ。温室の中は真冬でも熱帯植物も育つ温かな環境が用意されている。植物や蝶はこの環境を奪われたら即座に弱ってしまうだろう。だが女性たちは人工的な閉鎖環境に飽き足らない。冷涼な針葉樹林に飛び出すことを願っている。

《In the birdcage》(455mm×380mm)は、円卓に置いた鳥籠に手を伸ばす女性を描く。画面右手前には2種の百合が4輪咲いている。その奥に鳥籠を開けようと右手を伸ばすショート・ヘアの女性がいる。パッチ・ワークの花柄の衣装は、花柄の壁紙を背景にカムフラージュとなる。鳥籠の背後の壁紙には、射し込む光のためであろう、窓の形が浮き上がっている。開花した百合は成熟した女性を、鳥籠の鳥は部屋に押し込められた女性を、それぞれ象徴する。女性が鳥籠を開け放つことは、自らを(窓が象徴する)外の世界へと解き放つことを意味する。鳥籠の脇に落ちた華やかな羽は、外界が自由の代償となる犠牲を伴う世界であることを暗示するようだ。

《Endless Forest》(1250mm×900mm)は、雪の降り積もった森の中で焚き火を前に空を見上げる少女を描く。円錐状に枝を組んで炎上げる焚き火のオレンジ色の光が、少女や周りに立つ木々を照らし、雪の結晶が青銀に輝く。少女は左手を翳して遠くを見上げている。少女は裸足だが、紫や青、緑を呈する雪は、恰も少女の纏うワンピースのパッチ・ワークのように辺りを覆い、冷たさは感じられない。中景にはそのような雪に包まれた開けた土地が広がり、その奥には樹木がびっしりと立ち並ぶ森が、彼方にある水色の輝きを放つ湖水を遮る。暖を取るための薪を離れ、雪原と森とを抜けて、少女は水辺を目指すのだろう。

《From Here to Somewhere》、《Here we are, aren't we?》、《In the birdcage》、《Endless Forest》の4点に登場する女性が着用するパッチ・ワークのワンピースが会場の隅に置かれている。

会場の一角に五角形の底面を持つパッチ・ワークで作られたテントが張られている。《ある日》と題されたこの作品の中には、パッチ・ワークに縫い付けた10枚の絵画が並べられている。何かを食べる少女や、誕生日の光景、木にしがみつく猫、海水浴場など、それぞれにはスナップ・ショットのような場面が描かれている。パッチ・ワークを構成する布切れとは記憶のことであった(土手の草花を描く《ある日 #2》や河原から街明かりを捉えた夜景《ある日 #1》には刺繍が施すことで作家は日常を言祝いでいる)。ならば本展の絵画に登場する女性が皆パッチ・ワークでできたワンピースを纏っているのは、人が記憶の集合体であることを示すためであろう。そして、パッチ・ワークで作られているこのテント自体が、描かれた女性たちの換喩となっている。ノマドのメタファーとなるテントによって女性を表したのは、ヘスティア(竈、定住)ではなく、ヘルメス(境界、旅人)としての生を選び取ることを訴えるためだと考えられる。

《ある日》と題されたテントの中には、白い小石(実際は石粉粘土製)が散らされている。また、《触る》(280mm×515mm)や《つまむ》(570mm×155mm)においては左手を写実的に描き、布の皺や弛みを表現する絵画を組み合わせた上に、やはり「白い小石」を載せている。1つには、触れること(≒触覚)が禁忌となった社会に対し、その復権を訴えるのであろう。また1つには、路傍の石の背後にある悠久の歴史に、パッチワークとしての人間の姿を重ねようとの意図から、小石を模造したのであろう。

展覧会 西村藍個展『私を許さない光』

展覧会『西村藍個展「私を許さない光」』を鑑賞しての備忘録
ギャルリー東京ユマニテ〔humanité bis〕にて、2021年10月18日~23日。

西村藍の絵画11点(大画面作品3点と小画面作品8点)を展観。

《二つの晩餐》(1750mm×2730mm)は、右側奥にある淡い灰青色のカーテンがかかった、周囲より1段高くなっている空間、右側手前の灰色のタイル(石?)を敷き詰めた空間、左側手前の壁の迫る空間の3つの空間から成る。右側奥の空間には、タイトル中の「晩餐」という言葉からテーブルにかけられたものと思われる白い布と、その下から5人の人物の裸足が覗いている。カーテンとテーブルクロスとの間には得体の知れない靄のようなものが広がり、テーブルの上に載っているものや食卓についている人については不明である。右側手前には、何かに腰を掛け、両膝にそれぞれ手を上向きにして置いている、黒い布を頭からすっぽりと被った人物と、床に屈み込んで右手で頭を抑え左手で胸を覆う、白い布を被った人物の姿がある。左側手前には、白い布を被った5人の人物が何もないテーブルを囲んでいる。テーブルクロスが床にまで垂れているためか、5人の人物の足は見えない。タイトルや、空間に置かれたテーブルから、レオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》を踏まえた作品と捉えると、白い布を被る人物6人と足だけ見えている5人の11人が「イエス」の「弟子」と考えることができる。既に《最後の晩餐》において、12人の弟子のうち裏切った1人(イスカリオテのユダ)を除けば、弟子は11人となるからである。その場合、黒い布を被った人物が「イエス」となる。最も、(上半身が見えている)登場人物が斉しく布を被っているのは、個人が組織の一部に組み込まれることでその個性が剥奪されていることを示すのだろう。そして、精神的な負荷が過重にかかる閉鎖的な組織の場合、いじめのターゲットが排除されたとき、その者に代わる新たな生け贄が求められる。黒い布を被る人物と蹲る人物との2人だけが存在する右側手前の空間は、リーダーによる裏切り者の指弾を象徴する場面ではなかろうか。"un altro cena(もう1つの晩餐)"、すなわち「『二つ目』の晩餐」が描くのは、そのような組織ないし社会かもしれない。

《ラヴィニアとシンドローム》(1940mm×2430mm)の画面手前には、白い布を下半身に纏った女性が仰向けに倒れている。左手が顔を覆っているために表情は見えない。肌の色が蒼白となっていて、事切れているのかもしれない。その脇で斃れた女性を覗くように身を屈めているのは、白い布で全身を覆った人物。また、目までを白い布で覆い、上半身は裸で、白い布をスカートのように身につけている女性も佇んでいる。目の前に横たわる女性の存在に勘付いているのかどうかは定かではない。画面奥の一段高くなったところには、目を閉じて天を仰ぐような女性が立っている。白い布をスカートのように身につけ、頭から白い布をヴェールのように被っているが、上半身には何も身につけていない。肌が土気色のために今にも倒れることを予感させる。この女性の周囲に設置されている門のような構造物は壁や柵を伴わず、また柱は天井を支えていないため舞台装置のようである。画面左手に降ろされた褪せた赤いカーテンとともに、舞台空間の印象を作っている。左手のカーテンの脇からは宙に浮いたような2人の人物が身体を飛び出させ、目を布で覆った女性を指差しながら眺めているようだ。もっとも、暗色の肌の2人の目ははっきりとは描かれていない。カーテンの手前にある穴から上半身を覗かせている背中合わせの2人の人物も同様に目鼻の形が判然としない。登場人物のいずれもが、手や布で目を覆っているか、目を閉じているか、あるいは眼がはっきりと描かれていないことになる。「盲目」の人物が演じる舞台は、実見した情報に基づかずに生活する現代人の姿を描くようである。なお、タイトルに含まれる「ラヴィニア」という名から、ローマ神話に取材した可能性があるが、その関係を読み解くことができなかった。

《視線》(1300mm×1620mm)の画面中央奥には、スカートを身につけた上半身裸の女性が膝をついている。禿頭の女性の閉じられた目からは金色で表された光線が左右に3本ずつ延びている。画面の手前左右には、白い布をヴェールにして被り、下半身にスカートのように巻き付けた女性がそれぞれ座っていて、左右の手の指先と乳首とに中央の女性からの光線が当たっている。この作品を解釈するのに参考になりそうなのが、《conversation》(240mm×330mm)で、中央の禿頭の女性とヴェールを被った左右の女性たちの距離が縮まり、目から発せられた光線は左右の人物の指先だけを射している。会話というコミュニケーションは対面して発せられる言葉ではなく、右手すなわちスマートフォンを介して行なわれる視覚情報(=文字)のやりとりとなったことを示すのだろう。視線が直接的なものではなく、メディアを介した間接的なものが常態であることを示しているととりあえず解し得る。

《ギロチン》(270mm×160mm)では、月のような球体から発せられた4本の銀の光線の先に弧を描く帯が現われ、全身黒ずくめの衣装の女性がその帯によって首を斬られようとしている。何処にでも姿を現す月とその光とは、カメラとその視線とのメタファーであろう。印象的な展覧会タイトル「私を許さない光」とは、常時監視の視線を表すものであった。その視線が人を死に追いやる。《やがてサロメになる女》(180mm×140mm)における月とその光線も、同様に視線が狂気に向かわせるテーマを扱ったものと評し得る。