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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 酒々井千里個展『むだな抵抗』

展覧会『酒々井千里「むだな抵抗」』を鑑賞しての備忘録
CASHIにて、2024年6月28日~7月27日。

木片に貼り付けた画布に描いた作品に対しギャラリーの展示壁面と同じ塗料を塗った躯体を押し付けて画面をほどんど見えないようにした「Untitlede」シリーズと、絵画制作に使用した絵具のチューブなどの絵具の残片をキャンヴァスに貼り付けた「スターダスト」シリーズとを、2つの展示壁と3つのバランスボールを設置した会場に配した、酒々井千里の個展。

映画『クワイエット・プレイス DAY 1』

映画『クワイエット・プレイス DAY 1』を鑑賞しての備忘録
2024年製作のアメリカ映画。
100分。
監督・脚本は、マイケル・サルノスキ(Michael Sarnoski)。
キャラクター創造は、ブライアン・ウッズ(Bryan Woods)とスコット・ベック(Scott Beck)。
原案は、ジョン・クラシンスキー(John Krasinski)とマイケル・サルノスキ(Michael Sarnoski)。
撮影は、パット・スコラ(Pat Scola)。
美術は、サイモン・ボウルズ(Simon Bowles)。
衣装は、ベックス・クロフトン・アトキンス(Bex Crofton-Atkins)。
編集は、グレゴリー・プロトキン(Gregory Plotkin)とアンドリュー・モンドシェイン(Andrew Mondshein)。
原題は、"A Quiet Place: Day One"。

ニューヨークの騒音は平均90デジベル。絶え間ない悲鳴と同じ音量である。
ニューヨークの郊外にあるリトル・ファー・ホスピス・センター。集会所では思い思いに時間を過ごす入居者の姿と、車座集会に参加している面々がいる。サミラ(Lupita Nyong'o)は猫のフロドを抱いたままぼうっとしてルーベン(Alex Wolff)から呼びかけられるのに気付かない。酸素ボンベを装着した人や車椅子の人がサムを見詰めている。サム、話してくれないか? 自作の詩を読むよ。気が進まないけど、ルーベンが朗読しろって。朗読しろとは言ってないけど。「ここはクソ」って詩。この場所はクソみたい。この鼻にクソの臭い。あの声もクソみたい。癌は苦楚、嘘じゃない。巫山戯てるのか靴を鳴らす。隠れたいならクソを漏らす。酷い音楽、苦痛もたらす。ここまでしか書けてない。素晴らしい。拍手しよう。要らない。拍手しよう。パラパラと拍手の音。
警報が鳴り響く。煙の臭いがするとスタッフが小走りに集まってくる。サミラが自室に向かう。傷みはどう? 受付にいたルーベンがサミラに声をかける。詩を朗読してくれてありがとう。言葉は汚かったけどね。面白かった。意地が悪いけど。意地の悪い人間なんで。自覚してるんだね。ずっと前からね。30分後には劇場に行くよ。もう死んでるかも。そうかもな、でも死んでないなら、短時間だし街に出るんだ。前回出たのはいつ? 前回が最後になる筈だった。じゃあ今回もそうだ。ピザを買うなら行く。昨日食べたんじゃ無かったっけ? あれじゃないの。分かったよ、じゃあ帰りにピザを買おう。マンハッタンで。マンハッタンで。着替えてくる。助けが必要ならケイティに。
リードを付けたフロドに廊下を歩かせて部屋に戻る。ニャー。静かに。リードを外すとフロドはすぐ餌皿に向かう。デブになるよ。服を選ぶと、ベッドに腰掛けて脇腹のフェンタニルのテープを付け替えた。
リトル・ファー・ホスピス・センターからバスが出る。フロドを膝に抱えイヤホンで音楽を聞きながらバスに揺られる。キャルヴァリー墓地の向こうに摩天楼。マンハッタン橋を渡る。マンハッタン上空を轟音を響かせて戦闘機が通過した。
バスが劇場に到着する。ルーベンが入居者たちが降りるのを手助けする。サミラが劇場入口の掲示を見てぼやく。何だ、パペット・ショーか。操り人形だよ。嘘吐き。嘘を吐いた覚えは。予定表を確認すれば良かったんだ。騙したね。騙したかな。
劇場の観客席は埋まっていた。マリオネットって言葉は聖母マリアに由来があるんだなんていう蘊蓄を騙る声も聞こえてくる。サミラの前の席の男の子(Takunda Khumalo)がフロドに興味を示す。父親(Djimon Hounsou)が息子を注意し、サミラにすいませんと声をかける。いいのよ。フロドっていうの。やあ、フロド。頭を撫でる。ファンファーレが鳴り響く。
古い革鞄を手にした老人(Ronnie Le Drew)が舞台袖からゆっくりと歩いて出てきた。舞台中央で鞄を置き、開ける。操り人形の「少年」が姿を現わす。手を振る「少年」。会場の子供たちが手を振り返す。「少年」は風船を取り出すと、膨らませる。風船を手にした少年の体がふわり浮かび、空中を軽やかに游泳する。ところが風船が破裂してしまう。
サミラはフロドを抱え1人劇場を後にする。近くの食糧雑貨店に向かう。猫のいるレジで菓子を1つ買う。これだけ? これだけ。いくら?4ドル。猫は入れない。サミラは店の猫をじろっと見る。介助猫よ。
サミラが戻ると、ルーベンが電話で話していた。…分かった、できるだけ早くバスに。大丈夫? 痛みは? 3ってとこ。そうか。実は戻らないといけないんだ。何で? マンハッタンで何か起きてるらしい。できる限り早く戻らないと。でもまずはピザよ。ピザは次の機会だ。ピザは俟ってくれるさ。またの機会にしよう。マンハッタンにいるでしょ。じゃあ、今夜注文しよう。マンハッタンで買うの。買ってから帰る。落ち着いて。落ち着いて何て言わないで。喧嘩はしたくない、友達だから。友達じゃないよ、ケアワーカー。…バスに乗るわ。
バスに乗る。サイレンが響き、ヘリコプターが上空を旋回している。気付くと、他の入居者がバスの後方に集まり、空を見上げていた。上空にはいくつもの光を放つ落下物が見えた。地上に落ちて炸裂し、一瞬にして辺りは埃と煙とに包まれた。

映画『ある一生』

映画『ある一生』を鑑賞しての備忘録
2023年製作のドイツ・オーストリア合作映画。
115分。
監督は、ハンス・シュタインビッヒラー(Hans Steinbichler)。
原作は、ローベルト・ゼーターラー(Robert Seethaler)の小説『ある一生(Ein ganzes Leben)』。
脚本は、ウルリッヒ・リマー(Ulrich Limmer)。
撮影は、アルミン・フランゼン(Armin Franzen)。
美術は、ユレク・カットナー(Jurek Kuttner)とマーセル・ベラネック(Marcel Beranek)。
衣装は、モニカ・バッティンガー。
編集は、ウエリ・クリステン(Ueli Christen)。
音楽は、マシアス・ウェバー(Matthias Weber)。
原題は、"Ein ganzes Leben"。

 

孤児となったアンドレアス・エッガー(Ivan Gustafik)が川沿いの道を馬車に揺られている。行く手には雪を被ったアルプスの高峰が見える。次第に川幅が狭くなり、道幅も馬車が1台通れるほど狭くなると、ようやく集落に到着した。
俺にどうしろってんだ? アンドレアスが到着するなりアンドレアスの母の義兄ヒューバート・クランツシュトッカー(Andreas Lust)が言い放つ。義理の妹の息子だからってなあ。司祭に引き取らせよう。だがアンドレアスが首に提げた財布に気が付くと翻意する。仕方が無い。神の思し召しだ。ヒューバートはアンドレアスから財布をひったくった。老婆のアーンル(Marianne Sägebrecht)がアンドレアスに声をかける。お腹が空いているみたいだね。何か食べよう。
アンドレアスが皆と一緒に食卓に着いているのを見たヒューバートが怒る。俺たちと同じ食卓に着かせたのは誰だ? 向こうに坐れ。隅だ。聞こえないのか? アーンルがアンドレアスを招き、椅子と小さなテーブルを用意する。ヒューバートは食前の祈りを捧げる。生きとし生ける物は主を待ち望んでいます。主は時宜に適った糧を与えられます。ヒューバートの向かう壁には亡き妻の写真が飾られている。我が妻と子供たちの母のために慈悲が与えられんことを。アーメン。アーンルが鍋をテーブルに置き、それぞれの皿に注いでいく。アンドレアスは離れた場所で見ている。
夜。アーンルが子供たちの部屋にアンドレアスを連れていく。男の子に詰めてもらい、アンドレアスをベッドに寝させる。アーンルが去ると、アンドレアスは出て行けと男の子に足で押される。
アンドレアスはアーンルがパンを作るのを手伝う。平皿のパン生地にフォークで穴を開けていると、ヒューバートが折れた農具を手に怒鳴り込む。これを見ろ! 来るんだ! 
納屋に連れて行かれたアンドレアスは稲架のようなもので前屈させられ、ヒューバートから木の棒で打擲される。まだ泣き叫ばないのか? 棒を振り下ろしながら、ヒューバートは神に慈悲を乞う。
アンドレアスはアーンルからパン生地で作ったアルファベートで読み方を倣う。
ヒューバートが食卓で珍しい角の鹿を見た話を気分良く話している。アンドレアスは相変わらず部屋の隅に坐らされ、一家の団欒を眺めている。
手押し車で飼葉を運ぶ際、板でできた坂をうまく上がることができずに倒してしまう。それを目にしたヒューバートがアンドレアスを納屋で折檻する。俺はクランツシュトッカー。畑を耕し、豚を担ぎ、子をもうけ、牛を殖やすのは望み通りだ。主よ、憐れみ給え! ヒューバートがアンドレアに棒を打ち下ろす。アンドレアスに反応が無い。慌てたヒューバートがアンドレアスに声をかける。
医師がアンドレアスの脚を診察する。折れている。ヒューバートは立ち去る。良くなるわよ。人生における何事とも同じようにね。アーンルがアンドレアスを慰める。
逞しく成長したアンドレアス(Stefan Gorski)が袋を肩に担んで運び、積み上げる。そこへアーンルがパン生地を持って来て見せる。素敵でしょう?
アンドレアスに召集令状が届く。ヒューバートはアンドレアスとともに山を下り村へ行く。アンドレアスは賑やかな光景に目を瞠る。人々は戦争の話で持ちきりだ。ヒューバートは徴兵担当者に窮状を訴える。ジフテリアで息子たちは死んだ。養子を取り上げるなら農場に火を放っても構わん。兵士が1人増えても兵糧を供給する農場は1つ減ることになる。ヒューバートは徴兵の免除を許可されるとアンドレアスとともに帰路に就く。俺の元から絶対に逃がさないからな。
アンドレアスが農作業をしていると悲鳴が上がった。慌てて駆け付けると、アーンルが調理場で突っ伏して息を引き取っていた。

 

20世紀初頭。オーストリア。孤児となったアンドレアス・エッガー(Ivan Gustafik)はアルプスで農場を営む母の義兄ヒューバート・クランツシュトッカー(Andreas Lust)に引き取られる。篤信家だが暴力的なヒューバートから使用人として扱われ、何か問題がある度に折檻された。ヒューバートの子供たちからもいじめられる。いつも気遣ってくれる優しい老婆アーンル(Marianne Sägebrecht)だけがアンドレアスの支えだった。アンドレアスはヒューバートから激しい打擲を繰り返され遂には右脚が不自由になってしまう。時は流れ、アンドレアス(Stefan Gorski)が徴兵されることになった。ヒューバートは2人の息子をジフテリアで亡くしていたため、軍に掛け合って徴兵を免除させる。間もなく最愛のアーンルが老衰で亡くなると、アンドレアスはヒューバートの元を離れ、農作業の手伝いで日銭を稼ぎ自活することにした。アンドレアスは宿の給仕係マリー(Julia Franz Richter)を見初める。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

幼い時分に孤児となり、アルプス山中で農場を経営していた母の義兄ヒューバートに引き取られたアンドレアスは使用人としての生活を強いられた上、繰り返される激しい折檻のために右脚が不自由になってしまった。逞しく成長したアンドレアスは唯一可愛がってくれた老婆アーンルが亡くなると、独立する。農業使用人として日銭を稼いだアンドレアスは山小屋を手に入れ、ロープウェーの建設が始まると、作業員の職を得た。宿屋で見初めたマリーと所帯を持つことにする。
冒頭、アルプス山中の集落を目指して進む馬車のアンドレアスの姿を背後から捉える。延々と続く山道は人生のメタファーとしてある。
ヒューバートによる折檻を受ける際、アンドレアスは世界を反転して覗くことになる。敬虔なヒューバートによる残酷な仕打ち。
ヒューバートはアーンルが亡くなると、年老いた者が去ったところには新しい命が訪れると言った。だが果たしてそうなっただろうか。
アンドレアスは山小屋で死にかかっていた老人を救い出す。背負子に乗せて山を降っていると、老人は死は最悪ではないという。死が新しい生命をもたらすなどというのは戯言で、死は何も生みなどしない(篤信家のヒューバートと対照的である)。死は冷たい女のようなもので、顔もなく、声もない。突然やって来て連れ去り、暗闇に投げ込む。土を被せられる前、束の間空を見上げる。だがその後は暗闇と寒さだけしか残らないのだと。

(以下では、後半の内容についても言及する。)

ロープウェーの建設作業現場でグローレラー(Matthias Saffert)が片腕を切断してしまう。トマス(Thomas Schubert)は両腕を失ってもグローレラーだろうかとアンドレアスに問う。アンドレアスはグローレラーだと答える。両腕・両脚・頭の半分を失っていたらと重ねて問われると、それでも辛うじてグローレラーだとアンドレアスは答える。足の不自由なアンドレアスは、身体が欠損しても同一性は保たれるとの実感があるのだろう。だが同時に、身体の欠損は、掛け替えのない存在の喪失をも象徴しているのではなかろうか。分人主義的観点からは、亡くなった相手との関係で存在した人格が失われることになるからである。
アンドレアスの山小屋は雪崩に巻き込まれる(開発業者(Robert Reinagl)は否定するがロープウェーの工事が影響している可能性がある)。アンドレアスもマリーも冷たい雪の中に閉じ込められた。老人の言っていた死そのものではないか。だがアンドレアスは生き延びる。孤児となった(母を失った)とき、ヒューバートから独立した(母代わりの老婆を失った)ときに続いて、「我が子」の母(マリーは身籠もっていた)を失ったときにアンドレアスは新たな生を始める。「新しい命が訪れる」とは、子供の誕生に限らず、既に生きている者が再生することをも含むのである。
アンドレアスはマリーの墓を訪れ、柩に手紙を差し入れる。マリーはアンドレアスの中で生きている。アーンルから読み書きを習ったことを思えば、アーンルもまた生きているとも言えよう。

(以下では、結末に関する事柄にも言及する。)

晩年のアンドレアス(August Zirner)は若き時分に助けようとした老人40年ぶりに再会を果す。老人は氷河の中でミイラとなってたのを発見されたのだ。
アンドレアスは山へ向かうバスに乗り、終点に向かう。スーパーでくすねた干し肉の真空パックをお供に。無論、干し肉は老人のミイラの代替物である。覆道を通るとき、景色が映画のフィルムのように現われる。アンドレアスの脳裡にも走馬灯のように来し方が思い起こされる。バスの終点は自動車道の行き止まりでもあった。眼下にはU字谷が拡がっていた。地質学的な時間との対比で、人間の時間の儚さが浮かびあがる。氷河が削り取る穴に比べれば、人の墓穴など、アンドレアスがアーンルとともにパン生地にフォークで開けた穴ほどの大きさもない。

展覧会 天野タケル個展『花とヴィーナス』

展覧会『天野タケル個展「花とヴィーナス」』を鑑賞しての備忘録
銀座 蔦屋書店 GINZA ATRIUMにて、2024年6月28日~7月23日。

限られた線や色を用いて漫画やアニメーションに登場するキャラクターのような愛らしい女性を描いた作品を中心とする、天野タケルの個展。

女性裸体像「Venus」シリーズのうち最大画面の2点は、明るい黄色を背景に、ダークブラウンの髪、濃紺に塗り潰した楕円の目、直線で表わされた口など限られた要素で漫画やアニメーションのキャラクターのようなヴィーナスが描き出される。ヴィーナスの立像としては古代ギリシャの彫刻《ミロのヴィーナス(Αφροδίτη της Μήλου)》やサンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)の絵画《ヴィーナスの誕生(La Nascita di Venere)》が知られるが、ポーズについて下敷きとなる作品が存在するか否かは分からない。むしろ簡素化と抽象化で卑近かつ普遍的な美神としての女性を描き出そうとしているようだ。左側の作品には左に向かい半ば背を見せている女性が胸を腕で覆い振り返る姿が腰まで描かれる。顔はやや下に向け、左肩に顎が接する。髪は胸の側に垂らされている。対して右側の作品には右手前側に体を向け、腕を胸の下で組んだ姿が太腿の辺りまで描かれている。背中に垂れる髪は膨らんでもこもことしたシルエットを作る。背景の明るい黄色は、髪の輝きや身体に入れられた淡い影と相俟って、神々しさを演出する。
「Flower」シリーズは作品によりかなり趣が異なる。目玉焼きのような花とそれらが発する光を放射状の効果線と描き出す漫画的な作品や、ふっくらとした蕾のチューリップを立体感を持って描き出したアニメーションの背景に登場しそうな作品などがある。
ドローイング的な作品では、鏡をイメージさせる凹凸のあるフレームを描き込んだ中にモティーフを描いた作品が印象的である。絵画の虚構の世界における鏡は、絵画の世界から別の世界へと鑑賞者を誘う。それは現実でもあるかもしれないし、現実とも絵画とも違うもう1つの別世界かもしれない。女性や猫、犬が「鏡」に映り込んだ作品の他に、「鏡」から飛び出す矢印を描いた作品があるのは、そのような世界の往還を促すものと思われる。ジュリアン・オピー(Julian Opie)のような洗煉されたポップさとともに、国芳のような浮世絵師の諧謔精神に通じるものがある。

展覧会 外波山颯斗・高橋拓也二人展『PANTONE 448 C』

展覧会『外波山颯斗・高橋拓也「PANTONE 448 C」』を鑑賞しての備忘録
OGU MAGにて、2024年7月11日~21日。

外波山颯斗と高橋拓也との絵画展。

高橋拓也《鳥(緑)》の画面はやや明るい緑で塗り潰してある。斑がある。金色(?)の微細な粒が不均一に蒔かれている。左上には柏のような葉を持つ木の枝をドローイングした茶色っぽい紙に、枝に留まる鳥の姿をシルエットで切り出したものが貼り付けられている。金の粒を纏った緑の鳥の姿が現われる。画面の右側中央の縁、右下の角、下側中央には、それぞれピンク、水色、紫の直角三角形(右下に直角)が配してある。
まず注目すべきは、緑の鳥をタイトルに掲げながら、緑の鳥が描かれていないことである。鳥のシルエットを切り抜いた紙を貼ることで鳥の姿が見えているだけなのだ(類例に《鳥(水色 茶)》など)。描かれるモティーフ(図)と背景(地)との区別の問題を扱い、モティーフを描き出さずとも絵画は成り立つと。すなわち絵画とは何かが追究されているのである。本展のメインヴィジュアルに採用されているように、暗い茶色「PANTONE 448 C」一色で画面を塗り潰しても絵画である。仮に「PANTONE 448 C」が世界で最も醜い色という見解を受け容れるなら、岡本太郎が掲げた芸術3要件「うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」に見事に合致しそうである。
また、シルエットの鳥(緑の鳥)の背を斜辺として左下に直角が来る、緑の直角三角形に抽象化するなら、3つの直角三角形に鳥の姿を見ることは不可能ではあるまい。《五羽の鳥》では写実的な5羽の鳥の胸像を並べた中に、朱色の線で大雑把な輪郭を表わした鳥の姿を混ぜ込んでおり、イメージの抽象化が試みられている。
さらに抽象化はアナロジーを容易にする。《四つの月(餃子)》では"D"字のイメージを4つ横に並べて皿に載せられた餃子を上弦の月に見立てるのである。
ところで、《四つの月(餃子)》では皿という平面に月という立体を捉える。絵画は対象を平面に閉じ込めてしまう。《鳥》では鳥を描いた画布の裏から深緑の絵の具を表面に押し出すことで、絵画の平面性とともにイメージが平面に囚われていることが強調される。《水色の四角形》や《茶色い四角形》を始めとする画面に格子を表わしたシリーズは籠を連想させ、格子の中に現われる三角形や円など幾何学の形は鳥その他のイメージを呼び起こさせる。
鳥を描いた中に(鳥ではなく)《烏》が紛れ込ませてある。白く塗りたくった画面の左側に灰色を背景に枝に留まる烏の姿を表わした、枯木寒鴉図である。色味も水墨画を意識しての選択であろう。枯木寒鴉図が描くのは「枯朶にからすのとまりけり秋の暮」(芭蕉)のイメージである。ならば暗い茶色「PANTONE 448 C」で塗り込めた画面に枯木寒鴉図を想起できはしないか。かつて会田誠が「美少女」の文字を前に想像力を駆使する姿を示したように、作家が絵画を提示して鑑賞者に投げ掛けるのは、閉じ込められたイメージを解放せよとの問いではなかろうか。

外波山颯斗の《95》は右側3分の2の方形、左側の紡錘形など、大まかに5つの形に分けて筆跡も明らかな明暗の紫を配する作品である。《bam》は暗いオリーブグリーンを基調色に、朱や藍の円や線が描き込まれる。《y-O》には暗い青緑の画面の左下に半円状のエリアがあり、黄・水色・茶の不定形の断片が散らされている。《休》は藍色を中心に、水色、くすんだ青などで画面を構成している。いずれも抽象性の高い作品である。外界のモティーフを写し取るのではなく、色の選択と配置により絵画内に別世界を立ち上げている。個々のモティーフの意味を捉えるのではなく、その世界に浸るよう要求する。その意味で音楽的な作品と言えまいか。