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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 星奈緒個展『わたしの幽霊』

展覧会『星奈緒個展「わたしの幽霊」』を鑑賞しての備忘録
美の起原にて、2026年7月20日~25日。

主にパステルと水彩絵具により、女性あるいは女性の身体の一部をヴェイルなどとともに表わした平面作品で構成される、星奈緒の個展。

《肌の融点》(910mm×727mm)は両手で顔を覆う女性の頭部を描いた作品。ショートボブの女性の頭部が画面上側3分の2を占める。頭髪は周囲の淡い光に融け込む。左右に分けた前髪から額が露出する。彼女はやや俯き、目を閉じている。中指が眉間に、人差指が眼の下に来る位置で両手が顔を覆う。袖口は手首より先にまで伸びる。袖先は恰も水面のようで、彼女の身体が水に浸かっているようにも見える。感情を堰き止めていた箍が外れ、決潰してしまったのだ。
《ghost》(910mm×727mm)は、白い薄布を纏った女性の立ち姿を左側から捉えた作品。透ける白い布を頭から被った女性が立つ。僅かに俯く女性の顔が薄布越しに窺える。左腕を出し、指で布を前へと引っ張る。彼女の頭部、左肘、左手が形作る直角三角形が出来る。明るい前方へと三角形の直角部分(左手)が誘う。ミッフィー[nijntje]でさえ白い布を被れば幽霊[spook]になれる。彼女もまた白い布を全身に被り幽霊となる。描かれるのが腰の辺りまでであるのは、応挙の女性の幽霊を模しているためであろう。白い布を被った女性の足だけを描いた《ここで待ってる》(410mm×530mm)と対をなす。地に足の着いた《ここで待ってる》は此岸(に留まること)を象徴する。

 (略)確かに統計的に実証できなくとも、近世の幽霊に女性の多いことは誰しも直観されるだろう。円山応挙の幽霊画はほとんど女ばかりだし、江戸の三大幽霊といえば、累、お岩、お菊と決まっている。その原因を彼〔引用者註:江馬務〕は女性の執着心の深さに求めているけれども、それではあまりに表面的にすぎるだろう。執念深いモノマニアは女性の特質とも近世の人々だけとも限らないのだから。むしろ一層深い原因は、近世の家父長的封建社会の中では内なる自然としての女性に対する男権主義的な抑圧がそれだけひどく、能産的自然としての女=母なるものが幽霊という私怨的な姿態でしか男に復讐し、その魔力を示現できなかったせいだと考えた方がよいだろう。
 (略)
 (略)〔引用者補記:三大幽霊に挙げられる累の物語が〕人々の心をゆさぶったのは、やはりそこに家父長的封建制のもとで虐げられ、抑圧され、疎外され、物欲に目が昏んだ男に殺される哀れな女の運命に、人々とりわけ女性が自分の姿を《かさね》合わせて見たからだろう。累とは単なる1人の女性名ではなかったかつては太母神と謳われ、滔々たる生命の河の流れをうけついてきた女性――生物学では男は余計者で、女性こそ人類の根幹だという《イヴ原則》が支配的である――が、今や男の愛玩物となり、子を産む道具となり、労働奴隷にまで零落してしまった、幾世代もの累々たるその怨念を表わす一般名だったのである。(略)この世にあって抑圧され疎外されていた女性は、また成仏できずにあの世からも疎外され、幽明界の迫閒をさ迷いながら瞋恚と嫉妬の炎になって憎き男の後妻を次々にとり殺し、暴虐な亭主を恐怖のどん底につき落とし、男性一般の原罪を償わせようとする。そこには原古のあの大地母神の「生みだすよきモノ」としての面影はもはやhなく、「死をもたらす悪しきモノ」という羅刹女的側面が浮き彫りにされ、私的な復讐のためにグロテスクな姿で化けてでることしかできない。文化による自然の制圧の上に、人格の物象化が覆いかぶさってくるにつれ、母なる自然はいまや悪しきモノ(鬼)へと変質し、転落してしまったのである。(山内昶『ものと人間の文化史 122-Ⅰ もののけⅠ』法政大学出版局/2004/p.306)

《ある夜遅く、息を吐く ⅰ》(273mm×190mm)及び《ある夜遅く、息を吐く ⅱ》(273mm×190mm) は女性の目を瞑る女性の顔を正面から捉えた作品である。前者は両手で鼻と口を覆っているのに対し、後者では両手は指先が顎に触れる位置まで下げられている。吸うことと吐くこと、すなわち対作品として呼吸を表わしているのである。ラテン語で呼吸を意味する"spīritus"が霊・幽霊を意味する英語"spirit"やフランス語"esprit"の語源である。すなわち、本作もまた幽霊に結び付く作品なのである。そして、よく見れば、女性の指が異様に長いことに気付くだろう。目を閉じ視覚を封じる一方、手の触覚を強調しているのである。
《ghost》の類例作品と言える、白い薄布を被った女性の胸像である《纏う(Showing Through)》(530mm×455mm)においても、目を瞑る女性が布の感触を確かめるように布から出した左手で布に触れている。
《melt 1》(190mm×273mm)及び《melt 2》(190mm×273mm)は、前に突き出した、白い薄布を掛けた両腕を描いた作品である。右手と左手を微かに触れさせたものと、左手の上に右手を重ねたものである。幽霊の手の仕種を探究したと思しい。そして、やはり作家は、触覚に焦点を当てているのである。

 江戸時代の説経語りによって伝承された、たとえば「さんせう太夫」は、教徒から来たの日本海側で、とくに瞽女たちによって広められたとされる。盲目と化した母親の開眼でハッピーエンドを迎えるこの話は、盲者たちの奇蹟願望にあたえられた表現だということができる。しかし。そこには瞽女たちの視覚のゼロ度だけが表現されているのかといえば、たぶんそうではない。安寿姫の美しさを「毫光のさすやうな喜を額に湛へて、大きい目を赫かしてゐる」〔『鷗外全集』第15巻、1973、677頁〕と表現する修辞の中には、盲者だけが形容しうる圧倒的な光が指し示されているとはいえないだろうか。盲者たちは安寿姫の目の輝きを見知っていたわけではないだろう。しかし、逆に、盲者ならではの光の認知に従って、彼ら彼女らは安寿の眸のかがやきを、おそらくは晴眼者のそれよりもはるかに強烈に、そして豊かに思い描いていたはずなのだ。彼ら彼女らは光を知らないわけではない。彼ら彼女らこそが、光の何であるかを知り抜いているのだ。盲者に晴眼者の視覚が宿ったとき、彼ら彼女らは視覚というものの新しい様態、新しい効用に慣れ親しむことになるだけで、盲目であった時代の視覚をゼロとしてはふりかえらないだろう。
 (略)
 私たちは晴眼者の立場から文字文芸を貴ぶことに慣らされている。盲者は文字文芸の中であくまでも表象される客体以外のなにものでもないかのように思いこまされている。盲者は口頭伝承の発展に大きくあずかりはしたが、それは彼ら彼女らの聴覚的な記憶能力の優位によるものだと、私たちはつい考える。盲者が用いる言語表現の中の視覚性をゼロへとひきずりおろしてしまうようなやり方が、おそらく盲者たちの世界を不当におとしめるものであることに、私たちはそろそろ気づかなければならない。(西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳、語る女たち――声のざわめき』洛北出版/2024/p.299-301)

光/闇を描くことを探究してきた作家は、晴眼者は見えているとの傲慢さに気付き、それを乗り越えるべく、たとえ無意識であるにせよ、盲者だからこそ知る「光」に思いを馳せるようになったのではないか。そして、晴眼者対盲者の二分論を克服する作家は、また別の二項対立図式――男/女――を打ち砕く。その手段として幽霊が導入されたのではないか。奇異に響くかもしれないが、ハーンの再話した怪談・奇談を補助線とするとき、その解釈の可能性が見えて来る。

 ハーンの書いた〈怪談・奇談〉の多くが、「雪おんな」に見られるように、他界の女性との愛の物語であり、その女性との間に交わされる契約(契り)の物語であることは、まったく印象的である。女は一途で情熱的であるが、残酷に人の命を奪うこともできる、あるいは破局的な結果をもたらす、という両面をもっている。(略)現世の人間(男)は、他界の存在(女)に比べて、情熱においても、約束(理性と意志)においても、必然的に劣っていることが、見せつけられるのである。おそらくこれは、多くの神話や民話の原型的パターンであるといえる。
 (略)
 怪しい魅力をもつ、威圧的な、一途な、他界の女、一方的に契約を迫る女がいて、そn契約は、女の(出自に関する)秘密を固く守ることを要求するのである。男は一目ぼれしたことの女にしたがうが、心の弱さゆえに、約束を破ってしまう。この愛のかっちは、たぶんハーンの幼少期の経験と切り離せないが、ただそれだけに還元することはできない。ハーンは幼少のときに見失った母の思い出に固着しただけでなく、彼の緘せと思想に正確に対応する愛のかたちを、いつのまにかつくりあがていた。この愛は、家父長的な権力のまったk外にあった。そこでは父権的な存在を遠ざけて、女性と息子のあいだに愛の契約が結ばれた。確かにこの愛の思想は、彼が再構成した日本の怪談や奇談にまで反映されたのである。死と死者との親密さということ以外に、女性(的なもの)が、他界から、高い的な存在として訪れて、この世の性愛における支配的構造を転覆させるということが、ハーンの再話の大切なモチーフになっていた。(略)
 (略)当時の日本における男権的、家父長的支配をまったく肯定するようにして、〈従順な〉女性のイメージに感嘆しているように見えるが、むしろそのような支配をひっくり返すような過剰な理想化された女性像が、ハーンの再話には含まれていた。(宇野邦一『ハーンと八雲』角川春樹事務所〔ハルキ文庫〕/2025/p.172-177)

ヴェイルを被ることで巫となり、妖怪(他界から)の視点で二項対立構造を溶解[melt]させる。

展覧会 五木田智央個展『Lush Life』(京橋)

展覧会『五木田智央「Lush Life」』を鑑賞しての備忘録
タカ・イシイギャラリー〔京橋〕にて、2026年6月27日~7月25日。

ハリウッド映画のワンシーンのような具象的な絵画と、鑑賞者が画面に何かしらモティーフを見出してしまうデカルコマニーのような半ば抽象化された絵画とで構成される、五木田智央の絵画展。タカ・イシイギャラリー〔六本木〕でも同題・同会期の展覧会が開催されている。

《Exhibitionist》(1818mm×2275mm)には、椅子に腰掛ける女性が描かれる。背凭れに背中を預け、両脚を大きく開いて坐る。下腹部に置かれる左手はミトンを嵌めているかのように大きい。瞳の無い眼は鑑賞者に向けられる。両耳にはイヤリングが光る。彼女がいるのは屋内ではない。暗い灰色の曠野だ。なだらかな稜線の丘が迫る。暗い焦茶色の「壁」は、彼女の髪と同じ色をしている。暗いモスグリーンの空に覆われる。女性の上半身、彼女の右側辺りがぼんやりと明るい。何が光源なのかは定かでは無い。彼女が左手を動かせば、洞が露わになるだろう。天岩戸なら、むしろ光が齎されることになるだろうが。
《Night Cruise》(1819mm×2275mm)は、ボートの舳先にいる男女を描いた作品。画面下端にボートが位置する。艫が画面から断ち切れているのは、浮世絵の影響が指摘されるクロード・モネ[Claude Monet]の《舟遊び[Sur le bateau]》などを連想させる。男女は夫婦か、それともそれ以外の関係か。半裸の男性がやや驚いた様子で鑑賞者の方を見詰める。横に坐るビキニの女性は男性の右腕を摑み、目を見開き僅かに口を拡げる男性とほぼ同じ表情を浮かべている。2人の背後に拡がる焦茶色の闇はどこまでも拡がるようで、あらゆる音を吞み込んでしまう。それでも、水面を滑るボートは白い波をあげている。2人は波瀾へと突き進んでいる。
《Port Night》(1818mm×2274mm)には、闇の曠野に狒狒のような顔を持つロバ(?)が佇む姿が表わされている。窓から明かりが漏れる建物を望む。波止場があるのだろう。港へと続く道は直線で曠野を突っ切っている。白い路側帯が闇に浮かび上がる。鑑賞者を振り返る「ロバ」の両もまた光っている。
《Jungle Honeymoon》(1303mm×1622mm)は、鬱蒼とした森の中に佇むトップレスの女性を描く作品。種々の木々に覆われた中、下草に膝の辺りまで埋まるように女性が立つ。花柄のスカート以外には何も身に着けていない。手を前で組み、正面を見据えている。葉叢の中には何かが潜んでいる気配が濃厚であるが、何がいるのかは定かでは無い。アンリ・ルソー[Henri Rousseau]の手掛けた《夢[Le Rêve]》を始めとするジャングルを舞台にした絵画と、マックス・エルンスト[Max Ernst]などのシュルレアリスムの絵画とが混合したような世界が立ち上がる。《Jungle Honeymoon》のジャングルを、恰もデカルコマニーのように、より混沌とした状態で描き出した作品群が小展示室に並ぶ。ネズミと鱏が対決するような《Foe》(655mm×530mm)、ペニスとヴァギナが結び合わされたような像が佇む《Chief》(653mm×531mm)など、黄泉巡りをするような、心の奥底に降りていくような感覚を味わえる。"Clinical Interview"を冠する作品(654mm×530mm)があることからも、深層心裡に迫る意図が窺えよう。

《Endless Love》(532mm×455mm)は見詰め合う裸の男女を描いた作品。背後の男性に凭れ掛かる女性は男性の眼を見上げる。男性は右腕で女性の右腕を支え左手を彼女の首筋に添え、俯いた女性の眼を覗き込む。女性の左手(左腕)が男性の左肩・左腕に半ば癒着することで男女の結び付きの強さを表現する。2人の頭部、腕がそれぞれ∞を描きもする。

《Sleepwalking》(1168mm×1167mm)には、夜道を歩く女性が描かれる。周囲に草木が生える、闇に続く道があり、最前面に、細い肩紐の黒のノースリーブを身に着けた女性が立つ。右奥では建物が白熱した焔を上げる。その光と、彼女の黒いドレスから覗くオレンジの下着とが呼応し、火と彼女とが結び合わされる。

《Confession》(1620mm×1300mm)は、部屋の中で坐る女性と立つ女性とを描いた作品。オレンジ色のワンピースの女性は後ろ向きに立ち、顔を横に向ける。半ば抽象化された女性は、寄木細工のピースのようにが湖面に嵌め込まれる。カウチに正坐する女性はチューブトップの衣装で、土気色の膚をしている。正面を向く顔の眼は落ち窪んでいる。坐る女性のものとは思えない、真横に向けた"「"の形の左脚と、その形に沿うように肥大化した右足(?)と、丸いクッションが坐る女性の太腿の周囲に並び、奇異な印象を生む。立つ女性が坐る女性の告白を耳にしているのであろうか。2人は暗い赤紫の床の部屋の隅に固まっている。

展覧会 西山大基個展『Afterimage』

展覧会『西山大基展「Afterimage」』を鑑賞しての備忘録
銀座 蔦屋書店〔インフォメーションカウンター前〕にて、2026年6月27日~7月24日。

板塔婆、以前に制作に用いたアカマツ、手製の木琴「ワリンバ」の端材、織畑の廃材、裁縫用作業台、蔵の構造材、颱風で倒れたヒマラヤスギなどに抽象的な人物立像を彫り出した「像」シリーズで構成される、西山大基の個展。

「像」シリーズの頭部は頬骨の部分で拡がり尖った顎に向かって窄まる。除雪車両のラッセル車の先頭のようなシャープな印象である。眼が穿たれ、口の線が引かれ、鼻の形が表わされる。極めてシンプルである。円空仏が余程具象性に満ちていることがよく分かるだろう。首は無い。胴は、アルベルト・ジャコメッティ[Alberto Giacometti]ほど平板ではないが、《像210》(490mm×100mm×56mm)や《像205》(340mm×36mm×35mm)のように腹部がやや膨らみつつもさらに細い脚部までスレンダーなタイプのものと、《像207》(383mm×59mm×58mm)のように肩がやや張ったものとがある。胴に比して脚はいずれも細く表現され、折れるか折れないかの際どい線が狙われている。故にジャコメッティ的な印象を喚起させる。台座は素材によって形が変えられている。伐採された樹木の《像191》(370mm×35mm×35mm)や廃棄されたスギ《像97》(255mm×42mm×41mm)、ヒマラヤスギの倒木《像215》(328mm×35mm×35mm)などは四角錐台である。機織の一部を用いた《像210》や裁縫用の作業台の部分である《像211》(405mm×36mm×43mm)、蔵の構造体であった《像217》では段差やほぞ穴を活かされている。自作の木琴「ワリンバ」制作の端材であった《像183》(275mm×225mm×90mm)は丸太を扇型に裁断した平面を持つ。
シリーズ第1作《像1》(213mm×35mm×35mm)は、制作に用いていたアカマツから彫り出した人物の立像。頬がやや張る点、首が表わされない点はその後の作品群と変わらないが、両眼・鼻・口がはっきりと表わされ、右腕の表現があり(左腕はない。右半身を中心とした表現は《像50》(225mm×30mm×30mm)にも見られる)、脚も胴と同じくらい太い。制作が重ねられるにつれ、脚を極限まで細くすることで、立って存在すること、すなわち生きるという主題が前景化されてきたようである。そのために腕の表現も不要とされたのであろう。切り立つ姿は、依代ともなるのである。
《像194》(350mm×75mm×35mm)は卒塔婆(板塔婆)から彫り出した作品で、台座に筆の文字が残されている。卒塔婆はストゥーパ[स्तूप]であり、仏舎利を納める塔であった。涅槃への憧れへと通じる。"afterimage"とは残像ではなく、輪廻からの解脱を象徴するのではないか。

展覧会 青野文昭・南谷理加二人展『群島』

展覧会『青野文昭×南谷理加「群島」』を鑑賞しての備忘録
AWASE galleryにて、2026年7月4日~19日。

家具や段ボール箱に空き缶や靴、書籍など雑多な品々を組み合わせて人の姿を表わす青野文昭と、戯画的な人物が躍動する絵画と布を貼り合せた支持体に表わしたリズミカルなドローイングを提示する南谷理加の二人展。

【青野文昭】
《「死者と生者たち」―なおす・代用・合体・集積・立ち上げ 2026》(2300mm×1400mm×950mm)は、7段の箪笥の表面に複数の人物を彫り込んだ作品。一人は箪笥の先端に頭部が位置し、彼が被る帽子が箪笥の上に載せられ、あるいは箪笥から延長された手には空き缶が握られる。その他の人物達も腕や脚を箪笥から食み出して伸すように木材が津継ぎ足され、その先には軍手や手袋が嵌められ、靴やサンダルが履かされている。マルク・シャガール[Marc Chagall]で宙を浮くかのように表わされる人物よろしく、箪笥に浮き出した人物たちは必ずしも重力に囚われることはない。いくつかの突き出した足により支えられる箪笥は傾く。箪笥は死者の記憶装置であり、狭い世界に仕舞い込まれた者たちが現し世へと這い出そうと手を伸ばす。その情念によって傾ぐのであろう。付喪神の、作家による独自解釈とも評し得よう。《「家族たち」―なおす・代用・合体・集積・立ち上げ 2026》(2540mm×1000mm×700mm)は5段の箪笥に人物を組み合わせた作品。大きく手を振って歩き出す人物や、「板塔婆」を想起させる鋭く高く伸びた板、箪笥の上に積み重なった漫画本が眼を引く。スニーカーを履いた足、野球のバットを持つ手など、活気が感じられる。「板塔婆」は依代であるともに、積み上げた漫画本に積み石を連想させる効果を持つ。少年たちの姿は、賽の河原にいるのかもしれない。《「あなたとわたし」―なおす・代用・合体・集積・立ち上げ 2026》(1500mm×1100mm×550mm)は2人がかりで箪笥を運ぼうとする姿を表わした作品。ヘルメットを被った人物と文庫本の頭部を持つ人物とが向かい合って箪笥を支えている姿が表わされる。2人で小さな棺を運んでいるようにも見える。
《なおす・代用・合体・集積・立ち上げ(箱・複数の欠片)2026-3》(500mm×500mm×200mm)は、段ボール箱にピンクのスニーカーを履いた少女の脚などを表わした作品。《なおす・代用・合体・集積・立ち上げ(箱・複数の欠片)2026-7》(1400mm×350mm×250mm)は4つの段ボール箱を組み上げた中に樹が生育する様などを表わした作品。青野文昭《なおす・代用・合体・集積・立ち上げ(箱・複数の欠片)2026-5》(480mm×300mm×220mm)は段ボール箱にカップ麵の容器や紫色のサンダルが組み込まれている。

 (略)商品=貨幣経済が発達してくると、自然はもはや恵みの母とはみなされず、たんなる物質的客体、純粋な素材的対象となり、そこから自然を加工した生産物も単なる利潤獲得のための手段となり、物の質的有用性は儲けのための必要悪にすぎず、質ではなく量が重視されるようになってくる。市場に次第に物が豊富に出回ってくるにつれ、消費者の方も見知らぬ他人から買った自分の所有物を自由に処分できるようになるだろう。人格的関係が断ち切られて物と物との関係に変質し、人格の物象化と物の人格化という、いわゆる物化(reificatio)現象が発生する。人間の価値が私有する貨幣量によって評価され、金銭という社会的な力の量的多寡が人格の力に代置される一方で、人々の意識面では「元本が利子を生む」とか「灯油が上がる」とか「足(銭)が逃げる」とかいった、生命のない物がまるで生きた物でもあるかのような比喩的表現が出現する。
 (略)マルクスが『資本論』の有名な「商品の呪物的性格(Fetischcharakter)とその秘密」でのべたように、ごくありふれた机が商品として現われるや、「自分の足で床の上に立っているだけではなく、他のすべての商品にたいして頭で立っており、そしてその木頭からは、机が自分かってに踊りだすときよりもはるかに奇怪な妄想を繰り広げる」転倒した(Wuid pro quo)世界が現われるのである。
 (略)
 (略)有用物としての机は、有用物としての鏡同様、どういじくりまわしてみてもそこに「価値」の一片だに含まれていない。ところが、一定の政治的関係では鏡に王権が具現するように、意っての経済関係では商品=机が他の商品との関係の中で価値の万華鏡をくりひろげ、交換価値が生まれつき自分に備わった自然的属性であるかのような顔をして逆立ちして踊りだす。商品に体化された労働の社会的性格が、商品自体の幻影のような対象性として現われ、人と人との関係にとって代わった物と物との関係からなる全般的な物象的関連が、逆に人間を圧倒し、疎外し、支配しはじめるわけである。むろん単純商品経済ではこの物象関連が社会全体を覆いつくすことはないが、あの付喪神たちもアニミズムの基盤の上でこうした物神化現象を利用して妖怪に変化し、暴れ回ることができたのだった。古道具はもはや交換価値はなく、わずかな使用価値が残るのみだが、年経た人や物は魔物に化すというアニミズムと、商品の中の商品である「貨幣は魔物」といフェティシズムとを巧みに重ねて器物の物神に化けたのだろう。(山内昶『ものと人間の文化史 122-Ⅰ もののけⅠ』法政大学出版局/2004/p.290-294)

「年経た人や物は魔物に化すというアニミズムと、商品の中の商品である「貨幣は魔物」といフェティシズムとを巧みに重ねて」古い箪笥を生命を吹き込んだ作家は、さらにフェティシズムを徹底させ、商品の梱包材たる段ボール箱までを物神化させたのである。

【南谷理加】
《公園》(720mm×1125mm)の中央には深緑の段が聳える。背後には満月にも見える巨大な黄色い円が覗く。右側奥には脚榻のようなものがあり、緑や青の円、赤い四角形が浮かぶ。段の手前には、右手でボールを操りつつ、左手のデッキブラシで段を消去する人物がいる。傍らには小さな犬が坐る。段の中に人形が入り込んでいるのが分かる。左側には上半身裸の人物が倒れ込む。段や脚榻のようなものが遊具なのかどうかは判断がつかない。人物が何をしているのかも判然としない。円や四角形は具体的なモティーフを踏まえているのではなく、この場の雰囲気を示す記号なのかもしれない。1つだけ確かなのは、段の中に埋め込まれた人の姿が青野文昭の箪笥(の抽斗)に刻み込まれた人物とパラレルであることだ。
《影法師》(1830mm×1121mm)は中央に全裸の男性が立ち、背後に被さるように黒い人影が重なる。人影の左側には黒や青などで塗り潰された格子があり、その下に、急須、マグカップ、スプーン、庖丁などが見える。白い点(小さな円)が人物の腹の辺りから円弧を描き上方へと点々と連なる。右下には絵筆を手にした骸骨がいる。
《waiting room》(974mm×657mm)には、部屋の中の6人の人物がモノクロームに近い配色で描かれる。黒い壁には高い位置に時計があり、ポスターが2枚貼られている。談笑するような人物はいずれ裸体で、灰色に近い人物たちの中で日足だけが慌てて部屋を飛びそうとしている。スーツこそ着ていないが、ミヒャエル・エンデ[Michael Ende]の『モモ[Momo oder Die seltsame Geschichte von den Zeit-Dieben und von dem Kind, das den Menschen die gestohlene Zeit zurückbrachte]』に登場する灰色の男たちを連想してしまう。
《北風》(878mm×700mm)には、建築現場か工場か、支柱や梯子が並ぶ空間の奥で、黒と黄色の格子に向かう人物が描かれる。男の姿は床の水溜まりに映り込み、その脇には黒い犬が2匹見える。犬たちの傍にはヴァイオリンか落ちている。頭蓋骨を描いたポスターや、熊手のような器具も見える。筆記体の文字のような白い線が犬とヴァイオリンの傍に見えるのが、風の表現なのかもしれない。
《front end》(762mm×684mm)には、水色の上に赤い格子があり、鋏、螺旋、鉛筆が配される。画面右端の赤く塗り潰した部分には、人物の横顔が画中画のように表わされる。
《迷い犬》(723mm×503mm)には、ドアや壁のある屋内とも屋外とも判断の付かない場所に1匹の犬が描かれる。取り付く島も無い作品を前に途方に暮れる鑑賞者の似姿であるかもしれない。
ドローイング作品は、複数の布を貼り合せた支持体に、人物が描かれるとともに、文具・工具、あるいは楽器が鏤められている。切り貼りすなわち切断と接続がナイフや鋏、あるいは鎹や釘によって示されるとともに、音の途切れと連続とも響き合う。蝸牛はト音記号、オタマジャクシ(精子?)は音符に変じていく。ジャズの即興演奏のようでもある。それはまた、様々な廃棄物が組み合わされ人や植物と混淆する青野文昭の作品に通じる。

 樹々が伝えようとしてるのは群島の声である。大陸の固着と所有の原理を自らの意思として放擲した樹々とその無数の種子によって結ばれた声。そして群島の人間たちは、ときにその声をよりよく聴き出すために樹々の内奥に隠されてある音の粒子をとりだそうと、樹の幹をくりぬいて素朴な楽器をつくった。樹々がつねに海流とともに長距離を移動し、ある日ふと波打ち際に寄り着く群島地帯では、群島世界をつくりなす他者たちの声は、すべてこれらの樹々の内奥に蓄えられた音の年輪に向けて聞き耳をたてることで受け取ることができたからだ。そしてその声=音を打ち出す者ら自身の体内の空洞が、他者の声と共振しあい、自己を脱中心化し、ゆたかで悲痛な倍音を自らの声に与えつづけた。(今福龍太『群島‐世界論[パルティータⅡ]』水声社/2017/p.435-436)

作家の許に漂着した物、あるいはモティーフから、それらが発する声を聞き出そうと組み立て、描き出した作品は、群島の人々が樹木から作った楽器に通じる。

展覧会 江口枝里個展『青磁から森』

展覧会『江口枝里「青磁から森」』を鑑賞しての備忘録
Bambinart Galleryにて、2026年6月26日~7月18日。

人間や動物の体の断片が果物や草木などとともに青空や広漠な地に配される、日本で受容されたシュルレアリスムを髣髴とさせる絵画で構成される、江口枝里の個展。

《赤の辺》(318mm×410mm)は、赤い背景に大小の蛇4匹がシルエットとして描かれ、その上にタッセルで縛られた紫色のカーテンと青空に湧く雲を背景に溶けた犬を表わす画中画とが配される。正体不明のクリーム色の断片も転がる。画面の右側には半円に近い形で赤い地の部分が引っ込み、草叢と暗い空とを覗かせる。赤の地は、右側の「半円」を開口部とした円筒の内部を表わす。円筒は洞窟に比せられる。プラトン[Πλάτων]の洞窟の比喩だ。洞窟の外に拡がる世界ではなく「洞窟」内の「影」を認識していることを画中画により示す。タッセルにより纏められたカーテンは脚を模している。蛇と相俟って、蛇足となる。洞窟の中で目にしているのは実体の影などではなく捏造されたイメージである。蛇の知恵を借りなければならない。
《東京》(654mm×532mm)は、塗り斑のあるレモン色ないし山吹色の画面に、複数伸びる草葉、無数の側根、腕とがU字に描かれた作品。草の中には2つの眼が浮かび上がり、合掌する手と合わせ、祈りを捧げる人物のようにも見える。画題に引き付けて解釈すれば、根を蔓延らせて青々とした葉を繁らせる草は、地方からの収奪による繁栄する東京であろう。脚がないのは自らは動く必要がないためであり、成果を受け取るための手ばかりが発達するのである。下に転がる断片は、死にゆく地方のメタファーだろう。搾取する地方を失った中央もまた枯死の命運を避けられない。
《愛犬を想う》(333mm×242mm)には、サッシ(窓枠)越しに見える青空に浮かぶ脚、手、薔薇、林檎、そして断片化された犬が描かれる。下段中央に林檎、その上にスラックスの男性の右脚と何かを受け取るような手、画面右端には犬の頭部や脚など断片が並び、左上には逆様に薔薇の花が落下する。林檎や薔薇は、死した犬に対する供物である。幽霊に脚が無いのなら、自ら脚を切り離すことで幽霊と化すことが叶うだろう。霊に擬態することで、愛犬の霊との交信を可能にしようとするのではないか。窓枠は遺影の額だ。肉体に囚われなくなった世界では、複数の時間が交錯し、断片的なイメージが止めどなく湧き出す。
《海鳴り》(242mm×333mm)は、青空を背にした壊れた看板のようなものに騎馬人物や馬のシルエットが描かれた作品。上端に右から突き出すバーがあり、そこには歩く馬の脚が覗く。そのバーの先からは壊れた看板らしきものが吊り下がり、騎乗の人物と、別の馬の姿が表わされる。その下に青い欠片が2つほど浮かぶ。馬が駆ける際に響く音と海鳴りとの類似から発想されたイメージであろうか。押し寄せる波は砕けるが、再び波が押し寄せる。生と死との繰り返しが止むことなく繰り返される。
《丸みのある透明》(333mm×455mm)には、花をデザインした革、牛、花や松などを水平線とともに表わされる。左下から右端中段にかけて水平線(あるいは地平線)がゆるやかな弧を描いて走り、その上には青空が拡がる。左手前から右奥へ牛が画面から切れるほど大きく表わされる。背には花を描いた革が掛けられ、牛の体が消えている。奥には牛の頭部あるいはそのように見える花が覗く。画面右下には大きな花が配され、牛の尻や脚からは松のような木が伸びる。革は画布として、恰もマジックショーのように、あらゆるイメージを出して見せる。水平線=海は水として変幻自在である。主題は万物斉同ではなかろうか。
《日曜日》(455mm×608mm)は沙漠に立ち尽くす人物を描いた作品。画面左側に太腿まで砂に埋まった白ブリーフの男性が背を向けて立つ。頭部は無く、背には2枚の葉が付着している。彼の目の前には道が二手に分かれて延び、その先にそれぞれ色の異なる卵が立つ。左側には植物が繁茂するイメージが表わされた壁、正面奥にはコンクリート剥き出しの壁が立ち、壁の上半分には青空のイメージが描かれる。壁のアーチ型の開口部からは揚羽蝶が舞うのが見える。壁の途切れた場所に太い幹の樹木が立つ。最前面左側には柱が、右側には翼が覗く。二股に分かれた道は選択肢が与えられているように見えるが、どちらに進んでも同じことだ。卵は男が歩みを進める度に遠のくだろうが、そもそも彼が一歩でも進むことはない。脚は砂に埋まり、翼は打ち棄ててしまったからだ。前進にせよ飛翔にせよ始めから自分次第であったのに、彼にはどこにも行く気がないのである。フランツ・カフカ[Franz Kafka]の「掟の門[Vor dem Gesetz]」に通じる主題であろう。
《レモンの庭》(727mm×530mm)の水色の画面には果実と葉、赤いマフラーをした灰色のジャケットの人物の上半身が表わされる。中心には灰色のジャケットを羽織り、赤いマフラーをした人物が4分の3面観で描かれている。人物と言っても、頭部に当たる部分にはクリーム色の不定形の塊があるに過ぎない。その頭に当たる部分は俯いている。右腕は黒いアームカヴァーらしきものに覆われているが、ナメクジのような形をしている。「人物」の背後にはレモンの木の葉だろうか、複数の葉が散り拡がる。左上には「頭部」と同じほどの大きさのレモンが浮かぶ。ヨーゼフ・ボイス[Joseph Beuys]の《カプリ・バッテリー[Capri Battery]》よろしく、レモンは電池である。接続すれば「人物」は動き出す。またレモンは光であり、言葉である。人間を人間たらしめるものである。
《わたし》(606mm×909mm)は、球体を覆う砂漠を取り除こうとする人物を描く作品。砂漠に女性が仰向けで倒れている。頭部から血が流れている。その砂漠は球体を布のように覆う。画面手前の人物がその布の一部を右手で摘まみ上げ、引き剥がそうとしている。その人物の顔からは黒い犬が顔を伸す。その首には牛や猫の姿も見える。犬の先には木(あるいは板塀)が立ち、その洞(あるいは破れ)から雲が湧き立ち、遠く球体の先に立つ建物へと流れていく。生成変化[devenir]が主題であろう。《丸みのある透明》の万物斉同と同趣旨ではないか。作家の作品はシュルレアリスムを髣髴とさせるが、本作は最もサルバドール・ダリ[Salvador Dalí]の影響を感じさせる。
《水平飛行》(410mm×532mm)は、花柄など複数の布を被った人物頭像と砂丘や貝殻などを表した作品。画面左側に右向きの石膏でできた頭部が配される。花柄の山吹やピンクの布を被り、額や鼻や口が覗き、また耳が出ている。画面右側には砂丘と貝殻が見える。砂丘の中は空洞で、奥にミサイルが飛翔する海岸が覗く。貝殻の中にも同じミサイルが飛翔するのが見える。砂丘の洞窟は、《赤の辺》同様、洞窟の比喩のメタファーだろう。洞窟の外に視線を向けようとしている。貝殻は「洞窟」であり、「わたし」である。マクロコスモスに対するミクロコスモスであり、入れ籠の世界である。
《置き土産》(318mm×410mm)は、複数の赤紫色の身体が埋まった地面を背景に、ナナホシテントウを描いた画中画3点を配した作品。画中画はいずれも、大地・植物・青空の雲・天道虫を構成要素とし、植物や雲の大きさと、天道虫の現われとが異なる。6本の足だけを描いたもの、縮み潰れたもの、足のない天道虫がそれぞれ表わされる。《わたし》同様、生成変化が主題と見られる。
《見られている》(270mm×220mm)は葉や茎など繁茂する植物に一面覆われた作品。右上から伸びる茎の先に咲く赤い花が アクセントである。画面中央右上に僅かに隙間があり、青空が覗く。それは眼のメタファーである。モーリス・メルロー=ポンティ[Maurice Merleau-Ponty]が引用する、森を見ているのではなく森に見られているのだという画家の言葉が想起される。

 森のなかで、わたしは幾度もわたしが森を見ているのではないと感じた。樹がわたしを見つめ、わたしに語りかけているように感じた日もある……。わたしは、といえば、わたしはそこにいた、耳を傾けながら……。画家は世界によって貫かれるべきなのであって、世界を貫こうなどと望むべきではないと思う……。わたしは内から浸され、すっぽり埋没されるのを待つのだ。おそらくわたしは、浮かび上がろうとして描くわけだろう。(OE〔引用者註:『眼と精神』〕 266)
 自分がふと物によって見つめられていると感じるとき、わたしは能動性と受動性の深い交叉を経験しているのだ。能動性と受動性との、内と外とのたえざる反転。わたしの視覚は、そういう〈肉〉のなかに縫合されている。
 このように、わたしの身体は内と外とに二重化される。その鏡として、その裏面として物もまた内と外とに二重化される。わたしの二重化された身体、見える身体と見るしんたいのあいだには、相互の挿入と絡み合いの関係がある(VI〔引用者註:『見えるものと見えない物』〕 192)。「世界がわたしの身体の双葉のあいだに挿しこまれたり、わたしの身体がもろもろの物や世界の双葉のあいだに挿しこまれたりする』(VI 239)。
 身体の「双葉」と世界の「双葉」がたがいい挿しこみあっているさま、それをメルロ=ポンティは「二つの唇」のそれとして言い換えもする。この「双葉」がたがいに絡みあうことそのことが、身体と世界がおなじ〈肉〉からできていることいわれたことの意味なのである。(鷲田清一『現代思想の冒険者たち Select メルロ=ポンティ――可逆性』講談社/2003/p.272-273)