可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

舞台 サカサマナコ『静かな欠片』

サカサマナコ第4回本公演『静かな欠片』を鑑賞しての備忘録
北千住BUoYにて、2018年12月6日~9日。

サカサマナコは、脚本・演出の𠮷中詩織、音楽・音響の前村晴奈、美術の山本高久、照明の平曜によるユニット。


オリンピックの陸上競技会場で爆発があり、多くの人命が失われた。

校内放送の話し手と聞き手の男の子と女の子。

正義感が強く、いつも周囲から浮いていた男の子(竹内蓮)。校内放送でいつも誰かに向かって呼びかけていた。オリンピックには興味が無い。強いて言うなら陸上競技場でリレーを見てみたい。学校からある日、姿を消した。

誰も聞いていないはずの校内放送に耳を澄ましていた女の子(樹七菜)。オリンピックの陸上競技の会場に向かった。学校から忽然と消えた男の子の姿を求めて。

射手座と牡牛座の姉妹。

母親との折り合いが悪かった姉(大塚由祈子)。母との血のつながりは無く、父親は蒸発した。早くに家を出て、一人暮らしを始めた。痴呆になった母親に逢いに行くと、いつも前回の見舞いのことを忘れられていた。亡くなった母の手帖には、姉と逢った日に赤い○が付けられていた。甘い物が嫌いな母に、味噌汁の作り方を教わった姉。

父親が蒸発し、姉が出て行き、母親が亡くなって、一人広い家に住んでいる妹(石田ミヲ)。幼い頃、いつも夕日が沈むのを見続けていた。亡くなるまでの母親と日々を過ごした。電球が切れる瞬間を見た妹。

大学時代から交際を続ける二人(安楽信顕・梢栄)。

同じ街に住んでいる。違う家に住んでいる。
同じ夜を過ごす。同じ朝を迎えない。
結婚したいのか。子供は欲しいのか。
一つになりたいけれど、重ならないことが怖い。
いつしか「別に」が決まり文句になる。
言葉がもたらす終焉を避けるために、アメーバになりたい。
ヒトが進化して口が口でなくなったならいい。

オリンピックの陸上競技場の建設に携わった男(池田海人)。

あの建物がなければ、多くの人命が失われることはなかった。

 

舞台は、中央に巨大な柱が立つ、コンクリートの壁・柱・梁が全て剥き出しになった地下空間。カタストロフの存在を伝える廃墟に見える。開演前から様々な環境音をながすことで現実感を与える一方、数カ所に天上から微かに輝く糸を垂らすことで非現実感を表現し、曖昧な時空を仕立て上げた。

開始直後に出演者が中央の柱の周りを走り出す。しかも後ろ向きに走らせることで、時間を逆に進め、時空の歪みを演出していた。
時空の歪みで、男(池田)が、女の子(樹)に声をかけるところから物語が回り出す。

時間の進行は、時計の針のように動いていく、壁面に投影されたオレンジと青の光によっても表現されていた。
劇中にはキックスケーターと車椅子が登場し、その車輪と動きとでも回転を印象づけた。

これらに加え、繰り返しの科白が随所に鏤められている。言葉によっても時間の円環が強調されていた。
中でも、詩を思わせる、繰り返しのフレーズ「誰そ彼れ」と、続く「あなたは誰」が重要。黄昏時(=逢魔が時)に時空を歪めて、現実には交錯しない人たちを同じ時空に召喚していく力を持った言葉。その言葉を放つ力あるいは存在(花井瑠奈)は一体何なのかが謎である。

謎の力あるいは存在が、黄昏時に人々を召喚し、召喚された人々が皆、夕日を眺めるという点がポイントと考えた。

現実には、互いに受け止めることのないままで終わってしまった思いが、時空を歪ませることで、相手に届いていく。そして、思いを届けることを可能にしているが、全ての状況を知悉している夕日の存在だ。

 今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞で斫り殺したことがあった。
 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
 眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻りに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いでいた。阿爺、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向に寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢ろうに入れられた。(柳田国男『山の人生』)

人里離れた山小屋で行われた殺人。その殺人の正確な状況を、当事者の思いを唯一証するのは「小屋の口一ぱいに」射し込んでいた「夕日」のみである。夕日は万能の証人なのである。

思いは必ず届くという、祈りのようなメッセージがこの作品の主題だ。
それは、すれ違ったままだった男の子(竹内)と女の子(樹)が出遭うラストシーンで明確に打ち出されていた。

そして、この舞台において、夕日が観客席の側に設定されていることに注目したい。
舞台作品は、その場限りのものである。その時、その場に存在した表現は、二度と再現されることはない。今、この場で見せた作品を記憶に焼き付けて欲しい、作品の証人になって欲しいというのが、制作者が観客に重ねて送るメッセージなのだろう。

 

展覧会 諸川もろみ個展「今日も生きておる」

展覧会 諸川もろみ個展「今日も生きておる」を鑑賞しての備忘録
新宿眼科画廊(スペースM)にて、2018年12月7日~12日。

レシートの裏に描かれた絵日記のような作品。

描かれるのは、主に、楕円形の顔にきらきらした大きな目をもつ、親しみとおかしみと不思議さとをあわせ持った、作者自身を反映したキャラクター。楕円形の顔の輪郭は太陽系であり、吸い込まれそうな大きな目は宇宙空間なのかもしれない。とにもかくにも、そのキャラクターが、レシートの空間を所狭しと奮闘する日々が描かれていて、なぜだか引き込まれる。

絵を描いたレシートを縦に繋いだものを上から垂らして、
カーテンのように並べている。
レシートのカーテンは内側に絵を描いた裏面が、外側に印字のある表面が見えるようにコの字形に配されている。
絵を表に向けて壁面に貼ってしまうとレシートの印字面が見えなくなるので編み出された展示方法だろう。

展示空間という公開を目的とする場に、私生活の一端が赤裸々になるデータを並べるというのは、SNSを通してプライベートを曝す行為のアナロジーになっているようだ。
また、レシートのカーテンに仕切られた空間は、展示室の中に入れ子的にもう1つの展示空間を設けているとも評価できる。その仕切りが壁ではなく「カーテン」である点は、作品の持つ、現実と創作との間を融通無碍に往還する性格が象徴されているかもしれない。

映画『パッドマン 5億人の女性を救った男』

映画『パッドマン 5億人の女性を救った男』を鑑賞しての備忘録

工務店で働くラクシュミは愛妻家。タマネギを切る機械や自転車の補助席など、妻のために折りあるごとに手先の器用さを活かしたものを作る。その妻は慣習に従って、「毎月5日間」、「穢れ」のために家の外側に設えられた場所で過ごさなくてはならなかった。のみならず妻が不衛生な布を用いて処置し、「恥」の意識から洗った布を他の衣類で隠して干していることに気付いたラクシュミは、テレビ・コマーシャルで知っていた生理用ナプキンを薬局で手に入れる。「禁制品」のように手渡されたナプキンは55ルピーと予想外に高かったが、通りすがった友人に借りて何とか買うことができた。ところが妻はナプキンが高額で、牛乳を買うことも困難になると使用することを拒絶した。香具師ハヌマーンの見世物には平気で50ルピーを散在するのに、健康のために清潔なナプキンを利用できないのはおかしい。ラクシュミは買ってきたナプキンを分解し、見よう見まねで自作することにした。
ところが、手製のナプキンを妻は利用しようとしない。そこで、女子医大生に協力を求めたり、近所で初潮を迎えた女の子に利用してもらい、妻のためのナプキンを完成させようと必死になる。ラクシュミの行為は奇行として噂になり、妻は「女性の恥」にこだわる夫についていけなくなる。そして、遂に自らを「被験者」とした実験に失敗したことをきっかけに、妻と別れ、村を出ることになる。

生理用ナプキンの開発に異常なこだわりを示すラクシュミに、周囲が奇異の目を向けるのはやむを得ない。しかし、ラクシュミは仕事に対して完璧主義者で、仕事を始めたら完成まで諦めない。愛する妻のためであるならば、なおさらだ。妻は実家に連れ戻されてしまい、自分の思いとは逆に状況はますます悪くなっていく。ラクシュミは、妻を思って、何としても完璧な作品を開発しようと努力を重ねていく。

月経を穢れとして扱う慣習に加え、ナプキンの値段が高すぎることが、ナプキンが普及しない原因だった。ラクシュミはいかにしてナプキンの開発のみならず、気軽に利用できるように安く手に入れることにこだわった。そして、ついに安価に清潔なナプキンを製造することに成功するが、それでも、ラクシュミのナプキンは受け容れられない。医学的・衛生的に正しいナプキンができても、だ。失意のラクシュミに、事態を好転させる出来事が起きる。

圧巻は、ラクシュミの功績が認められた後、国連に招かれてニューヨークで演説を行うシーン。たどたどしい英語で訴えかけるラクシュミーに、観衆同様、感銘を受けることになる。

インドでは、2001年にナプキンが非常識なものとして捉えられていると驚くなかれ。マラソンや水泳など、スポーツと月経は今でも「問題」であり続けている。月経についての常識や理解は、対岸の火事ではない。

展覧会 川島秀明個展『Youth』

展覧会 川島秀明個展『Youth』を鑑賞しての備忘録

小山登美夫ギャラリーにて2018年11月24日~12月22日。

写楽の大首絵のように顔(頭部)を大きく描いた人物像や、顔が彗星のように飛び出して髪の毛がその尾のように流れている作品を描く川島秀明の新作展。

展覧会のタイトルにもなっている《Youth》では、夜空に打ち上げられた多数の花火のように、夜、花(?)がびっしりついた樹木を背景に、高校生らしき制服姿の男女が横に並び、正面を見据えている。まずは二人の人物のやや愁いがある真摯な眼差しが印象的。開いた花火の火花が下に落ちていくように描かれた花(?)を印象づけるためか、花の明るさに対して闇夜のように背景を暗くしている。マグリットの作品を連想させる露骨な昼夜対比ではないものの、やはり明暗の不自然さは見る者に訴えるものがある。

《Philosophy》と題された作品では、頭をまるめていることでユニセックスの印象が強調された女性が、本棚を背景に缶ビールを口にし、もの思いに耽り、うとうとする場面が描かれている。異時同図法によって、《一遍上人絵伝》のような絵巻物を想起させる。会場内には、涅槃図のイメージを連想させる鉢植えの花に囲まれて横になる女性像や、手の形から弥勒菩薩像仏像を想起させる女性像なども展示されており、作品を読み解く衝動に駆られる。

梅干しをおかずに白いご飯を口にする女性を描いた《Meshi》。ごくわずかな口の動きに強く惹きつけられ、日常の中にあるささやかな喜びが静かに伝わってきた。

会場内に一部旧作も紹介されているが、渋谷ヒカリエの8/ ART GALLERYでは『川島秀明 個展 [2001-2014]』が開催されていて、これまでの作品を展観している。

展覧会 田根剛『未来の記憶 Search & Research』

展覧会『田根剛 未来の記憶 Archaeology of the Future―Search & Research』を鑑賞しての備忘録
TOTOギャラリー・間にて、2018年10月18日~12月23日。

建築家・田根剛の仕事を紹介する企画。同時期に開催中の東京オペラシティ(「Digging & Building」)では大型の建築模型などを紹介。TOTOギャラリー・間(「Search & Research」)では、田根の仕事場の壁や棚で展開されている「考古学的リサーチ(Archaeological Research)」を会場内に再現し、「場所の記憶を掘り起こす」ための「思考の痕跡」をたどろうとする。

「場所の記憶を掘り起こす」というのは、その建築の持つ形の無限とも言える可能性を絞り込み、なぜその形なのかと施主をはじめとする人々に納得させることのできる文脈をとらえる作業なのだろう。どんな形であろうと、その文脈にふさわしい形が呈示されていれば、建築の形ではなく、その建築の形にまつわるストーリーに納得せざるを得なくなる。それは施主だけでなく、その建築を利用する人々、その建築の周囲にいる人々にとって、その建築が受け容れられる大切な条件となる。

デンマーク自然科学博物館」では支持体(柱ないし壁)の模型の上に岩石を乗せてみている。鉱物標本のように、建物内の展示ケースの中に整然と並べるのではなく、どんと建物の上に自然の物体をのせてしまう。そこに"sense of wonder"を想起させる驚きを発生させられると考えたのだろう。博物館を、自然についての知識を得る場としてのみならず、自然の驚異を体感させる場にしようとして、まずは建築で「おっ」となる体験をさせてしまおうと考えたのだろう。実際に提案されたプランでは、館外の植物を吹き抜けの地下空間にまで導入するなどして、所々で内外環境を相互に干渉させあうよう場が呈示されている。

田根には、「まだ誰も見たことのない、経験したこともない、想像すらしたことのない、そんな建築をつくりたい」という野望もある。
弘前市芸術文化施設(仮称)」なら、appleからedenをひっぱり出してみたり、「Todoroki House in Valley」では、多雨地域の高床式住居からベッヒャーの給水塔(水をリフトするための建築)の写真を取り出してみたりする。オリンピックスタジアムの計画が古墳に行き着くのも突拍子もないが、国立競技場の敷地の周辺環境を入念にリサーチした上でのことだと分かる。リサーチの積み重ねが、奇抜なアイデアにストーリーを与え、説得力を持たせている。

オペラシティに比べれば規模は小さいが、やはり情報量はかなりのもの。時間をかけてリサーチしてきたものを一覧するのだからやむを得ない。

なお、会場は3階と4階の2つのフロアから成り、4階では田根剛の22のプロジェクトを紹介する20分程度の映像作品を四方の壁に投影して上映している。

舞台 iaku『逢いにいくの、雨だけど』

舞台 iaku『逢いにいくの、雨だけど』を鑑賞しての備忘録
三鷹市芸術文化センター星のホールにて、2018年11月29日~12月9日。

 

iakuは劇作家・演出家の横山拓也が2012年に立ち上げた大阪を拠点とする演劇ユニット。三鷹市芸術文化センターでの公演は、『流れんな』(2014年、再演)、『エダニク』(2016年、再演)に次いで3回目で、新作。

 

金森君子(異儀田夏葉)は新進の絵本作家。美大卒業後、焼肉店でアルバイトをしながら制作に励むも長い間芽が出なかったが、画風をがらっと変えた『ひつじのめいたんてい メエたん』で大手出版社主催の絵本新人賞を受賞する。仕事場を提供している石本智(納葉)は手放しで喜ぶが、君子には素直には喜べないわだかまりを抱えていた。
君子が小学4年生のとき、絵画教室のキャンプで、幼馴染みの同級生・大沢潤(尾方宣久)が左目を失明する事故を起こしてしまう。君子が持参していた亡き母の形見のガラスペンを取り合っている際に潤の左目をペン先で突いてしまったのだ。
君子の父・悠太郎(近藤フク)と潤の母・和子(川村紗也)は大学の同級生だが、お互いの子供が偶然同じ絵画教室に通うことになり、また和子は妻に先立たれて娘を抱える悠太郎を心配していたことあって、学生時代以来の交友関係を続けていた。しかし、潤の父・秀典(猪俣三四郎)は、妻が独り身になった悠太郎と頻繁に会うことがかねてから気に入らなかった。潤の通院する病院の近くに引っ越すことで、妻と悠太郎との関係を断ち切ることにした。しかも和子が潤と君子とを合わせたくないと連絡先を教えなかったことから、君子は事故後、一度も潤に会うことがないままだった。
実は、新人賞を受賞した「メエたん」は、潤が年賀状にデザインした干支の未にそっくりだった。ストーリーを考えるのは得意でも絵で苦労していた君子が、苦心の末に記憶の奥底から呼び覚ました潤の未が、メエたんのキャラクターにぴったりはまったのだった。
母を亡くして以来、君子を育ててくれたのは叔母の小出舞子(橋爪未萠里)だった。事故の際、潤のためにも絵を描き続けるよう君子を励ましてくれたのも舞子だった。事故後、何故か家を空けるようになった父に代わり、舞子が事実上の母親として君子の面倒を見続けてくれた。その舞子にも新人賞受賞の話を切り出せないでいるほど、潤の事故は君子にとってトラウマとなっていたのだ。
授賞式の慌ただしい年末が過ぎ、年明け早々、君子は担当編集者から「メエたん」の読者の一人と会うよう依頼される。場所は何故か野球場。出迎えた球場スタッフの風見匡司(松本亮)は娘がファンだと話を切り出すが、突然、君子の絵が大沢潤の作品の盗作であると言い始める。

事故で左目を失明してしまった潤と、事故を招いてしまった君子が27年ぶりに再会して気持ちを伝え合う場面が山場の1つ。潤は繰り返し謝る君子に対して謝らないように要求する。高校の部活で右目を失明した風見は潤を「達観」していると評する。しかし、潤は、謝らなくていいということが「許す」ということではないと言う。10歳の頃の事故で失明した潤は、右目だけで生きる状況を徐々に受け容れて生活してきた。片目の失明以降の生活は、潤にとってかけがえのない日々であり、謝罪されたり償われるべき否定的な価値を持つものではないのだ。潤は片目を失ったことで、失っていない人が見失ってしまう価値を見出すことができているのかもしれない。

作品の前半では、悠太郎と和子の会話シーンがあり、「頭が下がる」ことと「頭が上がらない」こととは同じか否かが話題に上る。ここでは同じ「頭の上がっていない絵」をどのように評価するのか、頭が下がって今の状態なのか、頭を上げられずに今の状態なのかという、捉え方の違いの問題だ。そして、劇中では、同じ出来事に対して、全く違う捉え方がなされる結果が惹起する人間関係が描かれるだろう。

 

iakuの作品は、登場する人物一人一人の思いに共感できる。複数の視点でものを見ることができてしまうのが魅力。本作にもその魅力がある。

展覧会『αM2018「絵と、 」vol.4 千葉正也』

展覧会『αM2018「絵と、 」vol.4 千葉正也』を鑑賞しての備忘録

gallery αMにて、2018年11月10日~2019年1月12日。

gallery αMが1年ごとにゲスト・キュレーターを選定して開催しているシリーズ企画。2018年度は蔵屋美香東京国立近代美術館)がキュレーターとなり、『絵と、 』と題して絵画に取り組む。4回目となる本展では千葉正也を紹介する。

展示室に入ると、左手に数本の木が植えられているのがまず目をひく。観葉植物にしてやや大きすぎる木が、展示室の照明を浴びつつ、葉を落としながら、ギャラリーの空間内に置かれているのだ。入口のそばに"You can use these headphones"との書き込みと指さす手の描かれた絵画が掛けられていて、近くの木にヘッドフォンが掛けられている。ヘッドフォンからは実験音楽的な、ノイズ寄りのサウンドが流れている。その木には上の枝に写真がいくつかかけられている。また、少し離れた柱には、双眼鏡が"You can use these binoculars to see the work"と書いた作品とともに置かれている。
展示室の奥には、"You can sit down on this chair"と描かれた絵画とともに椅子やソファが置かれ、近くに設置された木の上にはやはり写真と絵画とオブジェが設置されている。さらに展示室外の階段にはやはり植木が置かれ、そこにはモニターが設置されて、運転中の車からの景色が延延と映し出されている。

よく分からないもやもやを掲げながら展示室内を一巡した。
この時点では、絵画(芸術)鑑賞を通じたライヴ感覚の模索ということを考えた。インターネットを通じた鑑賞がより簡単に、より精細にできるようになり、現場に足を運ばなければ得られない「体験」をどのように産み出すか。そのための手法として「フルクサス」のような鑑賞者の参画を絵画を通じて企図したのか、と。

「絵になる男:千葉正也の作品について」という蔵屋美香の解説を読んで、植木とそこに飾られた作品が「Jointed Tree Gallery」という千葉正也の樹上展覧会のプロジェクトだと分かる。千葉は自らの作品ではなく、他のアーティストの作品を展示するスペースを樹上に用意していたのだ。

そして、千葉の絵画作品そのものについては、次の通りである。

ここで便宜的に、主体(subject)と客体(object)という西洋哲学の伝統的な二分法を用いてみよう。2014年のわたしの理解では、まず千葉という創造の主体がいる。その主体が絵画という客体(オブジェクト)を作る。このオブジェクトは、完成すれば主体の手を離れ外的な存在となる。この(千葉の場合木材と布地でできた)新しいオブジェクトは、現実のうちに新たに位置を占めることで、既存の現実の秩序をいくばくか組み替える。つまりこのようなやり方で千葉の絵画は現実に関わっていく。
 ところが、どうも千葉はこの主体が客体を作る、という構図で制作を行っているわけではないようなのだ。絵画を描くとき、千葉はどんどん絵画の方に寄って行き、最終的には絵画の側から現実に対して何らかの操作を行なっている、という感覚を得るのだという。千葉にとって絵画の制作とは、客体のうちに移動して主体の地位を失う、つまり自らが「絵になる」事態を指すらしいのである。(蔵屋美香「絵になる男:千葉正也の作品について」)

「千葉にとって絵画の制作とは、客体のうちに移動して主体の地位を失う、つまり自らが『絵になる』事態を指す」という言葉と、会場に置かれた双眼鏡("You can use these binoculars to see the work")とが、ぱっとつながった。それは、江戸川乱歩の「押絵と旅する男」という作品を通じてである。

乱歩の「押絵と旅する男」では、語り手が蜃気楼見物に魚津へ行った帰りの車中で奇妙な老人に出会い、彼が持ち歩く額絵を見させられる。その絵には、「黒天鵞絨の古風な洋服を着た白髪の老」人と、「緋鹿の子の振袖に、黒繻子の帯の映りのよい十七八の、水のたれる様な結綿の美少女」とが描かれている。そして、老人に、その絵を双眼鏡で見るよう指示される。

 娘は動いていた訳ではないが、その全身の感じが、肉眼で見た時とは、ガラリと変って、生気に満ち、青白い顔がやや桃色に上気し、胸は脈打ち(実際私は心臓の鼓動こどうをさえ聞いた)肉体からは縮緬の衣裳を通して、むしむしと、若い女の生気が蒸発して居る様に思われた。

そして、老人はこの絵に描かれた男、自らの兄について語り出す。兄は浅草にあった塔「十二階」から双眼鏡をのぞいているときにみかけた女性に激しく恋をする。そして、その女性が覗きからくりに描かれた「八百屋お七」であることが分かる。しかし兄はその女性を諦めきれず、「押絵の中の男になって、この娘さんと話がして見たい」と言い出す始末。

 もうすっかり暮切って、遠くの玉乗りの花瓦斯が、チロチロと美しく輝き出した時分に、兄はハッと目が醒めた様に、突然私の腕を掴つかんで『アア、いいことを思いついた。お前、お頼みだから、この遠眼鏡をさかさにして、大きなガラス玉の方を目に当てて、そこから私を見ておくれでないか』と、変なことを云い出しました。『何故です』って尋ねても、『まあいいから、そうしてお呉くれな』と申して聞かないのでございます。(略)さかさに覗くのですから、二三間向うに立っている兄の姿が、二尺位に小さくなって、小さい丈けに、ハッキリと、闇の中に浮出して見えるのです。外の景色は何も映らないで、小さくなった兄の洋服姿丈けが、眼鏡の真中に、チンと立っているのです。それが、多分兄があとじさりに歩いて行ったのでしょう。見る見る小さくなって、とうとう一尺位の、人形みたいな可愛らしい姿になってしまいました。そして、その姿が、ツーッと宙に浮いたかと見ると、アッと思う間に、闇の中へ溶け込んでしまったのでございます。
(略)
 ところが、長い間探し疲れて、元の覗き屋の前へ戻って参った時でした。私はハタとある事に気がついたのです。と申すのは、兄は押絵の娘に恋こがれた余り、魔性の遠眼鏡の力を借りて、自分の身体を押絵の娘と同じ位の大きさに縮めて、ソッと押絵の世界へ忍び込んだのではあるまいかということでした。そこで、私はまだ店をかたづけないでいた覗き屋に頼みまして、吉祥寺の場を見せて貰いましたが、なんとあなた、案の定、兄は押絵になって、カンテラの光りの中で、吉三の代りに、嬉し相な顔をして、お七を抱きしめていたではありませんか。

 

千葉の作品そのものは壁に掛けられているので双眼鏡を用いる必要は無いが、「Jointed Tree Gallery」の作品は、双眼鏡で見るにふさわしい程度の距離が作品までの間に存在する。肉眼で見上げているときには、遠くに小さくしか見えず、しかも写真や絵画という形式であることを意識せざるを得ない。しかし、双眼鏡を通して見ると、写真のフレームは視界から消え、被写体だけを捉えることができる。そのとき、遠方の人物をレンズを通して眺めている感覚を味わうことが可能になる。「生気に満ち」ているとは言わないまでも、「その全身の感じが、肉眼で見た時とは、ガラリと変」ることはありうるのだ。

また、「Jointed Tree Gallery」がgallery αMというギャラリーの中のギャラリーである(あるいは展覧会の中で開催されている展覧会)ということも、「押絵と旅する男」が語り手の体験という大枠の小説の中に、老人を語り手とするもう1つの小説が存在することと同じ形式をとっている。

それでは、千葉の絵画における"You can use these binoculars to see the work"のような言葉は何であろうか。「絵画の制作とは、客体のうちに移動して主体の地位を失う、つまり自らが『絵になる』事態を指す」のならば、その言葉は絵画=千葉のメッセージと解するのが素直だろう。そして、双眼鏡で作品をのぞき込む私は、絵画に入ってしまった作者について語り出す老人の役割を担うことになる。やはり鑑賞者は、絵画の鑑賞を通じて、この展覧会に参画せざるを得ない。

 

なお、乱歩の「押絵と旅する男」については、平野嘉彦『ホフマンと乱歩 人形と光学器械のエロス』(みすず書房)の解釈が面白い。