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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 アナ・パボン・ポラス個展『I spit even honey』

展覧会『アナ・パボン・ポラス「I spit even honey」』を鑑賞しての備忘録
NANZUKA 2Gにて、2024年3月15日~4月28日(当初会期4月14日までを延長)。

蔦文様や唐草文様あるいは水玉やハートの幾何学文様のクロスを描いた作品や、それらが覆う空間を描いた作品で構成される、アナ・パボン・ポラス(Ana Pavón Porras)の個展。

《Nosis》*(810mm×1000mm)は、ピンクの唐草模様が上下を帯状に飾り、紺に水色で花を表わした壁紙が背後に貼られた、朱色の台に置かれた女性の肖像画を描いた作品。肖像の主は詩人ノッシス(*Nossisの誤表記かもしれないがそのままとした)であろうか。画面のほとんどは唐草模様の薄紫の布で覆われている。さらに、蔦模様を蝋纈染めした水色の布が左上から画面全体を覆うように掛かっている様が描かれる。《Praxila》**(810mm×1000mm)でも同じ空間を舞台とするが、詩人プラキシラ(**英語では"Praxilla"。タイトルはスペイン語)と思しき肖像の下には水玉を臈纈染めにした黄色い布が敷かれ、ハートの小紋のピンクの布が画面の上から被されている。黄の水玉の布はピンクの唐草の帯よりも下に垂下がっているため、ピンクの唐草の縁は、朱色の台座とは別個のものであるらしい。《Gynoecium Ⅲ》も同じ空間を描くが、画面のほぼ前面を蔦模様の水色の臈纈染めが隠してしまっている。隙間からは覗いた部分には《Praxila》と同じ黄色の水玉の布が見える。画題は雌蕊を表わすものらしい。ノッシスの詩から引用されたという展覧会タイトルの"I spit even honey"の蜜を連想させるとともに、蜜を奥に秘める花の構造が、布などで覆われた絵画のアナロジーとなっていることが知られる。

展覧会 アレックス・カネフスキー『The Battle of Shahbarghan』

展覧会『アレックス・カネフスキー「The Battle of Shahbarghan」』を鑑賞しての備忘録
104GALERIEにて、2024年4月6日~5月11日。

裸婦や山をモティーフとした絵画10点で構成される、アレックス・カネフスキー(Alex Kanevsky)の個展。展覧会のタイトルは、、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの年代記『パドシャーナマ』の挿絵《The Battle of Shahbarghan》(メトロポリタン美術館所蔵)に基づく。

《Landscape with Mountain》(1520mm×1780mm)はニューハンプシャー州のチョコルア山を捉えた作品。画面上段中央に岩肌の露出した尖った山頂がある。樹木に覆われた緑の山腹は、靄によって稜線と空との境が曖昧になっている。点描の樹木ないし長草は山裾に向かって次第に線状に変化し、深緑や黄緑の幅のある長い線によって表わされるに至る。画面最下部では白い刷毛による縦の描線が連なる。チョコルア山に蛇(Water Serpent)の棲み処であるとの伝承があることからすれば、それはウロボロスの鱗甲であろう。山裾から空ないし山頂へと回帰する円環構造(あるいは完全性)を表すのだ。
メインヴィジュアルに採用されている《Chocorua Sleeper》(1010mm×1520mm)には、チョコルア山とともに諸肌を曝した女性が組み合わされている。岩肌を露出させた尖った山頂とその周囲に広がる木々で覆われた山腹が《Landscape with Mountain》よりも鮮明に描かれる。画面の下側3分の1ほどに雪輪模様(?)を散らした水色の着物(?)が拡げられ、赤い敷布を重ねた中央に薄紫の和服を諸肌脱ぎした女性が丸くなって突っ伏している。なぜ女性はこのような奇妙な姿で表われるのか。無論、女性を蛇(Water Serpent)に見立てているからである。丸まる姿勢に蜷局を、半ば脱いだ着物に脱皮を、水色の着物に水を見て取ることは容易である。
ところで展覧会タイトルの由来であるインド絵画《The Battle of Shahbarghan》は、マー・ワラー・アンナフルを舞台にした戦闘を描く。左側には白い壁の砦ないし城の守備に当たる騎乗の弓兵が、右側には槍や刀を手に攻め込む騎兵が、整然と並んで対峙する。背後には尖峰の山が聳える。 《The Battle of Shahbarghan》に基づく作品が、《Mughal Battle with Model》(1270mm×1070mm)である。原画をコピーしたものを短冊状に切って時間を延長させるかのように貼り合せた画面は渾然として、原画を知らなければ何を描いているか分からないだろう。但し切り立った峰ははっきりとその姿を現わしている。原作との何よりの違いは、画面中央に立つ裸の女性の存在である。グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)が水蛇(Wasserschlangen/Water Serpents)を女性として描いていることを介して、チョコルア山を離れても裸の女性を蛇、ウロボロスを見ることは不可能とまではいえない。原画の整然とした隊列を揺れ動く残像のように崩した作家は山を不動な存在として捉えた。裸婦が象徴する山を棲み処とする蛇=ウロボロスは、時と場所とを異にする世界を今、此所に繋げてみせる。

 仏教では、現象界の存在者は縁起的にのみ有であって、「本質」的には無であり、「本質」そのものも無。「本質」をこの無から救い出すことはどうしてもできない。現象界を離脱して、深層意識に開ける形而上学的地平に置いて観れば、ますます「本質」の無は深まるばかりだ。ところが不二一元論では、現象界の存在者は全てブラフマンそのもの、われわれの表層意識面での現われであるかぎりにおいて有であり、それらの存在者の「本質」は個体的にこそ無であるが、それらの存在者はすべてブラフマンという唯一の絶対的「本質」を共有する、その意味での「本質」は有である。
 幽邃なシャンカラの不二一元論を、私はこんな簡単な叙述で尽くそうとするのではない。ただ、いま述べた、一切の存在者に共通する絶対唯一の「本質」という考えが、東洋哲学の本質論一般において、1つの典型的思惟形態を提示している、そのことを指摘したかったのである。経験的世界の一切の事物が唯一の「本質」を共有する、そしてまたまさにそのことによって無でなくて有である、というこの立場は、事実、東洋では実在体験的、実在思考的な1つの典型であって、東洋哲学のいろいろなところに、形を変えて繰り返し現われてくる。例えばイスラームにおけるイブン・アラビー系の存在一性論などもその1つ。
 存在一性論も経験界の事物を真実在者のたんなる現われとし、そのかぎりにおいて、自体的には「無的」(‘adamī)であるとする。そしてそららの経験的存在者のそれぞれをそのものとして固定する「本質」を、われわれの表層意識の概念恣意的な虚構であるとして、その実在性を否定する。もともと「存在一性論」(waḥdat al-wujūd))とは「存在」を唯一絶対の真実在とし、「本質」を無とする立場なのである、例えばいま眼前に咲いている花を花として見るのは妄念の働きにすぎない。本当は、花を花として見るべきではなく、花を「存在」の特殊な限定的顕現形態として観るべきなのだ。つまり花という現れの形のかげにひそむ唯一の真実在、「存在」の姿をそこに見なければならないのである。
 花を花として――というより、「存在」を花として――われわれに見せるものは、本来絶対的無限定者、絶対無分節者である「存在」を分節し限定する「限界線」(ḥadd,複数ḥudūd)である、とイブン・アラビーはいう。「限界線」は構造的には、ヴェーダーンタブラフマンを「名と形」的に現象させる「限定者」(サンスクリットupādhi)に当たるもので、このḥaddというアラビア語がそのままイスラーム哲学では「定義」を意味する述語であることは注目に価する。もともと、「定義」とは事物の「本質」を言語的に明示したものであり、従ってここで「限界線」と呼ばれるものは、すなわち「本質」を意味する。
 イブン・アラビーによれば、世界すなわち全存在界は唯一無二の真実在である絶対無分節の「存在」が様々な「限界線」によって分節された形でわれわれの表層意識に現われたもの。従って、われわれの側での意識の次元転換によって「限界線」が全部取り払われてしまえば、「存在」がその本来の無分節態において観想されるはずである。この無分節態における「存在」、すなわち絶対一者は、だから、構造的に無相のブラフマンと違うところはない。(井筒俊彦『意識と本質 精神的東洋を索めて』岩波書店岩波文庫〕/1991/p.28-30)

《Mughal Battle with Model》が描き出すのは、「世界すなわち全存在界は唯一無二の真実在である絶対無分節の『存在』が様々な『限界線』によって分節された形でわれわれの表層意識に現われたもの」に過ぎないという認識である。

映画『リンダはチキンがたべたい!』

映画『リンダはチキンがたべたい!』を鑑賞しての備忘録
2023年製作のフランス映画。
76分。
監督・原案・脚本は、キアラ・マルタ(Chiara Malta)とセバスチャン・ローデンバック(Sébastien Laudenbach)。
キャラクターデザインは、セバスチャン・ローデンバック(Sébastien Laudenbach)。
編集は、カトリーヌ・アラデニーズ(Catherine Aladenise)。
音楽は、クレモン・デュコル(Clément Ducol)。
原題は、"Linda veut du poulet!"。

 

記憶の底は真っ暗闇です。夕方、ローマ上空を覆うムクドリの群れのように。1人で眠る暗いベッドのように。大好きな熱い珈琲のように。真っ暗闇では記憶を見失ってしまいます。ですが真っ暗な奥底に記憶が隠れています。それは忘れられた世界、真の帝国です。誰かがやって来て呼び戻すのを記憶は静かに辛抱強く待っています。
幼いリンダ(Mélinée Leclerc)に母親のポレット(Clotilde Hesme)が手の指について教える。1本目は親指。おしゃぶりする指。2本目は人差指。ドアのベルを鳴らす指。3本目は中指。大きくて恐ろしい。4本目は薬指。指輪を嵌める指。これはママの指輪、口に入れないでね。父親ジュリオ(Pietro Sermonti)がご飯が出来たとポレットとリンダを呼ぶ。ジュリオが作ったのは鶏肉とパプリカのローマ風煮込み。ジュリオがリンダの口元に鶏肉を運んでやり、ポレットが吹いて冷ましてやる。シャンパンを開けよう。ジュリオの様子がおかしい。どうしたのジュリオ? 放っておかれたリンダは指輪を手にしていたが、そのうち泣き始める。…という、父親についてのリンダの記憶。
リンダが鏡台にある宝石箱に手を伸ばす。ガッツァが鳴き声を上げる。静かに! リンダは指輪を見付け、指に嵌める。そこにポレットがやって来る。私のものに勝手に触らないでくれる? この指輪は子供用だよ。私のよ。知ってるでしょ。食事にしましょう。グラタンにする、それともラザニア? どうして私の指に合うの? それはあなたが大きくなったからよ。あなたの指は太いからね。ポレットが電子レンジで温めたグラタンとラザニアをテーブルに取り出す。どっちにする? 同じでしょ。ポレットがリンダから指輪を取り上げる。少しだけ貸して。駄目。リンダは貸して貸してと繰り返し強請る。止むなくポレットは今夜だけよと指輪を貸し与える。リンダの暮らす古い団地が夕闇に包まれる。中庭に残っていたフィデル(Milan Cerisier)とキャストル(Nahil Mostefa)が食事だと母親に呼ばれる。
翌朝。ポレットはラジオのニュースを流しながら支度を調えている。労働組合は明日のゼネストを実施する構えを崩していません。デモもパリを始め全土で予定されています。国鉄は午前0時に24時間のストライキに突入する予定で、パリ交通公団は路線により25~40%の減便となります。支度できたよ! 何で手をポケットに入れてるの? 寒いから。手を出して見せて。口紅塗った? 手を出して。右手を出す。もう片方は? 左手には指輪が嵌めてあった。やっぱり。もう少しだけ貸して。駄目、置いて行きなさい。遅刻しちゃうわ。リンダが母親の部屋に行って戻って来る。
小学校。教室では先生がフランス革命について説明しているがリンダは上の空。解決策を話し合うための集会を国王が禁じましたが、民衆はとても受け容れることはできませんでした。国王を裁判にかけて、死刑を宣告し、切り落とした首を掲げて行進したのです。終業のベルが鳴り響く。明日はストよ。やったー! 生徒たちは休みだと大喜び。ぼんやりしていたリンダが慌ててアネット(Scarlett Cholleton)を追いかける。そのベレー帽、いいね。気に入った? ママが買ってくれたの。黄色好き。とっても可愛いね。私のママは何も買ってくれない。2人も皆と一緒に下校する。

 

小学生のリンダ(Mélinée Leclerc)は母親ポレット(Clotilde Hesme)と2人暮らし。リンダが幼い頃に急死した父親ジュリオ(Pietro Sermonti)の記憶は、鶏肉とパプリカのローマ風煮込みを作って食べさせてくれたこと。リンダはジュリオがポレットに贈った指輪を気になって仕方なく勝手に取り出して嵌めていたが、母親から外して宝石箱に仕舞うように言われる。その指輪が無くなっているのに気づいたポレットは、学校から帰宅したリンダがベレー帽を被っているのを見て、指輪と交換に手に入れたものと疑う。アネット(Scarlett Cholleton)から借りているベレー帽を取り上げられてしまったリンダは取り戻すためにやむを得ず指輪と交換したことにする。怒りに駆られたポレットはベレー帽を没収し、姉のアストリッド(Laetitia Dosch)の家に無理矢理リンダを預けた。ところが帰宅して水漏れを始末をしていたポレットは飼い猫のガッツァが指輪を呑み込んでいたことを知る。慌てて姉の家にリンダを迎えに戻ったポレットは、娘に謝り、償うために何でも望みを聞くことにした。リンダは鶏肉とパプリカのローマ風煮込みを作って食べさせて欲しいと強請る。料理の苦手なポレットは帰宅すると埃を被った料理書を引っ張り出す。翌朝、ポレットはリンダとともに鶏肉を買いに行くが、どの店もゼネストのために営業していなかった。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

アニメーション作品。人物はそれぞれ1色で塗られ(リンダは黄色、ポーレットはオレンジなど)、黒いパステルの限られた線で表情や衣装、各人の個性が見事に描き出される。遠景では人物はカラーの円として表わされる。樹木など一部の背景の表現も人物同様で、写実的な手法をとらない。見ているうちすぐに慣れてしまう。夜、走行する自動車の車内の表現などには写実以上のリアリティがある。
リンダは古い団地に住んでいる。中庭のような公園のある空間を取り囲むように数棟の集合住宅が建つ。子供たちは中庭だけでなく建物も遊び場に変えてしまう。一角にはスーパーマーケットがあり、子供たちのお遣いはそこで事足りる。団地の子供たちにとって、世界はほとんど団地と学校で、そこで起きた出来事は皆が共有してしまう(例えば、リンダがポーレットに平手打ちされたことを子供たちが察知するし、ポーレットもそれを重々承知している)。
ポーレットの結婚指輪はエメラルドのように緑の円で輝く。古い集合住宅で倹しい生活を送るリンダにとって、指輪の輝きは眩しいものに違いない。もっともリンダが指輪に執着するのは、その輝きが、指輪を贈った亡き父ジュリオとの結び付きを象徴するからである。リンダは父親との繋がりを求めているのだ。
ポーレットは指輪が無くなったときにリンダが盗ったと思い込んでしまう。指輪を持ち去ったのが飼い猫のガッツァの仕業だと知って、大いに反省する。ポーレットはリンダの望み――ジュリオの手料理、鶏肉とパプリカのローマ風煮込みを食べたい――叶えてやることにする。
ポーレットがリンダの望みを叶えようと奔走(暴走)する様が描かれ、リンダのキャラクターがポーレット譲りだと分かる。
小学校で先生がフランス革命で国王の首が刎ねられたことを説明するのは、フランスの象徴は鶏(coq gaulois)であり、鶏を絞めることの伏線を張るためであろう。ゼネストで店が閉っているというのもフランスらしい。
1羽の鶏が「5つのパンと2匹の魚」(ヨハネによる福音書)を彷彿とさせる場面も。
母親の名前がポーレットなのは、タイトル"Linda veut du poulet!"に引っ掛けて、リンダが母親にお強請りする("Linda veut de Paulette quelque chose.")意味を含ませているようだ。

展覧会 須田日菜子個展『存在が花する』

展覧会『須田日菜子「存在が花する」』を鑑賞しての備忘録
横浜マリンタワー 2階 アートギャラリーにて、2024年3月1日~4月29日。

寝そべる人物をモティーフとする絵画「存在が花する」シリーズ3点と、手を描いた「て」シリーズ2点とで構成される、須田日菜子の個展。「野草:いま、ここで生きてる」をテーマとする第8回横浜トリエンナーレの関連企画。

「存在が花する」シリーズ3点は、いずれも横長の綿布(各1900mm×3200mm)に黒いアクリル絵具をスプレーして、左側に頭、右側に脚を出して横になる人物を表わした作品である。身体の輪郭を限られた線のみで略画のように表現する。規模はともかく仙厓義梵の禅画を想起させる。右肘を上げるように折り曲げ右手は頭の後ろに置かれ、左肘も折り曲げて左手は背中の後ろに回されている。脚は水平に伸び、足先は描かれない。頭には円弧3つで両目と口とが添えられ、胸には十字状の亀裂のようなものがある。身体の下側の線の表現や、脚の長短(画面横幅に対し4分の1、8分の3、2分の1)、首元の線の有無、胸の十字の表現、頭部の丸さ、左手の表現などに差異があるが、一見すると区別が付かないほど3点はよく似ている。
腕を上げて横たわるポーズはフランシスコ・デ・ゴヤ(Francisco de Goya)の《裸のマハ(La Maja desnuda)》に近いが、身体の向きからすれば、むしろティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio)の《ウルビーノのヴィーナス(Venere di Urbino)》の系譜に連なる。エドゥアール・マネ(Édouard Manet)はウフィツィ美術館で《ウルビーノのヴィーナス》を模写し、後に代表作《オランピア(Olympia)》を制作している(三浦篤エドゥアール・マネ 西洋絵画史の革命』KADOKAWA角川選書〕/2018/p.52-54参照)。

 (略)マネは古典的ヌードの偉大な先例に依拠しつつ、その本質をことごとく裏切っているのだ。《ウルビーノのヴィーナス》のとは異なり、《オランピア》の裸体は理想化にはほど遠いプロポーションで、卑俗な現実性が付与されている。顔立ちも身体つきも含めて、モデルの個性がこれだけ生々しく露出するヌードは、ゴヤの《裸のマハ》を例外とすれば、《オランピア》以前には存在しなかった。様式的な面からは、《オランピア》が三次元性や立体感を残しつつも、二次元性や平面性への志向を混在させていることも興味深い。肌やシーツなどの陰影を表す半濃淡技法は滑らかさが欠如し、裸体の肉付けの凹凸感が部位によってばらつきがあるなど、ルネサンス以来の伝統的な絵画様式に亀裂が入ったような危うさや不安定な感覚が、マネの作品にはみなぎっている。そのことがまた、《ウルビーノのヴィーナス》における柔らかさと魅力に対して、《オランピア》の固さと違和感を示す大きな理由である。
 結局のところ、《ウルビーノのヴィーナス》は一貫性と均質性をそなえた、古典的な意味で「美しいヌード」であり、《オランピア》は矛盾や両義性、表現のばらつきを露呈した、近代的な意味で「新しいヌード」であった。後者は前者を継承しつつも、その否定の上に成立しているであるがゆえに、この絵は1865年のサロンで一大スキャンダルとなった。理想化された裸体像ではなく現実的な裸の女性であるという主題の扱いにおいても、空間性や立体感に乏しい平面的な彩色という造形性においても、それまでのヌードから逸脱していたからである。(三浦篤エドゥアール・マネ 西洋絵画史の革命』KADOKAWA角川選書〕/2018/p.55-56)

「存在が花する」シリーズは、略画のように身体を表現する。それは男女の性を超越するためであろう。スプレーによる模糊とした線は、身体が空間に溶けていく様を表わすことで、煩悩が消え去った涅槃を象徴するのではなかろうか。《ウルビーノのヴィーナス》の女神による聖性を《オランピア》が否定するなら、それをさらに否定(二重否定)して聖性を打ち出すのが「存在が花する」シリーズであり、なおかつ西洋の伝統を東洋の伝統で捉え直しているのである。横たわる身体が涅槃像に擬えられるからだけではない。「存在が花する」というタイトルに、東洋哲学の世界観を打ち出しているのは明白である。

 仏教では、現象界の存在者は縁起的にのみ有であって、「本質」的には無であり、「本質」そのものも無。「本質」をこの無から救い出すことはどうしてもできない。現象界を離脱して、深層意識に開ける形而上学的地平に置いて観れば、ますます「本質」の無は深まるばかりだ。ところが不二一元論では、現象界の存在者は全てブラフマンそのもの、われわれの表層意識面での現われであるかぎりにおいて有であり、それらの存在者の「本質」は個体的にこそ無であるが、それらの存在者はすべてブラフマンという唯一の絶対的「本質」を共有する、その意味での「本質」は有である。
 幽邃なシャンカラの不二一元論を、私はこんな簡単な叙述で尽くそうとするのではない。ただ、いま述べた、一切の存在者に共通する絶対唯一の「本質」という考えが、東洋哲学の本質論一般において、1つの典型的思惟形態を提示している、そのことを指摘したかったのである。経験的世界の一切の事物が唯一の「本質」を共有する、そしてまたまさにそのことによって無でなくて有である、というこの立場は、事実、東洋では実在体験的、実在思考的な1つの典型であって、東洋哲学のいろいろなところに、形を変えて繰り返し現われてくる。例えばイスラームにおけるイブン・アラビー系の存在一性論などもその1つ。
 存在一性論も経験界の事物を真実在者のたんなる現われとし、そのかぎりにおいて、自体的には「無的」(‘adamī)であるとする。そしてそららの経験的存在者のそれぞれをそのものとして固定する「本質」を、われわれの表層意識の概念恣意的な虚構であるとして、その実在性を否定する。もともと「存在一性論」(waḥdat al-wujūd))とは「存在」を唯一絶対の真実在とし、「本質」を無とする立場なのである、例えばいま眼前に咲いている花を花として見るのは妄念の働きにすぎない。本当は、花を花として見るべきではなく、花を「存在」の特殊な限定的顕現形態として観るべきなのだ。つまり花という現れの形のかげにひそむ唯一の真実在、「存在」の姿をそこに見なければならないのである。
 花を花として――というより、「存在」を花として――われわれに見せるものは、本来絶対的無限定者、絶対無分節者である「存在」を分節し限定する「限界線」(ḥadd,複数ḥudūd)である、とイブン・アラビーはいう。「限界線」は構造的には、ヴェーダーンタブラフマンを「名と形」的に現象させる「限定者」(サンスクリットupādhi)に当たるもので、このḥaddというアラビア語がそのままイスラーム哲学では「定義」を意味する述語であることは注目に価する。もともと、「定義」とは事物の「本質」を言語的に明示したものであり、従ってここで「限界線」と呼ばれるものは、すなわち「本質」を意味する。
 イブン・アラビーによれば、世界すなわち全存在界は唯一無二の真実在である絶対無分節の「存在」が様々な「限界線」によって分節された形でわれわれの表層意識に現われたもの。従って、われわれの側での意識の次元転換によって「限界線」が全部取り払われてしまえば、「存在」がその本来の無分節態において観想されるはずである。この無分節態における「存在」、すなわち絶対一者は、だから、構造的に無相のブラフマンと違うところはない。(井筒俊彦『意識と本質 精神的東洋を索めて』岩波書店岩波文庫〕/1991/p.28-30)

「存在が花する」シリーズの身体の胸に描き込まれた十字状のものは、無分節の世界である「存在」に穿たれた「限界線」である。切断とともに花のイメージを喚起するために十字状で表わされたのだろう。そして、敢て「存在が花する」状況を描き出すことで、「『存在』がその本来の無分節態において観想される」意識の転換を鑑賞者に促すのである。「存在が花する」シリーズは公案であり、仙厓義梵の系譜に連なる、現代の禅画であった。

展覧会 佐藤貢一個展『Specifically Random』

展覧会『佐藤貢一「Specifically Random」』を鑑賞しての備忘録
NANZUKA UNDERGROUNDにて、2024年3月22日~4月28日。

どこか間の抜けていて憎めない人物を大らかに描き出した絵画で構成される、佐藤貢一の個展。

《Could This Job be Replaced by AI?》(1778mm×1168mm)には、チキンナゲットの宣伝のためのものか、ニワトリの扮装をした2人の男が被っていた鶏の頭を外して休憩する様子が描かれる。茶色の羽根の男はチキンナゲットの入ったどっさり入ったカップを持ってビールを立ちながら飲み、黄色の羽根の男はビールを手に腰を降ろしている。褐色の肌に茶色い髪、垂れ目で大きな鼻を持ち口髭を生やす2人は瓜二つである。ニワトリの衣装は趾まで再現されていて、2人は趾の手袋をしたまま器用にビールやカップを持っている。男たち、茶色いニワトリの着ぐるみ、2人のいる公園(?)の塀、奥に立つ煉瓦造りの建物などが茶の系統で統一され、一体感がある。鶏の格好をした男たちが鶏肉を食べるのは、一種の「共食い」である。《Could This Job be Replaced by AI?》との題名からすれば、鶏(チキンナゲット)を食べる人間は、AIに食べられようとしていることになる。昔噺の『順ぐり食い』を彷彿とさせるではないか。
《Hot Dog Dog》(1778mm×1168mm)には、5匹の犬の散歩に訪れた女性がホットドッグスタンドで買ったホットドッグに齧り付いている様子が描かれる。青のTシャツに水色のデニムのジャケットを羽織り、緑のロングスカートを穿いた女性は右手にホットドッグを、左手で犬を抱く。彼女の足下には4匹の異なる種類の犬が並んで行儀良く坐っている。抱えた犬には赤い首輪が見えるので彼女の飼い犬だろうが、他の4匹には首輪やリードが見当たらないので関係は定かではない(犬の散歩の代行ではなさそうだ)。背後には、青と黄のパラソルの下にバンズ、ケチャップとマスタード、コーラのカップなどが整然と並ぶスタンドがある。ホットドッグ(hotdog)は名前に犬(dog)があるために、犬を連れた女性が食べるとおかしみが感じられる。女性は「犬」を食べて犬になる。
《Greed & Inequality》(1828mm×1524mm)には、虎や豹のような飼い猫に囲まれて赤茶の革張りのソファに腰掛ける女性の姿が描かれる。褐色の肌の女性はダークブラウンのアニマル柄(?)のノースリーブワンピースを身に付け、サンダルを履いている。脚を組み、右肘を高く上げて右手をを背後から左肩の辺りに回している。背後は観葉植物が覆い、脇に立つカバン掛けを止まり木にフクロウがいて、目がついた猫のような鞄が掛けてある。深い緑色の絨毯の上にはアニマル柄の鞄や履き物がいくつも散乱している。その中を這い回る3匹の猫までが虎や豹といったアニマル柄なのが滑稽だ。女性が右腕を不自然に持ち上げているのは、鞄の把手に擬態させるためではないか。飛び降りる猫の尻尾、梟の顔などもバッグの把手のような形状で表現されているからである。

 言葉を換えれば、生き物に命を与える生には、個体や種に関わるようなところがない。生は生きものの身体に留まりうるが、出ていくこともできるし、限りなく多様な他の種に属する個体を養うこともできる。この事実にはきわめて不可解なことがある。わたしたちがみな絶対的に個人的で固有のものと考えるような生は、じつのところ、本質的に匿名的かつ普遍的で、どんな種類の生ける身体にも命を与えることができるのである。ある意味、栄養を補給する行為はどれも、自分が食べているものと本質的に同一な生をわたしたちが有しているということを示している。わたしたちが死ぬときにはかならずや他の生き物もののご馳走となるであろうという事実によって、このことは明らかとなる。
 次のことに気づくとき、わたしたちは困惑すると同時に驚かされる。すなわち、生はわたしたちが食べるものの最も秘められた奥底に横たわっており、わたしたちを生み出すことができるのである。この生は、わたしたちのなかにある生とまったく同じ生である。栄養補給とはなによりまずこうしたものなのだ。すなわち、わたしたちを生気づけることと食べられた身体を生気づけることを同時に、かつ同じ権利でもっておこなうこの同一の生について熟視することであり、至るところで――わたしたちにおいて、また、わたしたちの外で――生きることのできるこの生を熟視することである。わたしたちの身体、ガチョウ、ニワトリ、リンゴ、キウイはそのどれもが生の変異であり、未規定の生なのである。
 食事とは生とをその最も恐ろしい普遍性において熟視することである。すべてを消化し、吸収し、すべてを支持し、破壊する生は、それを受け入れる形態に満足することはけっしてないように思われる。つまり限界がないように見える。未規定で雑食性である生は、あらゆる未来の形態――ニワトリが人間になり、人間がミミズになり、ミミズがハトになる、等々――を捨ててしまうことができない。真のループなどない。生は身体から身体、種から種へと移動し、そのときの自分の形態に完全に満足することはけっしてない。食べるとはこうしたことにほかならない。すなわち、ただ1つの生、あらゆる生きものに共通で、身体のあいだや種のあいだを循環することのできる生しか存在しないという証である。それはつまり、自然、種、人格といういかなる障壁をもってしても、唯一の形態、唯一の身体のなかに永遠に留まるよう生に強いることはできないという証である(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.98-99)

「あらゆる生きものに共通で、身体のあいだや種のあいだを循環することのできる生」がどんなものに宿るか、すなわちどんな形態をとるかは、はっきりと出鱈目(Specifically Random)なのだ。