可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 鈴木明日香個展

展覧会『鈴木明日香個展』
不忍画廊にて、2022年5月13日~28日。

エアリアル》(2015)は、縦50cm×横150cmのパネルを横に4枚繋ぎ、幅が6mに達する画面を持つ。横に伸びる画面自体特異であるが、それ以上に作品をユニークなものにしているのは、画面のあちらこちらに描かれる腕(手)である。画面を覆う暗い雲の隙間から漏れる色取り取りの光を背景に、遠近もあって様々な大きさで描かれる腕は、輝くような白い肌を持つものもあるが、多くは僅かな光で暗く沈み、あるいはほぼシルエットとなっている。空に描かれていることもあり、鳥が翼を広げ群れ飛ぶ姿に見立てることも不可能とまでは言えまいが、写実的な描写がそれを容易には許さない。腕が伸ばされる様は何かを求める様のようであるが、それぞれの手の形は、よくぞこれだけ描き分けたものだと感心するほど、それぞれに異なっている。あるいは印相のような意味を含んでいるのかもしれない。暗い雲は様々な色味のオイルパステルを塗り重ねることで表わしたもので、銅版画に用いられるニードルで細かな点や線を刻むことで、下層の色が色取り取りの光となって現れる。その背景に、腕が油絵具で描かれている。
極端に横に長い画面は線形的な時間を連想させる。そして、色の層あるいは画面上の高低が音階を、腕(手)が音符をイメージさせる。画面全体が楽譜のメタファーになっていると言えまいか。

 音階は音の階段。こう書くと、ごくあたりまえのようだが、自然現象である音がどのようにして音階になったかと考えてみると、これは全然あたりまえのことではない。そこには、人類が音を手にするまでの、じつに膨大な時の流れがあるからだ。自然界の音は、そのままでは音楽にはならない。風と波の音を集めても、効果音にはなるかもしれないが、音楽とはいえない。その音をつかまえて整理し、音楽として使えるように高さの順に配列したのが音階だ。音階の誕生は、人が自然界の音に「かたち」を与えるための、とてつもなく大きなステップである。これによって、音楽がつくられるためのフォームが確立されたからだ。(浦久俊彦『138億年の音楽史講談社講談社現代新書〕/2016年/p.48-49)

エアリアル》の天空に鏤められた様々な手は、「人が自然界の音に「かたち」を与える」ars(手業)である音楽を意味するものではないだろうか。それならば、手の形のみで表わされる音楽は、旋律の音楽であるインド音楽に擬えることができるかもしれない。様々な手の形は恰も「ラーガ」に従うかのようである。

 インド音楽は旋律の音楽である。西洋音楽のように異なった音を同時に響かせるという和音(ハーモニー)の発想はない。と書くと、まるでインド音楽にはハーモニーの概念がないと思われるかもしれないが、そうではない。インドでは、音楽は全宇宙のハーモニーの縮図だと考えられているのだ。ここでいうハーモニーとは、和音というよりも調和を意味する。宇宙の縮図である人間は、脈拍、心臓の鼓動、波動、リズム、音調のなかに和音や不協和音を表し、健康、病気、喜びや苦痛は、どれも生命における音楽や、その欠如を示すという。これが、インド音楽の基本的な考え方である。
 旋律だけの音楽といえばシンプルに聞こえるかもしれないが、ここからが複雑だ。北インド音楽では、旋律は「ラーガ」と呼ばれる旋法の規則に厳格に従うことを要求される。ラーガには、音列だけでなく、旋律線の上行・下降の動きや、音列上の特定の音の強弱、ポルタメント(音程を滑らせて移行する)や、ビブラート(音程を微妙に震わせる)などの非常にきめ細かな規則がある。さらに使用すべき旋律形と避けるべき旋律形の規則や、朝、午後、夕方など演奏する時間ごとにも特定のラーガがあるという。
 サンスクリット語で「色」を意味するラーガは、まるで、赤、青、黄、黒などの組み合わせから数万もの色彩をつくりだすように、いくつかの音と表現方法の自在な組み合わせによって、多彩な旋律を生み出すための、まさに音のパレットだ。北インド音楽のラーガの総数は、あくまで理論上の数値とはいえ、3万4848種類(!)もあるという。長・短たったふたつの旋法の上に、多彩な音の建造物を建てた近代西洋音楽とは、あまりにも対照的だ。
 だが、ラーガをがんじがらめに縛られた厳格で窮屈なルールと理解してしまうと、インド音楽の持つ奥深さと魅力はみえてこない。ラーガは、インド音楽文化が、壮大な哲学と自然の法則から膨大な時間をかけて練り上げた、宇宙と自然のメカニズムに沿うための美しい体系であり、波動システムでもあるからだ。
 それに、ここがインド音楽のすばらしいところだが、ラーガは、規則によって演奏者を縛り付けるためにではなく、演奏者に真の自由を与えるために存在している。つまり、ラーガとは、全宇宙のハーモニーと調和するという魂の自由を得るための翼なのだ。(浦久俊彦『138億年の音楽史講談社講談社現代新書〕/2016年/p.26-27)

雲間から照り映える紫、青、水色、ピンクなどの空は様々な時間であり、それに応じて使用すべき旋律形が、数多の手の形とその組み合わせによって表現されている。空に浮かぶ手は鳥のようであり、「全宇宙のハーモニーと調和するという魂の自由を得るための翼」に擬えられる。

本展のメインヴィジュアルに採用されている《落日》(2014)(1620mm×730mm)では、(女性の)身体が太陽に擬えられている。あるいは《インフルエンツィア》では、身体の様々な部位が有明の月を取り囲み、月明かりを受けて様々な色に発光している。天体≒宇宙と身体=人間との影響関係が作家のテーマであることが窺える。

 さて、古代ギリシャ時代の音楽観がわかる恰好の資料がある。5~6世紀ローマの哲学者ボエティウスが著した『音楽論』である。ここに、古代ギリシャの音楽が3種の分類で示されている。「宇宙の音楽」(musica mundana)、「人体の音楽」(musica humana)、「道具の音楽」(musica instrumentalis)である。
 ところで、この3種の分類は、ぼくたちの常識的な音楽とはまったくかけ離れている。このなかでいまでも音楽として通用するのは、第3の「道具の音楽」だけだ。この「道具」には、楽器だけでなく人の声も含まれるというから、何か「音の出るモノ」を使う音楽は、すべて道具の音楽となる。ほかのふたつ、宇宙の音楽と人体の音楽は、メロディーがあって演奏できるような音楽ではない。つまり、聞こえる音楽ではないのだ。
 だが、古代ギリシャ人たちにとっては、どちらも音楽であることに変わりはなかった。それどころか、聴こえる音楽よりも聴こえない音楽が、より高度な音楽と考えられていた。肉体をコントロールするのは精神なので、精神は肉体よりも上位にある。したがって、耳で聴く音楽よりも精神で聴く音楽の方が高位にある、というわけだ。
 聴こえないのに、どうして音楽といえるのか、音楽を耳ではなく精神で聴くとは、どういうことか。音がなければ音楽ではないと思い込んでいるような現代人には、なかなか理解することができないが、よく考えてみれば、ぼくたちの周囲にも「聴こえない音楽」はある。
 たとえば、耳には聴こえないが、気配を感じる。これは「波動」を感じているということだ。空気を読むとか、オーラとか、テレパシーとか、これらも波動の一種だが、音もまた波動である。音楽を聴くことは、音を聴くことだけではなく波動を感じることでもあるのだ。そう考えれば、古代ギリシャ人たちが、天体の動きのなかに音楽を感じていたことも、おぼろげながらわかる気がする。
 どちらも聴こえない音楽と考えられている「人体」の音楽と「宇宙」の音楽。このふたつの音楽について、ボエティウスは、次のように書いている。まずは、人体の音楽から。「人体の音楽は、人間自らにかんするものである。人間の身体と、かたちのない理性の働きを結合するのは、調和以外に何があるか。それは低音と高音が協和するときの正しい混合の状態に似ている」。
 次に、宇宙の音楽。「宇宙の音楽は、天体、あるいは要素の結合、あるいは季節の移行においてとらえられる。天体という機会は、あれほど速く動いているので、音を生じないで動くなどありえない。たとえその音がわれわれに聴こえなくても、あのように大きな天体があのように速く動くので、音がしないなどということはありえない」。
 天体が動き回っているから音がするはずだとはすごい着想だが、それはともかく、ふあつの音楽はともに、「結合」「調和」など、何かと何かを結びつけることが強調されている。この意味するところが「ハルモニア」である。(略)
 (略)
 古代ギリシャでは、人体とはもうひとつの宇宙であると考えられていた。マクロコスモスとしての宇宙と、ミクロコスモスとしての人体である。ヒトの魂にはもうひとつの宇宙(ミクロコスモス)があって、それが外界に果てしなく広がる宇宙(マクロコスモス)と対応している。つまり、人体と宇宙はつながっている。人体の音楽は、宇宙の音楽のいわば縮図である。だからこそ、宇宙の音楽は、人間の精神や肉体に切実な意味を持つと考えられたのだ。(浦久俊彦『138億年の音楽史講談社講談社現代新書〕/2016年/p.38-41, p.43)

《黄泉比良坂》(2020)(160mm×273mm)は、青味を帯びた暗い画面の、右上から左下の対角線の右側に、手や腕が白い線で浮かび上がる。そこは平行して蛇行する線の繰り返しによって表わされた波が覆っている。対角線の左側は雲を思わせる不定形の模糊とした形が広がり、その隙間からは光が漏れている。ところで、青木繁の著名な同題作品《黄泉比良坂》(1903)(485mm×335mm)では、イザナギが、亡き妻イザナミに会いに向かった黄泉の国で、変わり果てた妻の姿を目にし、慌てて逃げ帰って黄泉比良坂を越えた場面が描かれている。暗い海中にも見える、死者の世界である混沌とした黄泉と、イザナミ自身を含む追手が縋るように腕を伸ばす姿とが縦長の画面のほとんどを占め、右上8分の1程度に、頭を抱えて逃げるイザナギの後ろ姿が光を浴びて浮かび上がっている。本展に出展されている《黄泉比良坂》は、直接イザナギを表わす表現がないため、青木作品と同じ場面を描いたものかどうかは定かではない。もっとも、無数の手の表現は、イザナギを追う、イザナミら(の手)と解することは十分に可能である。むしろ、イザナギイザナミの表現を避けたのは、黄泉比良坂をモティーフにしつつ、冥府下り一般にテーマを抽象化する狙いがあったのかもしれない。作家は、オルフェウスを光として画面に召喚し、無数の手が彼の音(=波)を手にしようと藻搔く様に見える。「自然界の音は、そのままでは音楽にはならない。風と波の音を集めても、効果音にはなるかもしれないが、音楽とはいえない。その音をつかまえて整理し、音楽として使えるように高さの順に配列したのが音階」である。オルフェウスアトリビュートは竪琴であり、音階を視覚的にイメージさせる。描かれていない、見えない竪琴こそ、「聴こえない音楽」の象徴ではなかろうか。すなわち、「宇宙の音楽」であり、「人体の音楽」である。

映画『シング・ア・ソング! 笑顔を咲かす歌声』

映画『シング・ア・ソング! 笑顔を咲かす歌声』を鑑賞しての備忘録
2019年製作のイギリス映画。
112分。
監督は、ピーター・カッタネオ(Peter Cattaneo)。
脚本は、レイチェル・タナード(Rachel Tunnard)とロザンヌ・フリン(Rosanne Flynn)。
撮影は、ヒューバート・タクザノウスキー(Hubert Taczanowski)。
美術は、ジョン・ベアード(John Beard)。
衣装は、ジル・テイラー(Jill Taylor)。
編集は、レスリー・ウォーカー(Lesley Walker)とアン・ソペル(Anne Sopel)。
音楽は、ローン・バルフェ(Lorne Balfe)。
原題は、"Military Wives"。

 

イングランド。ヨークシャー地方の郊外。ケイト(Kristin Scott Thomas)が運転する車のカーラジオから、アフガニスタン情勢が伝えられている。…ゴードン・ブラウンにはそれしか無かったということです。国会から生中継しますが、まず、2001年に侵攻以来最大規模の共同作戦のために英国の部隊が増派されることになっており…。英国軍の戦死者数は既にイラク戦争フォークランド紛争の死者数を上回り、負傷者は自宅療養者の数も急増しています。死者数が…。ケイトはラジオを切る。
フリットクロフト基地の入口。衛兵がケイトにIDを要求する。ちょっと町へ出てただけよ。ケイトは書類を取り出す。ショー、新入りに誰だか教えてあげてくれない? 電話を終えたショー(Jack James Ryan)が衛所から慌てて出てくる。すみません、奥様。警戒が強化されたんです、今夜の増派で。国防省は大佐の夕食に関心を示してるのね。
ケイトが基地内の食料雑貨店に立ち寄り、カウンターのリサ(Sharon Horgan)にオリーブオイルがあるか尋ねる。食用油なら、とリサが棚を指し示す。わざわざ町に行ったのに忘れてたの。ケイトが食用油を手にカウンターに来ると、先客がリサに会計の順番を譲る。これまでとは全く違うわよ、リサ、特務曹長の妻だもの。昇進、おめでとう。ありがとう。やらなければならないことがたくさんあるわよ、兵士の妻たちのためにね。ええ。いろんな考えを温めているとは思うけど。ええ。計画が大事よ。分かりました、助言をどうも。いつでも遠慮なく。ケイトが店を出て行く。呆気にとられたリサがレジスターのドロワーを音を立てて閉める。
ケイトの店のバックヤードでは娘のフランキー(India Amarteifio)が商品に値札を貼っていた。まだ終わらないの? グレースがお別れを言いに来たよ。そうなの、どこへ行くって? 基地を出て叔母と暮らすって。
夫のリチャード(Greg Wise)が冷蔵庫を閉めた拍子に写真が落ちる。なんでそんなに不器用なの、とケイトが口を尖らす。額装しろっていう神のお告げだろう。嫌よ、冷蔵庫に貼ってあるのがいいの。ガラスで覆った方がいいんじゃないか。冷たい過去の歴史になるのは嫌なの。写真が生活に紛れてて欲しいのよ、冷蔵庫の扉の、葉書とかメモの中で、私の日常に。ジェイミーはその写真をずっと嫌ってなかったか? アメリカのトーク番組の司会者みたいだって。でも、気に入ってるのよ。私がいなくても大丈夫なのか? もちろん。5度目の出征だ。今回の状況はまるで違っている。夫の帰還を待つ妻を支援するための支援をするつもりなの。あのリサっていう新任の特務曹長の妻を信用してないの。何事にも無頓着なのよ。きっと何か考えがあると思うけどね。いずれにせよ、彼女も君の支援を受け容れるとは思うよ。
荷造りをしているリサのもとに夫のレッド(Robbie Gee)が下着姿で現れる。防弾仕様だから見てご覧。面白くない。何で? ケヴラー製だよ。君の喜びのためにお宝を守ってるんだ。フランキーは誰と電話してるんだ? 知らないわ。若い連中と話さない方がいいけど。俺だって若者だったんだぜ? ああ、そうね。荷造りをやり直してるのか? いいえ。レッドはシャクルトンの『エンデュアランス号奇跡の生還』を手に取る。持って行くよ。何で? どうせ読まないでしょ。読むよ。リーダーシップについての本なんだ。前回『戦争と平和』を持って行って、ゴシップ誌とロマコメ三昧だったじゃない。怒ってるの? 別に。あなたが何を読もうが知ったことじゃないわ。半年間シングルマザーとして過ごす準備をしてるだけ。レッドがリサを抱いて顔を寄せる。今すぐ俺のこと忘れてくれてもいいんだぜ。ちょっと放してよ。本当に放して欲しい? 嫌。
レッドはフランキーの部屋に立ち寄る。行かなきゃ。フランキーが慌てて電話を切る。連絡くれよ。ちゃんと手紙を書いてくれよ、メールじゃなくてな。
バックパックを背負ったレッドが家を後にする。通りには、他の兵士の姿もある。リチャードもケイトを置いて出立した。
基地にある福祉会館の廊下のベンチにケイトが座っている。そこへリサが慌ててやって来る。クルックス(Jason Flemyng)との約束に遅れてしまったの。心配しなくていいわ、まだグロウヴズ准将(Colin Mace)といるわ。良かった。
会議室でクルックスがグロウヴズ准将と話している。奥方たちはかなり気を揉んでいるだろうね。今回何が起こるかは誰もが承知しています。君が指名したのは誰かな? リサ・ローソン、特務曹長の妻です。彼女は職務に乗り気とは言えませんが、対処してくれるものと考えます。こういったことはね、すぐにどうこうってものじゃないからね。それとケイト・バークリィが精神的なケアの支援を行ないます。ケイトが? はい、閣下。彼女が志願しました。前回の派遣でジェイミーを失って、何かに没頭していたいのだと思います。ノックの音がして、ケイトとリサが入ってくる。お邪魔します。ちょうど准将と新しい福祉指令について話し合っていたところだ。女性が参加する活動をだね、上層部は我々に求めているのだよ。君に任せるべきだね。准将が会議室を後にする。クルックスがケイトとリサとテーブルを囲んで座る。バークリィ大佐の妻が増派期間中の配偶者支援により積極的に関わりたがっている。大佐夫人のお手を煩わせるのは通例とは異なることは承知しているが…。その通りです。それは私の役目です。リサが発言する。もちろん、そうね。社会的な活動に関して何か腹案はあるのかしら? ケイトがリサに尋ねる。朝集まってコーヒーを飲んでいます。「コーヒー・モーニング」です。それから? 持ち寄りパーティーです。皆で一品ずつ持ち寄ってお酒を飲みます。湿原の散歩も行なっています。お言葉ですが、ケイト、大抵の女性は酔っ払って羽目を外すなんてしません。町へ出て酔っ払うことができないから憂さ晴らしの場が必要です。もちろんね。他には? 次の「コーヒー・モーニング」で参加者に意見を聞いてみたら?

 

イングランド、ヨークシャー地方郊外の基地。アフガニスタン侵攻以来最大規模の共同作戦が行なわれることになり、出征する兵士たちの住居では、家族との別れが思い思いに交わされていた。バークリィ大佐(Greg Wise)とその妻ケイト(Kristin Scott Thomas)は前回の派兵で息子のジェイミーを失っていたが、今回の増派で大佐は再びアフガニスタンの土を踏むことになった。夫のレッド(Robbie Gee)が特務曹長に昇進したリサ(Sharon Horgan)は、基地内の福祉事務を取り仕切るクルックス(Jason Flemyng)から、夫の帰還を待つ妻たちのための交流の場を取り仕切る役を任された。ケイトはリサでは荷が重いと判断し、自ら志願して出征兵士の妻たちの会合に関わることにする。「コーヒー・モーニング」という朝の会合に参加したケイトは、気晴らしのための新たな活動を提案させる。サラ(Amy James-Kelly)の提案した歌唱が採用されたものの、ポップスで楽しく気晴らしをするのか、クラシックを譜面に忠実に練習するのか、その方針を巡ってリーダーのリサとお目付のケイトとが噛み合わない。

冒頭では、夫や父を戦地へ送り出す家族の姿が描かれる。リサがレッドを送り出すに当たって、冷静に振る舞おうとする姿が切ない。
戦地からの通信が途絶えたとの情報が伝わると、妻たちは気を揉む。結婚して基地に移り住んだばかりのサラは、何か連絡があるたびに不安になると訴えるが、それは彼女だけではない。例えば、ヴィデオ通話で会話していて通信が途切れたときの不安感などはよく伝わる。
最近、息子を戦地で失ったケイトは、通信販売にはまっている。生活が一変するという売り文句に、淡い期待を抱いているためだ。そして、ケイトは、自らの気を紛らわせるとともに、軍人の妻であり母であるという経験を活かすために、出征兵士の妻たちの集いに関わることにする。
夫の階級が、妻たちの立場にも影響している。
妻がどんなに努力しようと、報酬は発生しない。

展覧会 石井海音個展『warp』

展覧会『石井海音個展「warp」』を鑑賞しての備忘録
biscuit galleryにて、2022年5月5日~22日。

29点の絵画で構成される、石井海音の個展。

《My ghost walking》(1167mm×803mm)は、奥と左右に木製の(あるいは木目のプリントされた)扉のある住宅の廊下で、左の扉を開けて姿を現わした少女(女性?)を描く作品。眉からU字に顔より下まで垂れる、作家の人物に特徴的な目を持つ頭部の左半分、扉の把手を握る左手などが、開かれた左のドアから覗く。その彼女が廊下を横切る姿(ほぼ全身)が画面中央に水色の輪郭線のみの「透明」で、さらに彼女が右方向へ歩く姿(ほぼ全身)が画面右手前に薄い水色で「半透明」で表わされている。「透明」と「半透明」の「少女」は画面手前に向かって伸びる廊下を下ってくるのではなく、横断するように歩いている。この横断の描写とタイトルとを踏まえれば、実際に扉や壁をすり抜ける姿自体が描かれているわけではないが、「幽霊」が「すり抜け」を行なう可能性も否定できない。もっとも、三方の扉と壁と床のみの空間の開口部は、今少女が姿を現わした扉を別にすれば、画面手前に向かう廊下のみである。なおかつ閉じられた二つのドアはには把手が描かれていない(少なくとも鑑賞者には見えない)。これは、少女が自らの定められた未来を幻視する場面を描いたものと捉えられるのではないか。ところで、ドゥニ・ヴィルヌーヴ(Denis Villeneuve)監督の映画『メッセージ(Arrival)』(2016)では、Amy Adams演じる言語学者ルイーズ・バンクスが、「ヘプタポッド」と名付けられた異星人とのコミュニケーションを図り、その意図を調査する過程で、度々幻視に囚われるようになる。そのイメージの中には、自らの娘と戯れる場面や、その娘が不治の病に伏せる場面もが含まれている。

 (略)映画の原作者であるチャン〔引用者註:「あなたの人生の物語(Story of Your Life)」の作者Ted Chiang〕は次のように述べた。

人間は順序のある線形的な意識を発達させてきたが、これに対してヘプタポッドは同時並列的な意識を発達させてきた。われわれは様々な出来事を順番に経験し、出来事のあいだの関係を因果関係として認識した。ヘプタポッドはすべての出来事を一度に経験し、それらはすべての基底にある目的を認識したのである。

こうした循環する時間のなかで生きていると、行為についての考え方が根本的に変容する。自由意志による選択と決定論とは対立するという、われわれの常識的な考え方は捨てられる。

「ヘプタポッドは、われわれが理解しているような意味で自由であったり束縛されていたりするのではない。彼らは意志にもとづいて行為するのではなく、そうかといって意志のない自動機械でもない」。チャンの原則でルイーズは語る。「ヘプタポッドの意識のあり方の際立った特徴は、彼らの行為が歴史上の出来事に一致しているということだけではない。彼らの行為の動機が歴史の目的に一致しているという点も大きな特徴なのだ。未来をつくるため、年表を実現するために彼らは行為する」。

(略)ルイーズが彼女のヴィジョン(幻影)を通じて別次元の世界に触れるとき、人生にかかわる重要なかっていを下すプロセス全体が変化する。

「もしもあなたなお人生全体が目の前に広がっているとしたら、それを変えようと思う?」ルイーズは未来の夫のイアン・ドネリーに問いかける。質問の仕方を変えればこうなる。あなたは誰かの生存を奪い、その誰かと地上で過ごした時間を消そうと思うだろうか。もしもその人たちがやがて苦しみ死ぬことになってあなたが悲しい思いをすることを、すでにあなたが知っているとしたら。「未来を知っているという経験によって人が変るとしたら?」ルイーズは考え込む。未来を知っていることによって危機感が生まれ、そうするだろうと自分で知っているとおりに行為しなけれればならないという義務感が生まれるとしたら?」ルイーズは娘を失うということがどんなことなのかわかっていたからこそ、娘をこの世界に産み落とすことを選ぶのである。

こうした循環的な見方においては、過去だけではなく未来も固定される。しかし、主体は自分の未来を直接選ぶことはできないが、未来と過去の循環全体から主体が抜け出すというわずかな可能性がある。こういうわけで、避けられないことを望む(起きるとわかっている未来を選ぶ)ことは、何も変えない空虚な身振りではない。ここでのパラドクスは、そうした選択は何も変えず、事実を記録するだけなのだが、それがまさに余計な行為であることにおいて必要なものとなる、ということである――もしもそうでないとしたら、もしも避けられないことを選ばないとしたら、それを避けられないものにしている枠組み全体が崩壊し、ある種の存在論破局が訪れることになる。

(略)

真の選択とは何か。正しい選択をすればわたしは大きな犠牲を払うことになるかもしれない、そういう困難な倫理的苦境に立たされたとき、わたしは迷い、動揺し、言い訳を探す。そうしているうちにわたしは気づく。本当は選ぶことなどできないのだ、と。真の選択は、選択肢がないことを選択することなのである。スラヴォイ・ジジェク中山徹・鈴木英明〕『性と頓挫する絶対 弁証法唯物論トポロジー青土社/2021年/p.258-261〕

少女(女性)の垂下がる目には2つの瞳がある。展覧会タイトルの"warp"を踏まえれば、ワープを可能にする、ブラックホールとホワイトホールとのメタファーとも解し得る(対となる作品《My ghost floating》(1167mm×803mm)で、少女が眠りながら指差すのは紺色の花瓶に挿したチューリップの花であるが、花瓶をブラックホール、曲がる茎をワームホール、花をホワイトホールと解するのは牽強附会であろうか)。いずれにせよ、2つの瞳は2つのイメージを彼女にもたらす。現在と未来とのイメージである。但し、未来に対して選択肢を与えるものではない。彼女が選び取るのは、ただ1つである。彼女は、選択肢がないことを選択するのである。

《ポートレイトの絵》(1465mm×1465mm)は、少女(女性)の胸像を描く「portrait」シリーズ9点(各390mm×360mm)の前に佇む少女(女性)を描く作品。3列3行の「portrait」のうち中央の行の中央と下の2点の作品の位置に少女が立っている。《ポートレイトの絵》の真向かいには、実際に「portrait」シリーズ9点が、《ポートレイトの絵》に描かれているのと同じ配列で、並べられている。左右反転が起きていないために両者は鏡像の関係には立たない。それゆえに鏡以上の現実の似姿として絵画が立ち現われているとも言える。それならば、《ポートレイトの絵》に描かれた少女は、「portrait」シリーズの前に存在していると考えることも不可能ではない。ただghostなので不可視なだけなのだ。鑑賞者にフラッシュ・バック(過去のイメージ)とともにフラッシュフォワード(未来のイメージ)を引き起こす装置として、向かい合う2点が展示されているのである。

展覧会『ボテロ展 ふくよかな魔法』

展覧会『ボテロ展 ふくよかな魔法』を鑑賞しての備忘録
Bunkamura ザ・ミュージアムにて、2022年4月29日~7月3日。

対象をふくよかに表現するスタイルで著名なフェルナンド・ボテロ(1932-)の個展。「第1章:初期作品」(4点)、「第2章:静物」(10点)、「第3章:信仰の世界」(9点)、「第4章:ラテンアメリカの世界」(17点)、「第4章-2:ドローイングと水彩」(9点)「第5章:サーカス」(8点)、「第6章:変容する名画」(13点)の7章70点で構成される。

【第1章:初期作品】(4点)
初期の水彩画《泣く女》(1949)[01]は左腕で左脚を抱え、左膝に右腕を突き、右手で顔を覆う、蹲る女性の肖像。画面左下の右足から画面右上の右手(右腕)への対角線が軸となっている。とりわけ左脚を抱える左手と顔を覆う右手が大きく表わされているのが印象的。パブロ・ピカソの影響(おそらく1920年代の新古典主義期の作品)が指摘されている。大きな手で防御するボテロ作品に対し、手によって苛まれる、鶴岡政男《重い手》(1949)が同年の制作というのも興味深い(因みに、ロベール・ドアノーが撮影した「大きな手」のピカソの肖像写真《ピカソのパン》は1952年)。
ディエゴ・ベラスケスの《バリェーカスの少年》(1635-1645)に取材した《バリェーカスの少年(ベラスケスにならって)》(1959)[02]は、ベラスケス作品の像主を横方向に引き延ばすとともに、衣服を緑から赤へと色を反転させている。デフォルメについてはオルメカの彫像などを参考にした可能性があるという。作家が目にしているどうかは分からないが、インカのミイラを連想させる作品。
《庭で迷う少女》(1959)[03]と《馬に乗る少女》(1961)[04]も展示。

【第2章:静物】(10点)
《パイナップル》(1970)[05]はテーブルの上に置かれた、皮を剝かれて切られたパイナップルとオレンジとを描く。右奥のパイナップルの切断面の円に刺さったフォークからオレンジの皮が描く"S"を経由し、ピンクのナプキンの角の先の僅かに開いた抽斗から覗く絡まった糸へ、という右上から左下方向への軸と、左側のパイナップルの芯からピンクのナプキンがテーブルの下へと垂下がる、左上から右下方向への軸とが交差する構図。画面の左右の端に引き寄せられたカーテンは、テーブルを舞台とした劇場のよう。演者は8匹の蝿である。縦横それぞれ2メートル近くある大画面の「ボデゴン」だが、蝿の五月蠅さが感じられず、静謐さが保たれている。《パイナップル》[05]の隣に並べられている《果物とビンのある静物》(2005)[09]の壁は格子のそれぞれに棘のような模様がデザインされ、恰もパイナップルのよう。壺中の天ならぬ、パイナップル中の天か。
テーブルの上に置かれた、パンパンに張った真ん丸のオレンジを数個描く《オレンジ》(2008)[14]、ゆったりとした胴の花瓶に多様な花々を丸く飾り付けた3点組の作品《黄色の花》・《青の花》・《赤の花》(2006)[11-13]は、「芸術家の様式というものは、最も単純な形の中にさえ、はっきり認識できるものであるべきだ」という作家の詞を裏付ける。
巨大な画面(2410mm×1960mm)いっぱいに洋梨を描いた《洋梨》(1976)[06]は、果梗から(見えない底の)萼に向かって3つの微妙な膨らみが明暗で表わされ、でっぷりとした印象が増幅されている。1つ目の膨らみの右端には囓られたような跡があり、3つ目の膨らみには右側に小さな穴を開けたシンクイムシ(?)が左側の穴から飛び出している。とりわけシンクイムシ(?)は巨大な梨に比して極端に小さく、その顔は愛嬌のあるキャラクターとして表わされている(赤い口をしている)。それらによって、少々のダメージを物ともしない偉大なる洋梨の存在が強調されることになる。
《果物のある静物》(2000)[08]、《楽器》(1998)[07]、《室内》(2005)[10]も展示。

【第3章:信仰の世界】(9点)
《ヴァチカンのバスルーム》(2006)[19]は、白いタイル張りの浴室で、湯を張った白いバスタブ(猫足付き)に、赤い祭服を纏って横たわる教皇を描いた作品。バスタブの手前には、バスタブより小さい、緋色のカロッタを被った枢機卿が正面向きでストールを持って待ち構えている。主役を引き立てるために他のキャラクターを小さく描くのは、作家のスタイルらしい。冷水と温水の蛇口がともに開かれ、教皇はぬるま湯に浸かっているのだろうか。タイルの形が意図的に歪められているのも不穏な雰囲気を生むのに一役買っている。作家が好んで描き込む鏡の代わりであろう、教皇と相似をなすピンクの石鹸を壁に埋め込まれた石鹸置きに配している。
《聖バルバラ》(2014)[20]は、市松模様の床の暗い空間に幽閉された聖バルバラを描く。右手に抱えられた書物がアトリビュートであり、左胸の疵は刺殺を表わす。画面右上から飛んでくる赤い蛇が意図する内容は不明。3世紀のローマ時代の聖女に現代の衣装を纏わせてアナクロニズムで表現している(並べて展示されている、13世紀の聖女を描いた《聖ゲルトルード》(2014)[21]、10~11世紀の聖女を描いた《聖カシルダ》(2014)[22]も現代の衣装で表わされている)。それは近代的なネーションの概念に縛られていないことを主張するものか、聖者を普遍的な存在として表わしたいという欲求であろうか。

 (略)初期ルネサンスフランドル派の絵画で、受胎告知、イエスの誕生、ピエタ(キリストの遺体(を前にして嘆く聖母)等がどのように描かれていたか。今日のわれわれがこれらを見たときに覚える最初の違和感は、「時代考証」がまったくなされていない、ということである。聖母にせよ、東方の三博士にせよ、マグダラのマリアにせよ、イエス使徒たちにせよ、一般に、絵画が描かれた地方の同時代の容姿をもち、同時代の衣装を着ている。ヤン・ファン・エイクの「受胎告知」を例にとってみよう。この絵の中の天使ガブリエルの豪華なマントもマリアの青いローブも、どう見ても1世紀のセム族のものではなく、画家が当時仕えていた宮廷があるブルゴーニュ地方の貴族の装いだろう。2人がいる神殿は、ゴシック様式だということがわかる。当時、絵画には、しばしば、その制作を依頼したパトロンの関係者が一登場人物として描かれているのだが、「受胎告知」であは、マリアが、ブルゴーニュ公フィリップ3世の妃イザベルだと推定されている。
 こうした事実からわかるだろう。ネーション以前の「聖なる共同体」は、自分たちの起源をできるだけ古い物に見せようなどという意欲を微塵ももってはいないのだ。起源が古いことに何か誇らしいものがあるという意識が、ここにはまったくない。そのため、ネーションの場合とは正反対の不一致が生ずる。客観的に見れば、受胎告知やイエス磔刑などは、絵が描かれた時点からは千何百年も遡る、それなりに古い出来事だが、主観的な観点のもとでは、この時間的な乖離は無視され、出来事は同時代的に描かれる。述べてきたように、ネーションの場合には、これとは反対方向の逆立が生じている。前者(聖なる共同体)の不一致が起きる理由はかんたんに説明できるが、後者(ネーション)における不一致は、不可解である。聖なる共同体では、起源と現在との生活様式の差異は――現在の方に引き寄せられるかたちで――無視される傾向がある。逆に、ネーションでは、現在の自分たちと禍根お自分たち(祖先)の間の差異が、ことさらに強調されていることになる。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇2 資本主義の父殺し』講談社/2021年/p.335-336)

守護天使》(2015)は、寝室のベッドで眠る作家のやや上方に、翼を持った豊満な裸婦が浮いている場面を描いた作品。重そうな肉体を飛翔させることで、かえって守護天使の聖なる力の強さを示す。ベッドの手前の椅子にはパレットが置かれ、緑の絨毯の上には2本の筆が転がり、何かを書き付けた紙が落ちている。鏡には翼と天井から吊された裸電球が映り込むが、部屋の明るさに比してかなり暗い。天使の光輪の代わりに部屋を明るくすることで、その聖性を表わしているのかもしれない。
枢機卿》(1998)[16]、《キリスト》(2000)[17]、《神学校》(2004)[18]、《コロンビアの聖母》(1992)[15]も展示。

【第4章:ラテンアメリカの世界】(17点)
《バーレッスン中のバレリーナ》(2001)[31]は左手でバーを持って左脚の爪先で立ち、右足を高々と掲げている、白いチュチュを纏ったバレリーナを描く作品。肉付きのよい腕、とりわけパンパンに張った脚は、女性の涼しい表情と相俟って、安定感を生んでいる。背後の大きな鏡に映った後ろ姿もまた、彼女の身体能力の高さを裏書きするようだ。
《結婚したて》(2010)[37]は腕を組む新郎新婦の立像。新婦は長いベールを頭から垂らし、左手には白い花のブーケを持ち、左手首のブレスレットと薬指の指輪、両耳のイヤリング、白い靴以外には何も身に付けていない(何故?)。とりわけ張った腰、肉付きの良い健康的な太腿と下腿の下半身は見事で縋りたくなるだろう。それに比して上半身は引き締まり、小ぶりな乳房と相俟って、土偶を連想させる神々しさがある。
寡婦》(1997)[26]は洗濯ロープに洗濯物がかけられた室内に、右手を繋いだ男の子、アイロン台に向かう男の子、人形を抱いて床に座る女の子に囲まれ、ネコを抱いた母親が立っている姿を描いた作品。黒い衣装を身に付けた母親の頬には涙が伝う。3人の子供を1人でどうやって育てればよいのかと思い悩むのだろう。作者は「偉大な絵画は人生に対し肯定的な態度を示している」と言う。人間のような面構えの猫は作家自身であり、寡になった女性にエールを送っているのではないか。
住居の前で墜落する女を大きく表わした《バルコニーから落ちる女》(1994)[25]の解説によれば、南米では(?)不審な転落死が珍しくないらしい(!)。
《泣く女》(1998)[27]はパブロ・ピカソの《泣く女》を、《ヌーディスト・ビーチ》(2009)[36]はパブロ・ピカソの《海辺の家族》を踏まえた作品だろうか。
カーニヴァル》(2016)[39]、《カーニヴァル》(2016)[40]、《踊る人たち》(2002)[34]、《楽士たち》(2001)[33]、《通り》(2000)[29]、《大統領と閣僚たち》(2011)[38]、《大統領》(1987)[24]、《ピクニック》(2001)[32]、《パーティーの終わり》(2006)[35]、《夜》(1998)[30]、《横顔の女》(1999)[28]も展示。

【第4章-2:ドローイングと水彩】(9点)
青鉛筆の下書きに重ねられたドローイングに部分的に水彩絵の具で着彩した作品9点(2019)。

【第5章:サーカス】(8点)
空中ブランコ乗り》(2007)[51]は、赤と黄のストライプのテント、円弧の列の客席、星の模様の入った方形のステージといった幾何学的な図形を配した背景に、膝窩で空中ブランコのバーを挟んでぶら下がり、逆様で両腕を垂らしている女性を大きく描き出した作品。下で見上げる人物を極端に小さく描くことで、ブランコ乗りという主題が強調される。《象》(2007)[55]においても、調教師やブランコ乗りを極端に小さく描くことで、ステージの六角形の台に乗る象の大きさが強調される。
《サーカスの女と子ども》(2008)[57]は、横向きの馬を前に幼い子どもを抱えた女性の後ろ姿を描いた作品。赤い短パンの房飾りが臀部を強調する。
《高足のピエロ》(2007)[52]、《軽業師》(2006)[50]、《赤ちゃんライオンと調教師》(2006)[53]、《サーカス》(2007)[54]、《楽士たち》(2008)[56]も展示。

【第6章:変容する名画】(13点)
《ベラスケスにならって》(1981)[58]は、ディエゴ・ベラスケスの《ラス・メニーナス》(1656)のマリア・バルボラだけを画面いっぱいに描いた作品。衣装は明るく淡い青に、髪の毛は赤みを帯びた色に変更されている。原作ではもっと厳しい表情をしていると勝手に思い込んでいたが、原作とそれほど差異は無かった。ボテロ作品を通して、マリア・バルボラが鑑賞者に向かって優しい眼差しを送っていたことに気づかされた。
《ピエロ・デラ・フランチェスカにならって》(1998)[59-60]は、ピエロ・デラ・フランチェスカの《ウルビーノ公爵フェデリコ・ダ・モンテフェルトロとバッティスタ・スフォルツァ公爵夫人の肖像》(1473-75頃)をもとにした作品。縦横の比率を変えて像主を縦に圧縮した形で描くとともに人物の周囲の面積を狭めている。また、地平線の位置をぐっと押し下げている。これらの操作に加え、原作(各470mm×330mm)よりも遙かに大きいサイズ(2040mm×1770mm)によってモデルに肉薄させる感覚を鑑賞者に与えて圧倒する。
《ベラスケスにならって》(2006)[65]、《クラーナハにならって》(2016)[68]、《ゴヤにならって》(2006)[64]、《マリー=アントワネット(ヴィジェ・ルブランにならって)》(2005)[62]、《ホルバインにならって》(2016)[69]、《アングルによるモワテシエ夫人にならって》(2010)[67]、《モナ・リザの横顔》(2020)[70]、《フォルナリーナ(ラファエロにならって)》(2008)[66]、《ルーベンスと妻》(2005)[61]、《アルノルフィーニ夫妻(ファン・エイクにならって)》(2006)[63]も展示。

映画『夜を走る』

映画『夜を走る』を鑑賞しての備忘録
2021年製作の日本映画。
125分。
監督・脚本は、佐向大
撮影は、渡邉寿岳。
照明は、水瀬貴寛。
音響は、弥栄裕樹。
衣装は、今野亜季。
メイクは、今野亜季。
編集は、脇本一美。
音楽は、のびたけお。

 

洗車機のブラシが回転し始める。ブラシがフロントガラスに迫る様は、車がブラシに近付いているようにも見える。
秋本太一(足立智充)がハンドルを握り郊外の道を走っている。カー・ラジオからは気象通報が流れ、各地の風向、風力、天気、気圧、気温が淡々と報じられている。窓外の風景は、農地の中に点在する屋敷森からロードサイドの店に。車を停めた秋本が電話をかける。武蔵野金属の秋本と申します。鉄屑を買い取らせて頂けないかと…。
秋本の車が農地や耕作放棄地の只中にある会社に戻る。社長の三宅紀夫(信太昌之)が丁度白いゴルフバッグを車に積むところだった。得意先に呼ばれちゃってさ。接待でやむを得ずという体を装い社長が出て行く。スクラップ工場は、トラックの荷台から下ろされる鉄屑がたてる音、油圧式マグネット重機により鉄屑が回収される音、バーナーが鉄屑を切断する音など、様々な轟音で満たされている。建物の脇では後輩の谷口渉(玉置玲央)が吸殻入れのバケツの前でスマートフォンを眺めながら煙草を吸っていた。本郷さんは? さあ、その辺にいるんじゃないですか。またアメリカで銃の乱射あったみたいですよ。35人死んだとか。そういや、俺、あのラーメン屋行ってみたけど、やっぱり豚骨は合わないみたい。戻ってるならすぐに報告しろよ! 本郷真一(高橋努)が秋本を見付けてどやす。どうだったんだ? いくつか当たってみたんですけど…。明日は何とか。飛び込みの成果の無かった秋本を本郷が叱咤する。反省会やるぞと誘われるが、秋本は予定があると断る。本郷が立ち去ると、谷口が自分でとってくりゃいいんだと悪態をつく。2人のもとに年配の同僚の富田勝(あらい汎)が錠剤の入ったビニール袋を手に現れる。どこで手に入れたものか、勃起薬を谷口に売りつけようとするが、必要ないと断られる。真面目そうだからと富田は秋本には売り込まない。
同僚の松田伸也(潟山セイキ)に連れられて、秋本はフィリピン・パブにいた。松田はホステスに自転車に乗るかと尋ねる。乗らなくなった自転車から金属を取り出して、新しい自転車にするんだ。俺たちは地球のための仕事をしてるんだよ…。何を飲みますか? 隣に座ったジーナ(山本ロザ)から尋ねられた秋本は、容姿端麗な彼女に顔を向けることもなく、烏龍茶を頼む。地震! ジーナが揺れていると訴えるが、秋本には分からない。話題もないのでジーナは踊らないかと誘うが秋本は頑なに断る。そのうちにジーナに指名が入り、彼女は立ち去ってしまう。
谷口は矢口加奈(坂巻有紗)の部屋でベッドをともにしていた。揺れてない? 矢口が地震だと言う。ここで死んだらどうだろうね。ちょっとトイレ。谷口が起き上がる。またそのまま帰るつもりでしょ。図星を指される谷口。矢口は冷蔵庫からビールを取り出し、テーブルで1人飲み始める。トイレから派手な音が立つ。ちょっと、座って使ってくれる!
武蔵野金属の事務所で、石塚裕子(澤純子)が軽量業務に当たっている。中村俊一(杉山ひこひこ)が電話を受ける。申し訳ありません、たった今外出してしまいまして…。三宅社長は今日も早々に会社を後にしていた。中村が本郷を呼び止める。お客さんが来てるんだけど、対応してもらえない? 何で俺が? 会議室に待たされている若い女性が目に入って、本郷は俄然やる気になる。仕方ないな…。本郷は、産廃業者の営業担当・橋本理沙(玉井らん)から業務内容について辿々しい説明を受ける。新人さん? …ええ。案内するから仕事場見てってよ。橋本に職場を案内していた本郷が秋本に出くわす。この人はね、何にもしないで毎日ドライブしてる人。馬鹿そうでしょう? 橋本はどう反応していいか戸惑う。秋本は愛想笑いを浮かべる他ない。
秋本は谷口と酒場にいた。娘さん可愛い? 可愛いですよ。子供はね、義務みたいなもんですよ。このままだとどんどん日本人いなくなっちゃうじゃないですか。子供いない奴は年金なしでいいですよ。じゃ、俺、年金無しだな。あ、そうか。ところで秋本さん、休日何やってるんですか? 興味ないだろ。教えて下さいよ。家でネット見たり、カフェ行ったり…。カフェ? カフェで何するんですか? 本読んだり…まあ、何もしないか。秋本さん、生きてて何が楽しいんですか? …別に。別にって。じゃ、谷口は? 別に。
2人が居酒屋を出て歩いていると、橋本の姿があった。本郷に契約の件で話があると飲みに連れて行かれた帰りなのだという。谷口は秋本にチャンスを作りますと言って、橋本を飲みに誘った。

 

三宅紀夫(信太昌之)の経営する金属リサイクル会社・武蔵野金属に勤める秋本太一(足立智充)は、鉄屑の買取の飛び込みをしている。本郷真一(高橋努)からは解体されそうな建物に注意を払っておけと言われるが、どこも他社と成約済みで、飛び込みで買い取れる現場はない。産廃業者の新人営業担当の橋本理沙(玉井らん)に社内を案内していた上司の本郷からは「何にもしないで毎日ドライブしてる人」と紹介される始末。秋本の後輩の谷口渉(玉置玲央)は、妻の美咲(菜葉菜)との間に幼い娘・絢乃(磯村アメリ)がいるが、時折、矢口加奈(坂巻有紗)の部屋にしけ込んでいた。冴えないが人はいい秋本と飲みに行った谷口は、生きてて何が楽しいのかと秋本に尋ねるが、鬱屈しているのは谷口も同じだった。居酒屋を出た2人は偶然、本郷と飲みに付き合わされた橋本に遭遇する。谷口は秋本にチャンスを作ってやると橋本を飲みに誘う。帰りの足もなかった橋本は営業先の社員であることもあり付き合うことにする。谷口はどんなタイプが好みかなどと尋ねてくる。やさしい人だと適当に答えたところ、谷口が秋本はやさしいと推すので、こんな人がもったいないと話を合わせた。ところが谷口が席を外した隙に秋本が連絡先を尋ねてきた。橋本はスマートフォンを取り出すがバッテリーが切れていると訴えた。ひどく酔った橋本を送る必要があると谷口から社用車を回すよう頼まれた秋本が断り切れずに車に乗って戻ると、2人は険悪な雰囲気になっていた。ふらふらする橋本を支えてやったところ、秋本は触るな変態と怒鳴られる。後部座席に乗ったとたんに橋本がスマートフォンを使い出したのを見た秋本は、咄嗟に橋本の頭を激しく殴りつけた。

スクラップ工場で鉄屑が重機で解体されたり、バーナーで切断されて火を上げる作業に見応え・聞き応えがある。工場が人家のない地域にぽつんと立つのは、秋本の孤独な姿を、工場内での解体作業は、秋本が心の中で何とか憤懣を抑え込む姿を、表わすのだろう。
秋本だけ常にマスクをしている。マスクは感情を押し殺していることの象徴だ。マスクが外されるとき、秋本はそれまでとは異なった姿を見せる。秋本は自分は変らないのに周囲が変っていくと溢す。秋本の心には同じ感情が渦巻いていたのであり、単にそれが他者にとって可視化されたに過ぎないのだ。
秋本も谷口も気づかない地震ジーナと矢口は気が付く)は、同時刻における2人の生活の違いを対照的に示すとともに、2人の日常が崩れ落ちる前兆でもある。
秋本は、谷口から橋本と親しくなるきっかけをつくると飲みに付き合わされる。橋本は営業先の社員であることから断り切れずに付き合う。谷口は秋本を好人物だと薦めるが橋本には交際歴のない中年になど興味はない。雰囲気を壊さないよう話を合わせるほかない。スマートフォンのバッテリーが切れていると連絡先の交換を断るのも至極当然だ。そして、そんなことは秋本も当然分かっている。それでも、彼女を送るために会社にまで歩いて戻り、ルール違反を犯して社用車を回し、酔ってフラフラとしている彼女を支えようとして変態呼ばわりされたところへ、バッテリーが切れていたはずの彼女のスマートフォンの電源が入ったとき、何をされても反応の無かった秋本の感情のスイッチが作動したのだ。殴られた橋本が落として割れたスマートフォンは秋本そのものであり、だからこそ秋本は橋本のスマートフォンを手放せなくなる。
少なくとも主要な登場人物については、分かりやすさのために善人や悪人といったキャラクターに切り分けることをせず、多面的な性格が綯い交ぜに描かれているのが良い。例えば、本郷は秋本をいびる上司として現れるが、彼が実は本郷に期待を寄せていることが分かる。そして、ある事件に対する彼の反応から、周囲の異常さも相俟って、彼の普通さが浮かび上がってくる。登場人物の多面的性格は、何が起こり、話がどう転がっていくのかを予想することを難しくし、それが鑑賞者を惹き付けることに繋がっている。
秋本はドッペルゲンガーを見る。それは、それまでの秋本の死を象徴する。そして、言わばニュー秋本の展開には啞然とする他ない。