展覧会『村上早展』を鑑賞しての備忘録
コバヤシ画廊にて、2023年9月4日~16日。
グリム童話の「赤頭巾」に因む《まあ、なんてきみのわるい》、童謡「森のくまさん」を下敷きにした《どうか、にげないでおくれ》、アンデルセンの「赤い靴」を主題とした《靴のしたいままに》に、作家が創作したと思しき物語を描く《眠る棘》・《胴のおしまいのところ》を加えた、大画面の銅版画(1500mmの1180mm)5点で構成される、村上早の個展。併せて、事務室に小作品が展示されている。
《まあ、なんてきみのわるい》(1500mm×1180mm)には、丸太小屋の中のベッドに横たわるオオカミと、その脇で跪く頭巾を被った少女とが描かれる。「まあ、なんてきみのわるい」との題名からして、グリム童話の「赤頭巾」をモティーフとした版画作品であることは疑いない。画面の左右の端に柱を、画面の上端に丸太を山型に並べた屋根を配した丸太小屋は、むしろ祠に近い。その構造物の中にはベッドがほとんど立ち上がるように描かれ、そこに右腕を直角に曲げて右手を挙げ、長い舌を出して横になる――あるいは上体を起こした――狼の姿を描く。狼が身に付けているのは、少女の祖母が着ていた服であろう。顔とスカートの裾から覗く足は、毛むくじゃらで獣のものと分かるが、その手はいずれも少女と変わることのない人間のものである。しゃがみ込んで、狼の腰――狼のスカート――の辺りにもたれ掛かる少女は、頭を伏せているために表情は見えない。三つ編みにした髪が垂れているのが見える。
ここでは、敢て「赤頭巾」の物語とは異なる2つの解釈の可能性を示したい。1つは、建物が祠堂のように描かれていることを梃子とした、狼=地蔵菩薩=山賊説である。
峠の入り口に祀られた地蔵菩薩は、峠を通過するさいに安全を祈願するさいに安全を祈願する対象となる。やがてお賽銭などの“たてまつりもの”が発生する。その権益はどこに帰属するのか。
按ずるに地蔵菩薩を安置した主体であろう。仏が峠の安全な通行に応える存在ならば、安置した主体が峠の通行の管理者になるのではなかろうか。お賽銭の収納、すなわち通行銭=関銭を徴収する権利につながるのではなかろうか。中世的な関所の設置である。
地蔵菩薩をめぐってその施主と現場の山の民が関連していたのであろう。山の民がお賽銭すなわち関銭を徴収する作業をしたとすれば、彼らは山賊たちとなんらかの関係をもっていたのではななかろうか。みずからが設置した地蔵菩薩にたいしてお賽銭を供えた旅人を襲うのは道理に合わない。むしろ供えた旅人の峠越えを庇護する存在となる。生命の安全から荷物運びに到るまで、峠の運送業者の役割もまっとうする。
逆に言うならば、お賽銭=関銭を納めない旅人にたいしては地蔵菩薩の庇護はなく、略奪の対象となる。関銭を支払わせる象徴が地蔵菩薩となる。なんと地獄の沙汰も金次第。(齋藤慎一『中世を道から読む』講談社〔講談社現代新書〕/2010/p.101)
通行を祈願する旅人が赤頭巾として、祠堂に祀られた地蔵菩薩――右手を「施無畏印」、左手を「与願印」と解釈すれば、恐れることはない、願いを聞き入れよう、となる――が「狼」として表わされていると考えてみる。そのとき「狼」が半獣半人であるのは、山賊と山の民との持ちつ持たれつとの関係として捉えられる。
狼=地蔵菩薩=山賊説を積極的に推したいが、「まあ、なんてきみのわるい」との画題からすると牽強附会の謗りは免れまい。そこで、2つ目の解釈は「まあ、なんてきみのわるい」との画題から、ストレートにルッキズム批判ないし性差別主義批判である。
毛むくじゃらの狼の手だけは人間のものとして表わされている。狼が醜怪な姿を象徴するとすれば、「まあ、なんてきみのわるい」はルッキズムの眼差しを注いでいることになる。また、狼が雄でありスカートを穿いているなら、異性装である。そのような場面に「まあ、なんてきみのわるい」と評価を下すことの違和を訴えていると考えられるのである。