可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 高橋健人個展『unknown space』

展覧会『高橋健人「unknown space」』を鑑賞しての備忘録
gallery fuにて、2024年4月24日~5月5日。

都会で行き交う人々を主題とした表題作《unknown space》を始め人物をモティーフとした絵画で構成される、高橋健人の個展。

《unknown space》の正方形のキャンヴァス(1167mm×1167mm)に岩絵具と水干絵具とで描かれるのは、灰色を背景に、無数に散らばる暗い灰色や水色の角が取れた(丸みを帯びた)矩形、そして左右に配された下を尖らせたボウリングのピン(触覚や翼足の無いクリオネ)のような「人」である。「人」の頭部には括弧で目や口が表わされ、胸には複数の十字も見える。「人」の下には、くすんだ青色で表わされる倒立した影もある。記号的表現で構成されるイメージは、みなとみらい地区にある吹き抜けの空間に基づいており、「人」はエスカレーターで昇降する姿を、矩形は案内板を模しているらしい。埋め立て地に立つコンクリートとガラスで出来た建造物の内部は空調・照明設備等により年間を通じて一定範囲の温湿度や明度等に保たれている。灰色の画面は季節による変化が可及的に抑えられた人工環境の表現なのだ。かつて花鳥風月を表わした膠絵――いわゆる日本画――は、コンクリートとガラス、それに液晶ディスプレイの無機質な空間を描き出すに至った。もっとも山水画の描き出した風景も必ずしも現実ではなく理想の世界であった。歌枕よろしく、実際に訪れたことのない、言わば未知の空間(unknown space)を描いてきたのだ。管理された環境は正しくユートピアであり、強引だがそれに理想郷を重ねてしまうなら、《unknown space》は「日本画」の流れを汲んでいると言えよう。
《unknown space》の向かいに展示されているのは、《transparent person》(910mm×727mm)である。白と黄の矩形の海に浮かぶ白い輪郭で表わされた人の姿である。背後の壁面が透けて見える薄い絹が支持体とされることで、「人」の透明性が強調される。《unknown space》と《transparent person》の周囲には、人物をスケッチした作品が並び、2作品の記号化された表現が際立つ。ならば、2作品に表わされた矩形もまた「人」の記号化と解することが可能ではなかろうか。スマートフォンを手に歩く人であり、スマートフォンの画面に照らし出された顔であり、もはやスマートフォンそのものでもある人の姿が矩形として表現されているように思えるのである。

 群衆に特有の性質があわれる原因は、ル・ボンによればつぎの3つである(〔引用者補記:ギュスターヴ・ル・ボン(Gustave Le Bon)『群衆の心理学(La psychologie des foules)』〕第1部第1章「群衆の一般的性質」による)。
 第1の原因は、群衆中の個人がただ大勢の人びとのなかにいるだけで、抵抗できない力を感じて、単独なら抑制できたはずの本能に容易に身を任せ、責任の観念が完全に消滅してしまうことだ。
 第2の原因は、精神的感染である。これは「催眠術に類する現象」で、個人がその本性に反して、集団の利益のためには自分自身の利益を無造作に犠牲にしてしまうという結果が生じる。
 第3の原因は「はるかに重要なもの」で、群衆中の個人がある種の暗示によって、単独の個人とは相反する特性を発揮することだ。この個人はもはや自分の行為を意識せず、暗示にかられて「催眠術をかけられたように」抑えがたい性急さである種の行為を遂行しようとするが、この性急さは「催眠術をかけられた者の場合より、いっそう抑えがたい」。
 以上の3点をあげてから、ル・ボンは現代の群衆の性質をつぎのように要約する。

 「意識的構成の消滅、無意識的個性の優勢、暗示と感染による感情や観念の同一方向への転換、暗示された観念をただちに行為に移そうとする傾向、これらが群衆中の個人の主要な特性である。群衆中の個人はもはや彼自身ではなく、自己の意志をもって自己を導く力を失った1個の自動人形となる。」(同上、桜井成夫訳、一部改変)

 (略)催眠術という言葉が繰り返されていることが示すとおり、近代の出発点だったはずの、理性的で、自己決定力を備えた個人が、群衆の時代とともに個性も意志も失った「自動人形」となる事態、これこそは『群衆の心理学』出版〔引用者註:1895年〕からわずか2、30年後に世界を覆いつくす状況ではないだろうか。(塚原史『20世紀思想を読み解く 人間はなぜ非人間的になれるのか』筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2011/p.109-110)

スマートフォンを介しネットに常時接続する個人は、常に群衆の中にあると言える。また、ネット上の大量の情報を前に常に選択を迫られる個人は、その判断を群衆と同一方向に委ねてしまう。

 誰かの行動がオートマティックになされるというとき、そのひとはもはや自分の意思によって行動するのではなく、自分以外の何か=誰かの命令を忠実に実行する機械にすぎない。(略)
 この「機械的」という方向にむかえば、「無意識」は抑圧された「私」を映す鏡とは別の風景のほうに人びとを連れてゆくだろう。それは、ひとりひとりが本来はかけがえのないオリジナルであるはずの人間たちが、意思も個性も失って大量に複製されるコピーとなってしまう、悪夢のような光景だったのである。(塚原史『20世紀思想を読み解く 人間はなぜ非人間的になれるのか』筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2011/p.239-240)

《transparent person》とは、「意思も個性も失って大量に複製されるコピー」としての人間であり、《unknown space》はそのような人間によって構成される社会の鏡である。