可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 河本理絵個展『two dogs』

展覧会『河本理絵個展「two dogs」』を鑑賞しての備忘録
リュウ・ギャラリーにて、2022年3月11日~16日。

河本理絵の絵画展。

《家と蛇》には、三角形と矩形とを上下に組み合わせた平板な「家」が4つ重なるように並ぶ周囲を、左右を反転させた「コ」の字状に蛇(伸ばした舌によって、蛇の頭部が右上にあることが分かる)が取り囲む姿が、淡い青の画面に白で表わされている。「家」とは異なり、蛇には影がはっきりと描き込まれている。影の位置が途中で大きくずれていることから、(舌にも影が付されているのでこじつけではあるが)蛇と白い抜け殻とが表わされていると解せなくもない。すると、書割のような「家」もまた、脱皮の結果残された「抜け殻」に見えてくる。『方丈記』の冒頭に「人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり」とあるように、家並びにそれが象徴する人も泡沫に過ぎないと訴えるのかもしれない。

《部屋》には、鑑賞者の側以外の3面を壁で囲まれた「部屋」の床に、三角形と矩形とを上下に組み合わせた家の書割が左右に1つずつ立てられ、その間に人が仰向けに寝そべる場面が描かれている。脚を尺取虫のように湾曲させた人物は、棒状に伸ばされた、蛇を連想させなくもない形状で表わされている。手前側だけ壁がない(ように見える)空間は、「書割」の存在と相俟って、舞台を思わせる。『方丈記』の「仮の宿り」としての人生を連想しない訳にはいかない。そして、展覧会タイトルの"two dogs"やメイン・ヴィジュアル《坂を上がる》の2人の人物のイメージも影響して、2つの家に「板挟み」になっている(あるいは引き裂かれている)人物は、蛇状であることからスプリット・タンを介して二股への連想を誘う。「2つの家」や、「スプリット・タン」が示すのは、現実化した出来事とそれに随伴する他の出来事の可能性ではなかろうか。

 (略)それが偶然であるということは、「それだけではない」「それに尽きない」という様態でそれが現れている、ということを意味している。偶然ということは、定義上、「他でもありえた」ということである。つまり、出来事は、現実化している「それ」だけではなく、「他でもありえた」ということである。つまり、出来事は、現実化している「それ」だけではなく「ありえた他なるもの」への指示を伴っているからこそ、偶然の生起なのだ。このことを別の表現で言い換えれば、偶然の出来事をそのまま具体的に――現実のこととして――記述するとき、何かが排除されている、何かが抑圧されている、という印象を不可避に与えるということでもある。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇Ⅰ 〈主体〉の誕生』講談社/2021年/p.514)

《ぶら下がる》は、鉄棒を摑んでぶら下がる人物を描いた右側と、鉄棒に脚をかけて逆さまに垂下がる人物を描いた左側とが組み合わされた作品であり、やはり「現実化している『それ』だけではなく『ありえた他なるもの』への指示を伴っている」。本作品にも書割のような家が描き込まれているが、右側には正立で、左側には倒立で、それぞれ人物の姿勢に相同する形で家が描き込まれており、「その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず」(『方丈記』)をも想起させる。