可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 中野由紀子個展『障子、明け方か夕方か』

展覧会『中野由紀子「障子、明け方か夕方か」』を鑑賞しての備忘録
藍画廊にて、2022年5月22日~58日。

28点の絵画で構成される、中野由紀子の個展。

《窓際と植物、カーテン》(1620mm×1920mm)は、白っぽい画面の中央上部に描かれたヒヤシンス(薄花色)のハランや深緑のヤシなどの植物、そして画面左下にハランと同じ薄花色で表わされた格子が、目に飛び込んでくる。それらシンプルに表現されたモティーフの周囲には、やはり植物や格子(サッシの桟や框)が主に深緑で描かれているが、白の絵具が塗り重ねられ、シルエットのようになっている。また、ハランの背後には差し色の明るいスカーレット(銀朱)が白い絵具の下から浮かんでいる。植物の葉などのモティーフも白で描き重ねられている。とりわけ画面上部を横断するカーテンの襞は、くねる、断続的な太い線として表わされ、画面全体に滴る絵具とともに作品にダイナミズムを与えている。
植物とともに主要なモティーフとなっているのが格子である。《ジグザグサボテン、障子》(242mm×333mm)・《窓際に植物と障子》(380mm×455mm)・《ジグザグサボテンと椰子、障子と窓際》(910mm×910mm)では障子の格子が画面を覆っている。その他の作品でもフェンスや網として格子が画面に登場する。格子は仕切りであり、世界を切り分けるものである。もっとも、切り分けられた世界の関係は必ずしも分明でない。内と外とを截然と区別することが難しい。とりわけ《窓際と植物、カーテン》において、格子、カーテン、サッシの位置関係は、深緑、シルエット(白を重ねられた深緑)、白で表わされた植物と相俟って判然としない。但し、位置関係の不明瞭さが意図されたものであること自体は、「障子、明け方か夕方か」という本展のタイトルから明らかである。

 (略)〔引用者補記:フリッツ・ラングの映画『飾り窓の女(The Woman in the Window)』(1944)では〕孤独な心理学の教授が「ファム・ファタル(宿命の女)」の肖像画に魅せられる。その肖像画は、彼の通う社交クラブの入口の隣にある店の飾り窓の中に掛かっている。休暇で家族が出かけてしまった後、彼はクラブでうたた寝をする。11時に、クラブの従業員に起こされ、彼はクラブを出て、いつものように肖像画をちらりと見る。そのとき、肖像画に生命が宿る。通りに立っている美しいブルネットの女の、鏡に映った姿が、肖像画とオーバーラップするのだ。女は教授にマッチを貸してほしいと言う。教授はその女と一夜を過ごし、彼女の愛人と争い、その男を殺してしまう。その後、友人の刑事から、この殺人事件の捜査の進展状況を知らされ、逮捕が差し迫ったことを知った彼は、椅子にすわり、毒を飲んで眠りにつく。そして11時に、クラブの従業員に起こされ、自分が夢をみていたことを知る。教授はほっとして、宿命の女の誘惑にのってはいけないと自分に言い聞かせつつ、家路につく。しかし、この結末のどんでん返しを、妥協、すなわちハリウッドの規範への順応と見なしてはならない。この映画が言わんとしているのは、観客を慰めるような、「あれはただの夢だったのだ。私はみんなと同じように正常人であり、人殺しではない」といったことではなく、むしろ、無意識においては、つまり欲望の〈現実界〉においては、われわれはみんな人殺しなのだ、ということである。フロイトが『夢判断』で挙げているある例では、父親の夢の中に息子が出てきて、「父さん、ぼくが燃えているのが見えないの?」と責める。この夢にたいするラカンの解釈をパラフレーズしていえば、教授は(自分がみんなと同じように正常人なのだという)「夢を見つづけるために」、すなわち彼の欲望の〈現実界〉(「心的現実」)を回避するために、目覚めたのだ。日常現実に戻ったとき、彼はほっとして「あれはただの夢だったのだ」とつぶやき、覚醒時の自分は「自分の夢の意識にすぎない」という決定的な事実から眼を背けてしまう。荘子胡蝶の夢というのも、ラカンが評価基準として愛用したものの1つだが、この夢をパラフレーズしていえば、物静かで親切で真面目なブルジョワの教授が、ほんの一時、自分が人殺しになった夢をみたのではなく、反対に、人殺しが、その日常生活において、自分はただの真面目な教授にすぎないという夢をみているのだ。
 このような「現実の」出来事から虚構(夢)への遡及的置換は、一見すると、「妥協」のようにすなわちイデオロギー的な協調行為のように見えるかもしれないが、それはわれわれが「確固たる現実」と「夢の世界」という素朴なイデオロギー的対立に固執しているからである。われわれはまさに夢の中でのみ自分の欲望の〈現実界〉と出会うのだということを考慮に入れたとたん、がらりと重心が変わる。われわれの共通の日常的現実、つまりわれわれが親切で真面目な人間という役割を演じている社会的世界の現実が、じつは、ある種の「抑圧」、すなわちわれわれの欲望の〈現実界〉から眼を逸らすことの上に成立した1つの幻想にすぎないということが明らかになる。この社会的現実は、〈現実界〉の闖入によっていつ何時でも引き裂かれてしまうような、象徴の織りなす、破れやすいクモの巣なのである。いつ何時でも、ごくふつうの日常会話やごくありふれた出来事が危険な方向へとむかい、取り返しのつかない破滅が起こるかもしれないのだ。『飾り窓の女』の円環的進行はまさにそのことを物語っている。最初、ストーリーは直線的に進行するが、ある時点、すなわちまさに破局が訪れようとする瞬間に、われわれはふと気づくと出発点に舞い戻っている。破局への道は、じつはわれわれを出発点へと引き戻すための虚構の迂回路だったのである。このような遡及的虚構化を生み出すために、『飾り窓の女』は同じシーンの反復を用いている(教授が椅子にすわったままうたた寝をする。クラブの従業員が11時に起こす)。遡及的反復が、その間に起きたことを虚構に変える。すなわち、「現実」の覚醒はただ1度である、2つの覚醒の間の距離が虚構の空間なのである。(スラヴォイ・ジジェク鈴木晶〕『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』青土社/1995年/p.41-44)

《窓際と植物、カーテン》に描かれたハランは室内の観葉植物なのか、あるいは窓外に植えられたものなのか。仮にハランが室内にあるなら、ハランの手前の白い植物は一体どこに存在するのか。ハランが外に植わっているなら、シルエットの植物はサッシの中(室内)にあるのか。カーテンを表わすくねる描線が変幻自在に位置を変え、内と外と
の対立関係を無効にする。カーテンが翻るたび「確固たる現実」と「夢の世界」とが反転する、円環構造に鑑賞者は取り込まれるのだ。