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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 蔡云逸個展『The Water Support the Fire, The Water Support the Fire. Day Version』

展覧会『蔡云逸「The Water Support the Fire, The Water Support the Fire. Day Version」』を鑑賞しての備忘録
AMMON TOKYOにて、2022年7月1日~8月6日。

油彩・テンペラなどによる絵画に加え、サイアノタイプによる作品なども併せて紹介される、蔡云逸の個展。

メイン・ヴィジュアルの《The Water Support the Fire, The Water Support the Fire. No.1》(2022)(1630mm×1140mm)は、タイル張りの浴室の男女を描いた作品。画面右側に、白いバスタブと湯に浸かる男性を真上から描いている。湯船は両端が半円状で、薬のカプセルの断面のような形を呈している。SF映画に登場するコールド・スリープのための装置にも見えよう。男性の身体は縦に引き延ばされて、頭部は小さく、腕は長く、脚が長く大きい。膝頭と顔は(あるいは膝頭より上は)湯から覗いている。湯船の左側の縁には、腰掛ける女性を斜め後ろから捉えた姿がある。湯船と男性とを描くのと同じく上から見下ろしているなら、女性は湯船の縁に寝そべっていることになるが、視点を降ろして横に近い角度から描いている。画面左端にあるカーテンが真横から描かれることで、画面右側から左側に向かって視点が真上から真横へと移動しているのが分かるのだ。女性の身体も縦方向に引き延ばされて、長い腕と長く大きな脚を持つ。顔は黒く長い髪で隠れているためにその小ささが目立たない。女性の足元には臙脂のバスマットが敷かれ、女性が湯から上がる動作が示唆される。左端のカーテンのタッセルから上は緑で、それより下は赤みを帯びている。裾からは黒猫が顔を覗かせている。裾の波形は浴室のタイルに流れる水へ、さらに水が流れ込む排水孔へと連なっていく。視点の移動と相俟って、画面内には運動反時計回りの回転運動などの動きが感じられる(なお、《A Room》(2022)(1180mm×925mm)においても、部屋の中央に置かれたテーブルの丸い灰皿を中心に、左下で立つ男女、上の服を着る女性、右側のベッド(とその上の男女の身体)、画面下部の影によって、回転運動が表現されている)。
ところで、《Angel and mermaid having a rest on Wednesday》(2018)(1475mm×1140mm)では、その前景(画面下部)に海上に姿を表した岩に身を横たえる人魚が描かれている。岩の上に見えている上半身は女性の身体であり現実を、水中は魚の姿であり夢を、すなわち空想の産物である人魚は現実と夢との境界を行き来する存在として表わされたものであろう。中景の岩礁には3人の男性(?)が立っている。これら人間たちは現実を表象する。なお、画面上部の空中には大きな翼で飛翔する天使の後ろ姿が描かれ、現実からの遊離すなわち死のメタファーと考えられる。
旧作の《Angel and mermaid having a rest on Wednesday》を踏まえれば、新作の《The Water Support the Fire, The Water Support the Fire. No.1》におけるバスタブの湯、すなわち水(water)が夢を表わし、それと対照的な現象である火は現実を象徴すると解することが可能である(女性の正面向きの全身像を表わした《The Last Evil in the World》(2022)(1815mm×915mm)の背景が上下に灰青と赤紫に塗り分けられているのも、女性が夢と現実との境界を融通無碍に移動することを示すものと解される)。湯=夢から上がって現実へ向かう踏切板として機能するバスマットには、火の赤を連想させる臙脂が配されている(《A moth and a Red Brick》(2021)(530mm×460mm)では赤い煉瓦のブロックが現実への踏切板のようだ。もう1つのモティーフである大きな蛾は夢を見ている状態を表わすものだろう)。また、カーテンの上部が緑なのは、カーテンを樹木に、その上部を樹冠として表わすためであろう。樹冠からは木の実が炎を上げて落下していく。イヴとアダムが知恵の樹の実を囓ってエデンから追放されたように、男女が夢から現実へと追い立てられる様を暗示する。黒猫の後ろ肢がカーテンのために隠れてしまっているのは、足のない蛇のメタファーとするためであろう。そして、排水孔へと流れ込んだ水は、循環していつか再びバスタブを満たすことになる。水が象徴する夢、すなわち楽園は、現実を生きるためのエネルギーを備給する。夢の存在無くして現実はあり得ない。両者は分かち難く接続しているのである。その接続は身体によって担われる。身体は夢≒想像に限界をもたらすとともに現実との結び付きを保障する。作家が身体を好んでモティーフとするのは、絵画もまた現実と夢とを繋ぎ止める身体であると捉えているからではないか。