可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『104 INTRODUCES』

展覧会『104 INTRODUCES』を鑑賞しての備忘録
104GALERIEにて、2022年4月1日~30日。

アレックス・カネフスキー(Alex Kanevsky)2点、アネタ・カイザー(Aneta Kajzer)3点、メロラ・クーン(Melora Kuhn)1点、セルジュ・トマ(Sergiu Toma)1点、ヘレン・バーホーベン(Helen Verhoeven)2点で構成される絵画展。

アレックス・カネフスキー(Alex Kanevsky)の《Green Coat》(920mm×920mm)は、床に置かれた座の低い椅子に座る女性を描いた作品。床とほぼ同じ色味の木製の椅子は脚が極端に短い。座面にはペールオレンジに水色と赤の縞の布の上張りがしてある。フード付きの緑のコートを着た女性は、正座から脚を開いた形で斜めに座面に載り、背靠れの方に上半身を捻っていて、ヘアゴムで纏めた後ろ髪を見せている。女性はコート以外に服を身に付けていないのかもしれない(タイトルは「緑色の塗装」とも読める)。太腿が露わにされ、コートの陰には腹部ものぞく。残像のような表現やぶれたような崩れた形は、上張りの布の溶けるように歪んだ表現と相俟って、女性が後ろを振り返る動作を表現するものと考えられる。振り返った先には、水色の壁以外には何も無く、女性の影が映るのか暗くなった部分があるのみである。床に見られる震える描線の連なりを水面に見立てれば、漂泊の描写とも解し得る。
カネフスキーの《Female Nude Sliding off a Painting》(460mm×460mm)には、画面のほぼ中央に、裸体の女性が仰向きに横たわる姿が描かれている。画面の上端から柄のある白い布が垂直に近い角度で垂れ下がり、途中でその角度が緩やかになり、女性の身体の下へと連なる。女性の右側(画面下部)では青みを帯びた布(?)が滝の落水のように画面下端へと落ちてく。女性の身体が下に向かって転がり落ちそうに不安定な姿勢であり、とりわけ顔が力なく横に向けられていること、右手や右脚が残像のように二重に描かれていること、左手が身体から切断されたように描かれていることなどから、女性が事故ないし事件の遺体のように見える、不穏な画面となっている。タペストリーに裸婦ならアンリ・マティスに通じようが、笹山直規を連想せざるを得ない。

セルジュ・トマ(Sergiu Toma)の《The courtyard of my mind》(2000mm×3000mm)は、曙光に浮かび上がる住宅を描いた作品。クリーム色の壁面、白い窓枠、白いカーテン、白い鉢植えなどが輝くが、鬱蒼とした木々が覆う家の周囲は未だ夜の闇の中にある。家の脇の木陰には巨大な工具が何かを抓みだしている。辺りの景色が画布のように引っ張られ、あるいは抓まれた1点を台風の目として周囲の空気を巻き込んでいる。攪拌された闇が家の前にも広がっている。巨大な工具は、巨大な甲殻類としての住宅(Heim)が伸ばした螯のようでもあり、不気味(unheimlich)である。

ヘレン・バーホーベン(Helen Verhoeven)の《Judith Ⅰ》(1500mm×1100mm)は、室内で女性が両腕で高々と男性の切断された頭部を掲げ、そこから流れ落ちる血を口で受けるように顔で浴びている姿と、傍らに倒れている頭部の無い胴体、背後で腰掛ける女性の後ろ姿などを描いた作品。タイトルから、生地の少ないダンスウェアのような衣装を身に付けた女性がユディトであり、頭部を切断された男性がホロフェルネスであると分かる。"Judith Ⅰ"がグスタフ・クリムトの《ユディトとホロフェルネスの頭部》の通称であることから、同作を下敷きにしたものとも考えられる。他の画家のユディトで表わされる頭部切断の表現がないことも、クリムトの作品との関連性を窺わせる。但し、クリムト作品のようにユディトの浮かべる恍惚の表情を表わさず、ユディトがホロフェルネスの血を飲む(あるいは顔で浴びる)姿を描くのが特異である。

メロラ・クーン(Melora Kuhn)の《Susan over Emily》は、青い衣装を身につけたエミリー・ディキンソン(Emily Dickinson)が左手に赤い花を持って椅子に座る姿を描いた作品。写真に基づいて埃による白い点まで詳細に描き出した詩人の肖像に、スーザン・ディキンソン(Susan Dickinson)の肖像を赤い描線だけで、恰も肖像画に刺繍するかのように、重ねている。目を凝らしてもスーザンの姿はなかなか判然としないが、そのことが却ってスーザンがエミリーに分かち難く結びついていたことを訴えるようだ。