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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 須田日菜子個展『存在が花する』

展覧会『須田日菜子「存在が花する」』を鑑賞しての備忘録
横浜マリンタワー 2階 アートギャラリーにて、2024年3月1日~4月29日。

寝そべる人物をモティーフとする絵画「存在が花する」シリーズ3点と、手を描いた「て」シリーズ2点とで構成される、須田日菜子の個展。「野草:いま、ここで生きてる」をテーマとする第8回横浜トリエンナーレの関連企画。

「存在が花する」シリーズ3点は、いずれも横長の綿布(各1900mm×3200mm)に黒いアクリル絵具をスプレーして、左側に頭、右側に脚を出して横になる人物を表わした作品である。身体の輪郭を限られた線のみで略画のように表現する。規模はともかく仙厓義梵の禅画を想起させる。右肘を上げるように折り曲げ右手は頭の後ろに置かれ、左肘も折り曲げて左手は背中の後ろに回されている。脚は水平に伸び、足先は描かれない。頭には円弧3つで両目と口とが添えられ、胸には十字状の亀裂のようなものがある。身体の下側の線の表現や、脚の長短(画面横幅に対し4分の1、8分の3、2分の1)、首元の線の有無、胸の十字の表現、頭部の丸さ、左手の表現などに差異があるが、一見すると区別が付かないほど3点はよく似ている。
腕を上げて横たわるポーズはフランシスコ・デ・ゴヤ(Francisco de Goya)の《裸のマハ(La Maja desnuda)》に近いが、身体の向きからすれば、むしろティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio)の《ウルビーノのヴィーナス(Venere di Urbino)》の系譜に連なる。エドゥアール・マネ(Édouard Manet)はウフィツィ美術館で《ウルビーノのヴィーナス》を模写し、後に代表作《オランピア(Olympia)》を制作している(三浦篤エドゥアール・マネ 西洋絵画史の革命』KADOKAWA角川選書〕/2018/p.52-54参照)。

 (略)マネは古典的ヌードの偉大な先例に依拠しつつ、その本質をことごとく裏切っているのだ。《ウルビーノのヴィーナス》のとは異なり、《オランピア》の裸体は理想化にはほど遠いプロポーションで、卑俗な現実性が付与されている。顔立ちも身体つきも含めて、モデルの個性がこれだけ生々しく露出するヌードは、ゴヤの《裸のマハ》を例外とすれば、《オランピア》以前には存在しなかった。様式的な面からは、《オランピア》が三次元性や立体感を残しつつも、二次元性や平面性への志向を混在させていることも興味深い。肌やシーツなどの陰影を表す半濃淡技法は滑らかさが欠如し、裸体の肉付けの凹凸感が部位によってばらつきがあるなど、ルネサンス以来の伝統的な絵画様式に亀裂が入ったような危うさや不安定な感覚が、マネの作品にはみなぎっている。そのことがまた、《ウルビーノのヴィーナス》における柔らかさと魅力に対して、《オランピア》の固さと違和感を示す大きな理由である。
 結局のところ、《ウルビーノのヴィーナス》は一貫性と均質性をそなえた、古典的な意味で「美しいヌード」であり、《オランピア》は矛盾や両義性、表現のばらつきを露呈した、近代的な意味で「新しいヌード」であった。後者は前者を継承しつつも、その否定の上に成立しているであるがゆえに、この絵は1865年のサロンで一大スキャンダルとなった。理想化された裸体像ではなく現実的な裸の女性であるという主題の扱いにおいても、空間性や立体感に乏しい平面的な彩色という造形性においても、それまでのヌードから逸脱していたからである。(三浦篤エドゥアール・マネ 西洋絵画史の革命』KADOKAWA角川選書〕/2018/p.55-56)

「存在が花する」シリーズは、略画のように身体を表現する。それは男女の性を超越するためであろう。スプレーによる模糊とした線は、身体が空間に溶けていく様を表わすことで、煩悩が消え去った涅槃を象徴するのではなかろうか。《ウルビーノのヴィーナス》の女神による聖性を《オランピア》が否定するなら、それをさらに否定(二重否定)して聖性を打ち出すのが「存在が花する」シリーズであり、なおかつ西洋の伝統を東洋の伝統で捉え直しているのである。横たわる身体が涅槃像に擬えられるからだけではない。「存在が花する」というタイトルに、東洋哲学の世界観を打ち出しているのは明白である。

 仏教では、現象界の存在者は縁起的にのみ有であって、「本質」的には無であり、「本質」そのものも無。「本質」をこの無から救い出すことはどうしてもできない。現象界を離脱して、深層意識に開ける形而上学的地平に置いて観れば、ますます「本質」の無は深まるばかりだ。ところが不二一元論では、現象界の存在者は全てブラフマンそのもの、われわれの表層意識面での現われであるかぎりにおいて有であり、それらの存在者の「本質」は個体的にこそ無であるが、それらの存在者はすべてブラフマンという唯一の絶対的「本質」を共有する、その意味での「本質」は有である。
 幽邃なシャンカラの不二一元論を、私はこんな簡単な叙述で尽くそうとするのではない。ただ、いま述べた、一切の存在者に共通する絶対唯一の「本質」という考えが、東洋哲学の本質論一般において、1つの典型的思惟形態を提示している、そのことを指摘したかったのである。経験的世界の一切の事物が唯一の「本質」を共有する、そしてまたまさにそのことによって無でなくて有である、というこの立場は、事実、東洋では実在体験的、実在思考的な1つの典型であって、東洋哲学のいろいろなところに、形を変えて繰り返し現われてくる。例えばイスラームにおけるイブン・アラビー系の存在一性論などもその1つ。
 存在一性論も経験界の事物を真実在者のたんなる現われとし、そのかぎりにおいて、自体的には「無的」(‘adamī)であるとする。そしてそららの経験的存在者のそれぞれをそのものとして固定する「本質」を、われわれの表層意識の概念恣意的な虚構であるとして、その実在性を否定する。もともと「存在一性論」(waḥdat al-wujūd))とは「存在」を唯一絶対の真実在とし、「本質」を無とする立場なのである、例えばいま眼前に咲いている花を花として見るのは妄念の働きにすぎない。本当は、花を花として見るべきではなく、花を「存在」の特殊な限定的顕現形態として観るべきなのだ。つまり花という現れの形のかげにひそむ唯一の真実在、「存在」の姿をそこに見なければならないのである。
 花を花として――というより、「存在」を花として――われわれに見せるものは、本来絶対的無限定者、絶対無分節者である「存在」を分節し限定する「限界線」(ḥadd,複数ḥudūd)である、とイブン・アラビーはいう。「限界線」は構造的には、ヴェーダーンタブラフマンを「名と形」的に現象させる「限定者」(サンスクリットupādhi)に当たるもので、このḥaddというアラビア語がそのままイスラーム哲学では「定義」を意味する述語であることは注目に価する。もともと、「定義」とは事物の「本質」を言語的に明示したものであり、従ってここで「限界線」と呼ばれるものは、すなわち「本質」を意味する。
 イブン・アラビーによれば、世界すなわち全存在界は唯一無二の真実在である絶対無分節の「存在」が様々な「限界線」によって分節された形でわれわれの表層意識に現われたもの。従って、われわれの側での意識の次元転換によって「限界線」が全部取り払われてしまえば、「存在」がその本来の無分節態において観想されるはずである。この無分節態における「存在」、すなわち絶対一者は、だから、構造的に無相のブラフマンと違うところはない。(井筒俊彦『意識と本質 精神的東洋を索めて』岩波書店岩波文庫〕/1991/p.28-30)

「存在が花する」シリーズの身体の胸に描き込まれた十字状のものは、無分節の世界である「存在」に穿たれた「限界線」である。切断とともに花のイメージを喚起するために十字状で表わされたのだろう。そして、敢て「存在が花する」状況を描き出すことで、「『存在』がその本来の無分節態において観想される」意識の転換を鑑賞者に促すのである。「存在が花する」シリーズは公案であり、仙厓義梵の系譜に連なる、現代の禅画であった。