可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 佐藤貢一個展『Specifically Random』

展覧会『佐藤貢一「Specifically Random」』を鑑賞しての備忘録
NANZUKA UNDERGROUNDにて、2024年3月22日~4月28日。

どこか間の抜けていて憎めない人物を大らかに描き出した絵画で構成される、佐藤貢一の個展。

《Could This Job be Replaced by AI?》(1778mm×1168mm)には、チキンナゲットの宣伝のためのものか、ニワトリの扮装をした2人の男が被っていた鶏の頭を外して休憩する様子が描かれる。茶色の羽根の男はチキンナゲットの入ったどっさり入ったカップを持ってビールを立ちながら飲み、黄色の羽根の男はビールを手に腰を降ろしている。褐色の肌に茶色い髪、垂れ目で大きな鼻を持ち口髭を生やす2人は瓜二つである。ニワトリの衣装は趾まで再現されていて、2人は趾の手袋をしたまま器用にビールやカップを持っている。男たち、茶色いニワトリの着ぐるみ、2人のいる公園(?)の塀、奥に立つ煉瓦造りの建物などが茶の系統で統一され、一体感がある。鶏の格好をした男たちが鶏肉を食べるのは、一種の「共食い」である。《Could This Job be Replaced by AI?》との題名からすれば、鶏(チキンナゲット)を食べる人間は、AIに食べられようとしていることになる。昔噺の『順ぐり食い』を彷彿とさせるではないか。
《Hot Dog Dog》(1778mm×1168mm)には、5匹の犬の散歩に訪れた女性がホットドッグスタンドで買ったホットドッグに齧り付いている様子が描かれる。青のTシャツに水色のデニムのジャケットを羽織り、緑のロングスカートを穿いた女性は右手にホットドッグを、左手で犬を抱く。彼女の足下には4匹の異なる種類の犬が並んで行儀良く坐っている。抱えた犬には赤い首輪が見えるので彼女の飼い犬だろうが、他の4匹には首輪やリードが見当たらないので関係は定かではない(犬の散歩の代行ではなさそうだ)。背後には、青と黄のパラソルの下にバンズ、ケチャップとマスタード、コーラのカップなどが整然と並ぶスタンドがある。ホットドッグ(hotdog)は名前に犬(dog)があるために、犬を連れた女性が食べるとおかしみが感じられる。女性は「犬」を食べて犬になる。
《Greed & Inequality》(1828mm×1524mm)には、虎や豹のような飼い猫に囲まれて赤茶の革張りのソファに腰掛ける女性の姿が描かれる。褐色の肌の女性はダークブラウンのアニマル柄(?)のノースリーブワンピースを身に付け、サンダルを履いている。脚を組み、右肘を高く上げて右手をを背後から左肩の辺りに回している。背後は観葉植物が覆い、脇に立つカバン掛けを止まり木にフクロウがいて、目がついた猫のような鞄が掛けてある。深い緑色の絨毯の上にはアニマル柄の鞄や履き物がいくつも散乱している。その中を這い回る3匹の猫までが虎や豹といったアニマル柄なのが滑稽だ。女性が右腕を不自然に持ち上げているのは、鞄の把手に擬態させるためではないか。飛び降りる猫の尻尾、梟の顔などもバッグの把手のような形状で表現されているからである。

 言葉を換えれば、生き物に命を与える生には、個体や種に関わるようなところがない。生は生きものの身体に留まりうるが、出ていくこともできるし、限りなく多様な他の種に属する個体を養うこともできる。この事実にはきわめて不可解なことがある。わたしたちがみな絶対的に個人的で固有のものと考えるような生は、じつのところ、本質的に匿名的かつ普遍的で、どんな種類の生ける身体にも命を与えることができるのである。ある意味、栄養を補給する行為はどれも、自分が食べているものと本質的に同一な生をわたしたちが有しているということを示している。わたしたちが死ぬときにはかならずや他の生き物もののご馳走となるであろうという事実によって、このことは明らかとなる。
 次のことに気づくとき、わたしたちは困惑すると同時に驚かされる。すなわち、生はわたしたちが食べるものの最も秘められた奥底に横たわっており、わたしたちを生み出すことができるのである。この生は、わたしたちのなかにある生とまったく同じ生である。栄養補給とはなによりまずこうしたものなのだ。すなわち、わたしたちを生気づけることと食べられた身体を生気づけることを同時に、かつ同じ権利でもっておこなうこの同一の生について熟視することであり、至るところで――わたしたちにおいて、また、わたしたちの外で――生きることのできるこの生を熟視することである。わたしたちの身体、ガチョウ、ニワトリ、リンゴ、キウイはそのどれもが生の変異であり、未規定の生なのである。
 食事とは生とをその最も恐ろしい普遍性において熟視することである。すべてを消化し、吸収し、すべてを支持し、破壊する生は、それを受け入れる形態に満足することはけっしてないように思われる。つまり限界がないように見える。未規定で雑食性である生は、あらゆる未来の形態――ニワトリが人間になり、人間がミミズになり、ミミズがハトになる、等々――を捨ててしまうことができない。真のループなどない。生は身体から身体、種から種へと移動し、そのときの自分の形態に完全に満足することはけっしてない。食べるとはこうしたことにほかならない。すなわち、ただ1つの生、あらゆる生きものに共通で、身体のあいだや種のあいだを循環することのできる生しか存在しないという証である。それはつまり、自然、種、人格といういかなる障壁をもってしても、唯一の形態、唯一の身体のなかに永遠に留まるよう生に強いることはできないという証である(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.98-99)

「あらゆる生きものに共通で、身体のあいだや種のあいだを循環することのできる生」がどんなものに宿るか、すなわちどんな形態をとるかは、はっきりと出鱈目(Specifically Random)なのだ。