可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 真鍋由伽子個展『目を瞑って踊る』

展覧会『真鍋由伽子個展「目を瞑って踊る」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー美の舎にて、2023年4月4日~9日。

絵画13点と錫製の文鎮13点とで構成される、真鍋由伽子の作品展。

作家の作品には、《Ederlezi》に描かれる2頭の象、《目を瞑って》における目隠しされて魚を咥える2人の女性、あるいは《遠くの嵐》において食卓をともにする2人の女性など、ふたり(2人、2頭)のイメージが繰り返し現れる。

《双子の踊り》は、黄のワンピースを着た女性2人が向かい合って踊る様子を、顔を描かずにワンピースの部分――首の辺りから膝の辺りまで――で切り取った作品。緑がかった髪が左右に拡がり、ワンピースの裾が膨らみ持ち上がる。さらに体の動きに呼応して曲げられた腕と相俟って、2人の間を軸に回転する運動が伝わる。双子が踊るイメージは、うっすらと樹影を表わした正方形の画面のやや右下に位置する長方形の枠の中に描かれているため、樹影を額縁のように捉えれば画面そのものであるとともに、樹影もまた絵画そのものであるとすれば、画中画となる。いずれにせよ、「双子」と「樹影」とは、誕生を同じくする「双児」である。本展で最大画面の作品である《窓》において、主要なモティーフである、テーブルの上の硝子瓶に挿した花を眺める女性ではなく、背景の窓をタイトルに採用しているのも、外の木立が覗く窓を画中画として認識するよう鑑賞者に促すためであろう。女性と花瓶の花とは実は「双子」であって、「樹影」とも「双児」の関係をなしているのだ。

 世界の形を描くのは誕生である。誕生に際してのみ、そしてわたしたちが生まれたという理由でのみ、さまざまな場所、空気、水、火や、人々、思い出、夢、噓は相互に属しあい、一貫したものとなり、みずからを肉体とすることができる。ただわたしたちが生まれたという理由でのみ、さまざまな物体がちぐはぐなまままとめられているだけではなく、世界が存在する。誕生は自己と世界のあいだで共有されているがゆえに、二重の過程であり、パラレルで同時的である。生まれるのは生きものだけではない。世界もまた、どの新たな個体が現れるのとも違った仕方で生まれる。あらゆる誕生は双児の誕生である。世界と主体はヘテロ接合体の双児、つまり同時に生まれ、一方なしには自らを定義することのできない双児である。逆に、世界にあるすべてのものは、その残りのものと双児出生関係によって定義される。
 (略)
 わたしたちがみずからの世界‐内‐存在という超越論的構造を共有していることは、共通の身体に浸透してそれを占有することの必然性に帰するわけではない。それが意味するのは、とりわけ、他の生きものと双児関係にあるということだ。自然であることは生きとし生けるものと双児であるということである。
 双児出生は身体的あるいは遺伝的な類似によっては定義されない。それは、誕生――同じ瞬間、同じ胎、同じ母を共有する2つあるいはそれ以上の存在がかかわる関係である。それらの存在は遺伝的に異なりうるし(ヘテロ接合体の双児)、お互いにまったく似ていないということがありうる。しかし、それらの存在が胎を共有して世界に来た瞬間、誕生において、そして誕生によって一致している瞬間、その実存は形態ないし同一性の共有よりも深い共有によって特徴づけられている。すべての存在を誕生によって、そして誕生において一致するものとみなすこと――すべての存在を自然な存在とみなすこと――は、すべての存在を宇宙規模の双児とみなすことである。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.26-28)

《スキー》は、雪山を恰好するスキーヤーとその蛇行するシュプールを描いた絵画(画中画)が壁に立て掛けるように設置されている様子を描いた絵画であり、《スキー》自体が画中画同様、板の上に壁に立て掛けられる形で飾られている。また、《絵を見る人》では、美術館らしき展示室の壁に掛けられた等身大に近い女性の立像を食い入るように眺める女性の立ち姿が描かれる。両者には《双子の踊り》同様の入れ籠の「双児」関係が認められる。さらに、《眠るふたり》では、暗闇の中に横たわり眠る女性と犬とが描かれるが、闇に点在する光の粒が星のごとく、2人は恰も宇宙に浮かぶようである。作家は女性と犬とを「双児」と捉えている、すなわち「すべての存在を宇宙規模の双児とみな」している可能性がある。

《朝の人》では緑色のタイルに掛けられた鏡を見詰める女性が描かれ、《白鳥》には毛繕いをする白鳥の姿が水鏡に映る。鏡によって1人(1羽)が2人(2羽)へと「増殖」するのではない。本展では展示されていないが、包丁で羊羹を2つ切り分ける《羊羹のカット》などから、作家は「分裂」を意図している。
他方、先に言及した《窓》において硝子瓶の花を眺める女性や、《絵を見る人》において女性の肖像を眺める女性は、それぞれ花や絵画のキャラクターに自らを一致させようとしているのは、元は1つであること、すなわち「すべての生きものはある意味で、形態から形態、主体から主体、実存から実存へとうつろい続けるような1つの同じ身体、同じ生、同じ自己である」ことの表現ではなかろうか。

 すべての生きものはある意味で、形態から形態、主体から主体、実存から実存へとうつろい続けるような1つの同じ身体、同じ生、同じ自己である。この同じ生とは惑星を生気づける生であり、惑星もまた生まれ、既存のコール(身体=天体)――太陽――から逃れ、45億年前に物質的なメタモルフォーゼによって生み出された。わたしたちはみなその小片であり、閃光である。先行する数えきれぬ存在のなかで生がなしたこととは別の仕方で生きようとする、天体的物質でありエネルギーである。しかしながら、この共通の起源――より適切に言えば、わたしたちが地球の肉と太陽の光、つまり「わたし」と言う新しい仕方を再発明する肉と光であるということ――は、わたしたちにただ1つの同一性を強いるわけではない。反対に、より深くて親密な親縁性(わたしたちは地球と太陽であり、それらの身体、生である)のゆえにこそ、わたしたちは絶えず自分の本性と同一性とを否認するゆうに定められており、それらを新たなものへと手を加えるよう強いられている。差異はけっして自然ではなく、運命と義務である。わたしたちは互いに異なったものになる義務を、自分をメタモルフォーゼする義務を負っているのである。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.22)

本展のメインヴィジュアルに採用されている《目を瞑って》において、2人の女性が魚を呑み込むのは何故か。それは、わたしが魚の「乗り物」であること、魚と同様、1つの生を繋ぐ存在であることを表わすためではなかろうか。

 わたしは生まれた。わたしは自分とは異なるものにつねに乗っている。自己とは、他所から来てわたしよりも遠くに行くよう定められた異質な物質の乗り物にほかならない。それが言葉、香り、視覚、分子のどれにかかわるかはさほど重要ではない。
 わたしは生まれた。わたしを作っている物質は純粋には現在的なところがまったくない。わたしはアンセストラル(先祖以前)の過去から乗って、想像できない未来を目的地としている。わたしとは、ばらばらで両立することのない時間、ある時代や瞬間に割り当てることのできない時間である。わたしとは、ガイアの表面で起こる複数の時間どうしの反応なのだ。
 わたしは生まれた、というのはほとんど同語反復だ。わたしになるということは生まれるということであり、生まれるということはあらゆるエゴ(自我)に固有の活力である。「わたし」は生まれながら他の存在に対してのみ存在しているのであり、翻って、わたしとは乗り物にすぎない――「わたし」はつねに自分とは異なるものを運ぶ何かなのだ。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.18-19)

表面上の差異に目を瞑ると、1つの生が見えてくる。目を瞑って踊れ。それが作家のメッセージであろう。