可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 アレックス・カネフスキー『The Battle of Shahbarghan』

展覧会『アレックス・カネフスキー「The Battle of Shahbarghan」』を鑑賞しての備忘録
104GALERIEにて、2024年4月6日~5月11日。

裸婦や山をモティーフとした絵画10点で構成される、アレックス・カネフスキー(Alex Kanevsky)の個展。展覧会のタイトルは、、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの年代記『パドシャーナマ』の挿絵《The Battle of Shahbarghan》(メトロポリタン美術館所蔵)に基づく。

《Landscape with Mountain》(1520mm×1780mm)はニューハンプシャー州のチョコルア山を捉えた作品。画面上段中央に岩肌の露出した尖った山頂がある。樹木に覆われた緑の山腹は、靄によって稜線と空との境が曖昧になっている。点描の樹木ないし長草は山裾に向かって次第に線状に変化し、深緑や黄緑の幅のある長い線によって表わされるに至る。画面最下部では白い刷毛による縦の描線が連なる。チョコルア山に蛇(Water Serpent)の棲み処であるとの伝承があることからすれば、それはウロボロスの鱗甲であろう。山裾から空ないし山頂へと回帰する円環構造(あるいは完全性)を表すのだ。
メインヴィジュアルに採用されている《Chocorua Sleeper》(1010mm×1520mm)には、チョコルア山とともに諸肌を曝した女性が組み合わされている。岩肌を露出させた尖った山頂とその周囲に広がる木々で覆われた山腹が《Landscape with Mountain》よりも鮮明に描かれる。画面の下側3分の1ほどに雪輪模様(?)を散らした水色の着物(?)が拡げられ、赤い敷布を重ねた中央に薄紫の和服を諸肌脱ぎした女性が丸くなって突っ伏している。なぜ女性はこのような奇妙な姿で表われるのか。無論、女性を蛇(Water Serpent)に見立てているからである。丸まる姿勢に蜷局を、半ば脱いだ着物に脱皮を、水色の着物に水を見て取ることは容易である。
ところで展覧会タイトルの由来であるインド絵画《The Battle of Shahbarghan》は、マー・ワラー・アンナフルを舞台にした戦闘を描く。左側には白い壁の砦ないし城の守備に当たる騎乗の弓兵が、右側には槍や刀を手に攻め込む騎兵が、整然と並んで対峙する。背後には尖峰の山が聳える。 《The Battle of Shahbarghan》に基づく作品が、《Mughal Battle with Model》(1270mm×1070mm)である。原画をコピーしたものを短冊状に切って時間を延長させるかのように貼り合せた画面は渾然として、原画を知らなければ何を描いているか分からないだろう。但し切り立った峰ははっきりとその姿を現わしている。原作との何よりの違いは、画面中央に立つ裸の女性の存在である。グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)が水蛇(Wasserschlangen/Water Serpents)を女性として描いていることを介して、チョコルア山を離れても裸の女性を蛇、ウロボロスを見ることは不可能とまではいえない。原画の整然とした隊列を揺れ動く残像のように崩した作家は山を不動な存在として捉えた。裸婦が象徴する山を棲み処とする蛇=ウロボロスは、時と場所とを異にする世界を今、此所に繋げてみせる。

 仏教では、現象界の存在者は縁起的にのみ有であって、「本質」的には無であり、「本質」そのものも無。「本質」をこの無から救い出すことはどうしてもできない。現象界を離脱して、深層意識に開ける形而上学的地平に置いて観れば、ますます「本質」の無は深まるばかりだ。ところが不二一元論では、現象界の存在者は全てブラフマンそのもの、われわれの表層意識面での現われであるかぎりにおいて有であり、それらの存在者の「本質」は個体的にこそ無であるが、それらの存在者はすべてブラフマンという唯一の絶対的「本質」を共有する、その意味での「本質」は有である。
 幽邃なシャンカラの不二一元論を、私はこんな簡単な叙述で尽くそうとするのではない。ただ、いま述べた、一切の存在者に共通する絶対唯一の「本質」という考えが、東洋哲学の本質論一般において、1つの典型的思惟形態を提示している、そのことを指摘したかったのである。経験的世界の一切の事物が唯一の「本質」を共有する、そしてまたまさにそのことによって無でなくて有である、というこの立場は、事実、東洋では実在体験的、実在思考的な1つの典型であって、東洋哲学のいろいろなところに、形を変えて繰り返し現われてくる。例えばイスラームにおけるイブン・アラビー系の存在一性論などもその1つ。
 存在一性論も経験界の事物を真実在者のたんなる現われとし、そのかぎりにおいて、自体的には「無的」(‘adamī)であるとする。そしてそららの経験的存在者のそれぞれをそのものとして固定する「本質」を、われわれの表層意識の概念恣意的な虚構であるとして、その実在性を否定する。もともと「存在一性論」(waḥdat al-wujūd))とは「存在」を唯一絶対の真実在とし、「本質」を無とする立場なのである、例えばいま眼前に咲いている花を花として見るのは妄念の働きにすぎない。本当は、花を花として見るべきではなく、花を「存在」の特殊な限定的顕現形態として観るべきなのだ。つまり花という現れの形のかげにひそむ唯一の真実在、「存在」の姿をそこに見なければならないのである。
 花を花として――というより、「存在」を花として――われわれに見せるものは、本来絶対的無限定者、絶対無分節者である「存在」を分節し限定する「限界線」(ḥadd,複数ḥudūd)である、とイブン・アラビーはいう。「限界線」は構造的には、ヴェーダーンタブラフマンを「名と形」的に現象させる「限定者」(サンスクリットupādhi)に当たるもので、このḥaddというアラビア語がそのままイスラーム哲学では「定義」を意味する述語であることは注目に価する。もともと、「定義」とは事物の「本質」を言語的に明示したものであり、従ってここで「限界線」と呼ばれるものは、すなわち「本質」を意味する。
 イブン・アラビーによれば、世界すなわち全存在界は唯一無二の真実在である絶対無分節の「存在」が様々な「限界線」によって分節された形でわれわれの表層意識に現われたもの。従って、われわれの側での意識の次元転換によって「限界線」が全部取り払われてしまえば、「存在」がその本来の無分節態において観想されるはずである。この無分節態における「存在」、すなわち絶対一者は、だから、構造的に無相のブラフマンと違うところはない。(井筒俊彦『意識と本質 精神的東洋を索めて』岩波書店岩波文庫〕/1991/p.28-30)

《Mughal Battle with Model》が描き出すのは、「世界すなわち全存在界は唯一無二の真実在である絶対無分節の『存在』が様々な『限界線』によって分節された形でわれわれの表層意識に現われたもの」に過ぎないという認識である。