展覧会『あなたのアートを誰に見せますか?』を鑑賞しての備忘録
東京藝術大学大学美術館 陳列館にて、2023年8月8日~27日。
リー・ムユン、岡田夏旺、海野 林太郎、パク・サンヒョン、青山悟、メラニー・ボナーヨ、アンドレア・バウアーズ&スザンヌ・レイシー、小林正人と「LOVEゼミ」の作品を展観。
リー・ムユンの映像作品《モノローグ》には、冒頭、商店で怪我した鳩を救ったと語る女が登場する。その語りの内容や醸し出す雰囲気には岩井志麻子を髣髴とさせるような不穏さと滑稽さとが滲み、映像に引き込まれる。駅前で天気を予報しないと宣言するレポーター、テレビ番組で特集を組まれた映画監督のミューズとして知られた物故女優、大学で表現者の特権的立場を指摘する若い映像作家など様々な人物の独白が描き出されていく。登場人物の一人に、常磐線某駅のホームで車掌用の監視カメラモニターに映り込む男がいる。スーツ姿であり、恐らくは混雑する列車に自らの身体を押し込むサラリーマンである。彼は幼少期の靴紐が解けたときに待ってもらえなかった体験から説き起こし、自らが不可視の存在であることを訴える。そして、ホームの監視カメラに向かって映り込むことで自らの可視化を図るのである。彼こそ、サラリーマンや通勤客のような集合的な表象と化した人物であり、アーレントの「孤独(loneliness)」を象徴する者であろう。
シュミットのいう「政治的なもの」の核心をなすのは、他者の集合的アイデンティティを言説以前あるいは言説を超えた対象として定立し、それを否定することによって、自らのアイデンティティを肯定的に構成することである。酒井直樹の言葉を援用すれば、「対‐形象化の図式」、すなわち自らが形象化されるためにはネガティヴな他者が対称的に形象化さねればならない、同質的な「我ら」がつくられるためには同質的な「彼ら」がつくられねばならないという機制が、表象の政治には不可欠のものとしてはたらいている。この内と外を分ける表象の政治がはじまるところに、アーレントは「政治的なもの」の終わりをみる。
シュミットは、友‐敵の抗争が最後には「他者の存在そのものの否定」、したがって友‐敵の区別そのものの廃棄にむかわざるをえないことを「予言」したが、そうした存在そのものの廃棄(絶滅)に先行して、それを用意する政治的な死があったことをアーレントは強調する。ユダヤ人に対する「最終的解決」のプロセスが起動したのは「彼らが全人間世界における「余計者」あるいは場所のない者であると立証されたとき」であった。ユダヤ人はまず政治的生活を奪われた――彼らに応答する他者の不在が証明された――うえで、あらためて「生きるに値しない」と宣告されたのである。「場所なき者」(displaced person)とは、「人間がその行為と意見にもとづいて他者から判断されるという関係の成り立つシステム」から排斥された者のことである。彼/彼女たちは、「その意見と行為にもとづいて」は応接されない。「何を語ったか」ではなく「何であるか」によって、個々の言説ではなく集合的な表象(「よからぬ人種」等々)によって判断されるのである。「語られたことの意義の喪失」は、「リアリティの喪失」を惹き起こし、彼/彼女をオブスキュリティの状態すなわち政治的な死へと放逐する。アーレントのこの見方は、表象と現われとの間に負の相関があることを示唆している。人びとが現われまなざされる。そうした形象のみが可視的になるにつれ逆に、1人ひとりの言葉と行いにおける現われは不可視化されざるをえない。現われは表象がしはいてきになるにしたがって封じられていくのである。
もとより、自らの行為や意見の注意・応答の喪失は、或る特定の人びと――アーレントが「場所なき者」として念頭におく難民や亡命者――のみに起こるわけではない。それは、「すべての人間が自分は「余計者」ではないかと恐れる時代」にあって広範な現象であり、現われを閉ざされることが惹起する非在の感覚、アーレントのいう「孤独」(loneliness)の感覚は多くの人々によって抱かれているはずである(ドイツ語でこれに当たる"Verlassenheit"が表わすように、「孤独」は他者から見棄てられ、放置されている状態を意味する)。しかしながら、社会のなかで、アテンションという政治的資源が不均衡に配分されていることも否定できない事実である。「人間の事柄の領域では存在することと現われることとはまったく同一である」とすれば、存在するための条件そのものが差別的に配分されているといってもよい。アーレントが「パーリア」と呼ぶのは、継続的かつシステマティックに現われを奪われる者、アテンションに代えてもっぱらスティグマ的表象をもって応じられる者のことである。支配的表象から発せられる言葉やまなざしや挙動が、たんに言葉における現われを封じるばかりか、しばしば心身に癒しがたい傷を加えることは「ヘイトスピーチ(憎悪表現)」の行動がもたらす効果によっても知られるとおりである。(齋藤純一『政治と複数性 民主的な公共性にむけて』岩波書店/2008/p.70-72)
リー・ムユンの《モノローグ》は、「何であるか」によって判断されることでその現われを閉ざされた者たちに対し「何を語ったか」によってアテンションを向けようとする試みであった。
岡田夏旺の清掃員、海野林太郎の異人、青山悟の倒産者なども表象で処理せず、彼/彼女らにアテンションを向ける試みと解される。
アーレントは、他者へのアテンションというときしばしば連想されがちな同情や共感の姿勢――「被抑圧者の声に耳を傾ける」といった態度――を政治的には危険なものとみなす。「憐れみ」(pity)は、他者の受苦に応答し、その苦しみを減じようとする点で、たしかに能動的な注意の1つのあり方ではある。だが、それは他者を一方的に配慮されるべき犠牲者として位置づけ、他者からその政治的行為(他者自身による現われ)を奪う点で反政治的である。アーレントの念頭にあるのは、M.ロベルピエールら革命の指導者に典型的にみられる態度、つまり「人民」なるものを実体化し、その苦難を「無意識のうちに賛美する」態度、当事者の政治的無力化を代価として自らの権力を贖う態度である。アーレントが「憐れみ」に対置する「連帯」(solidarity)は、やはり苦難を感知することによって喚起されるが、被抑圧者をあくまでも政治的行為者として遇する。それは、「弱者や貧者のみならず強者や富者」をも包含し、「一階級、一国民、一民族」といった仮想された共同体のユニットを超える。共感可能な者とそうでない者を友‐敵の集合的な実体としてつくりだす「憐れみの政治」は、一人ひとりの自らによる現れを奪う点で現われの政治とは相容れない。
このことからまず指摘できるのは、現れの空間からは、他者の立場を自ら自身の立場として領有(我有化)するような代理の機制が排除されているということである。この空間はその意味で民主的であり、他者に代わってその立場を代理・代弁しうるような特権的な立場は排されている。重要なのは自らの意思がカウントされるかどうか、それが集合的な意志決定に反映されるべき情報として正確に集計されるかどうかということによりもむしろ、自らが言葉をもつ存在者=政治的行為者として遇されるか否かにある。
政治的存在者としての地位が代理されるべきでないのは、そもそも「意見」(opinion)は代表されえないからである。意見=ドクサとは、その人にとってのドケイ・モイ(世界の見え方)であり、他者がそれを代替することは原理的に不可能である。「意見はけっして集団には属さず排他的に個人のものである」。(齋藤純一『政治と複数性 民主的な公共性にむけて』岩波書店/2008/p.72-73)
メラニー・ボナーヨは身体的接触により、異なる身体によって「一人ひとりの自らによる現れ」を現実化させようとする。身体の触知によって代理の機制を排除するのである。従って、「他者に代わってその立場を代理・代弁しうるような特権的な立場は排され」ることとなる。
このように現われの空間が代理や代表を禁ずるのは、それらが「誰か」(who)としてのアイデンティティの生起を阻むからである。「人々は行為し語ることのうちで、自らが誰であるかを示し、その他ならぬ人格的アイデンティティを能動的に顕わにし人間の世界に現われる」。この「人格的アイデンティティ」は、意見や行いによる現われに先行して存在する内的本質ではない。アーレントは、ニーチェと同じように行為以前にあるいは行為から離れて存在するようなアイデンティティの観念を明確に否定する。自己は、自己と自己との内的関係はつねに「分裂症と多義性」を免れない。この「自己分裂性」は、「交換不能なもの、一義的なものとして私を認め……私に語りかける」他者との呼‐応の関係が成立するかぎりで、アイデンティティへとすくいだされる既成のアイデンティティが外部に表出(開示)されるのではなく、そのつど現れの行為のパフォーマティヴな所産としてのみアイデンティティは生成しうるのである。(齋藤純一『政治と複数性 民主的な公共性にむけて』岩波書店/2008/p.74)
小林正人は「LOVEゼミ」というゼミナールで、一番好きな人に絵を描いて贈るという課題を学生に出した。気持ちを伝えるためにこそ絵画の技術を磨き、手渡す手法として展示に工夫を凝らすよう指導する。「LOVEゼミ」の成果を発表するとともに、作家は絵筆を銜えた馬の姿を描いた《画家の肖像》を出展する。
2階展示室の奥に置かれた小林正人・「LOVEゼミ」の作品群と、1階展示室の冒頭に置かれたリー・ムユンの《モノローグ》とは対になっている。すなわち、「何であるか」という表象として処理されるのではなく、自らの行為・意見に対する注意・応答を手に入れるために、いかに表現するかを工夫・探究させるようとするのである。そして、本展では鑑賞者から出展者に対するメッセージを募り、会場に掲出している。それは、出展者に対するアテンションの可視化というだけではない。鑑賞者もまた鑑賞者としてその現われを閉ざされた者とするのではなく、アテンションを振り向けられるべく、意見表明という現れの行為を促されるのである。