展覧会『牧野永美子展「いつかにんげんじゃなくなったとして」』
GALLERY TSUBAKI GT2にて、2022年9月3日~17日。
動物の皮を被った人間のような立体作品9点(1点はレリーフ)で構成される、牧野永美の個展。
(略)生贄の犠牲者を考えるためのジラールの枠組み〔引用者註:暴力と生贄の関係を論じるルネ・ジラール『暴力と聖なるもの』〕が、「動物」を最たる犠牲者と見据える点で、現に人間共同体からの絶対的な動物排除は、暴力の主体と関係する可能性を断ち、報復を防ぐ。「動物を犠牲にする場合は何の過ちも生じ得ない」。この時、動物は人間の代わりを務め、訪れうる報復からの盾となる。この関係性を明確に表わしているのが、ジラールの読み解く旧約聖書の一節で、そこではヤコブが盲目の父イサクから、兄エサウに与えられるはずだった祝福を騙しによって勝ち取る。いまわの際、イサクは最後の祝福を与えるべく、エサウに「香りよき肉」を選んでくるよう命じる。ヤコブはこれを聞き、母リベカの助けを借りて、殺したての山羊から得た香りよき肉を父のもとへ運ぶ。しかしヤコブは立ち止り、盲目の父は肌の滑らかな息子の自分と「毛深い」肌のエサウを区別できるのだから、自分は騙し屋と見抜かれるのではないか、と恐れた。騙りが発覚すれば、得られるはずの祝福は呪詛へと変わりかねない。リベカは山羊の皮をまとうよう提案し、この欺きは成功する。「老いたイサクは若い息子をなで、この騙し屋に見事に欺かれた」。父の暴力を免れるため、イサク〔引用者註:「イサク」ではなく「ヤコブ」であろう〕は動物という防備を文字通りの保護とする。
呪詛でなく祝福を受けるため、ヤコブは父イサクに、殺したての子山羊から得た「香りよき肉」を差し出さなければならない。しかもこの息子は文字通りの保護を求め、生贄にされた動物の皮をまとう。かくて動物は父と息子のあいだに割って入る。動物は一種の絶縁体となり、暴力に至りうる直接の接触を防ぐのである。(ディネシュ・J・ワディウェル〔井上太一〕『現代思想からの動物論 戦争・主権・生政治』人文書院/2019年/p.192-193)
「動物を犠牲にする場合は何の過ちも生じ得ない」。だが実際には、動物を犠牲にすることは、人間を犠牲にすることに直結する。
(略)従来、人間は周囲の環境や他種生命から分かたれた自律自存的主体として語られてきたが、現実の人間や人間社会は動植物や微生物、さらに近年では機械類など、生命・非生命を含む種々様々な人外存在との関係を通して形づくられる。環境破壊や人獣共通感染症の流行、およびそれらに伴う人間生活の変容を見ても分かるように、人間は各々の時代や社会における人外存在との関係によっておのがあり方を左右される。さらに、畜産業の発展が土地や資源の簒奪を狙った紛争に繋がり、動物支配の諸形式が奴隷制や優生政策といった人間支配の原型となるように、人間動物関係は人類史の形成因ですらあり続けた。してみれば動物をはじめとする人外存在との関係に光をあてないかぎり、私たちは十全な形で人間を理解することができない。「人間」は常に初めから人間以上を含む概念である、というこの気づきは、古典的な人間像を脱したポストヒューマニズムと言う思想潮流を生み、諸学の人間中心的態度に問いを突き付けている。(ディネシュ・J・ワディウェル〔井上太一〕『現代思想からの動物論 戦争・主権・生政治』人文書院/2019年/p.387-388〔訳者解題〕)
《壁の向こうの君へ(怒)》(1250mm×1770mm×570mm)は、白いウシが角と額とを突き付けるように壁に接して設置された作品。目は壁を睨み付け、壁の向こう側の存在に対する敵意を感じさせる。ウシの胴は途中からワンピースのような形状となり、四肢はヒトの手脚となっている。前肢に当たる手は強く握られ、力が入っている様子が伝わる。後肢に当たる足は指の1本1本が太く表わされ、床をしっかりと踏み締めており、押し出す力より一歩も退かない姿勢が示されている。後ろから見ると、臀部を始め無防備なヒトの身体を露出している。ウシであれば何の問題も無いが、ヒトの場合、上半身は隠すものがあるにも拘わらず下半身だけ何も身に付けていない様子は滑稽に映る。自分の世界に閉じ籠もり自らの憂さを見えない他者に向けたり、壁を作って(境界線を引いて)敵を生み出したりといった愚かさを揶揄しているのかもしれない。
《こぴっと》(1040mm×300mm×220mm)は、展示室の隅で直立する白い毛のウサギ。白い壁に擬態するようである。後肢のヒトの足が爪先立ちになっていることに加え、前肢のヒトの手が低く位置し胴が引き延ばすように表わされることで、背伸びして遠くを見やっている姿勢が強調される。頭頂部と耳とは銅でできていて、目には見えない遠くからのメッセージを受信して、反応しているのかもしれない。
《するどい歯をもつものよ》(250mm×630mm×350mm)も、頭頂部と耳とが銅で表わされ、四肢だけヒトの手脚を持つウサギだが、卓袱台にの円形の天板にしがみつき、歯を立っている。
《かわいくてしょうがない》(175mm×150mm×25mm)は、《こぴっと》や《するどい歯をもつものよ》に表わされたウサギの顔のレリーフ。丸々とした目が大きく、桃色の頬とともに、愛らしさが強調されている。
《凧のような鳥のようないつか凧になる》(360mm×1370mm×570mm)は、ヒトの手脚を持つエイ。大きく水平に広がった胸びれの縁からはヒトの手が、腹びれからは脚が出ている。前に向かって下がる木の台に設置されることで、両手を開き爪先立ちのエイが滑空する姿勢が表現されている。後方に長く伸びた鞭状の尾は飛行の跡を表わすようにも見える。
《ひとつかふたりか》(310mm×280mm×340mm)は、白く丸い繭のようなヒツジ。前肢のヒトの手を胸の前で組み合わせ、後肢のヒトの脚を交叉させて座っている。顔には二つの口があり、2つ顔が組み合わされていることが分かる。すると、実は寄り添った2頭(2人?)の姿を表すものに見えてくる。とりわけ、脚は付け根近くで交叉しているため、その可能性を強く示唆する。
《ランランランウェイ》(520mm×310mm×230mm)は、丸々とした胴を持つ白いトリ。冠羽が双葉になっているのと、後肢がヒトの脚になっているのが特徴。片足が爪先立ちになっていることに加え、手摺のような幅の狭い台の上に設置されることで、大きな丸い胴体のトリがバランスをとって慎重に歩かなければならない状況が表現されている。
《心もはずむよ》(230mm×280mm×300mm)は、ヒトを駄目にするクッションのような(?)、丸々と太ったタヌキ。頭に葉を載せており、これからヒトに変身しようとしているのか、跳び箱を跳んでる真っ最中のように、広げた手が下に、脚が上に来る不自然な恰好である。
《はだかのエビフライ》(70mm×50mm×170mm)は、尾鰭だけ金属製のエビフライ(?)。実は芋虫が尾鰭を点けて海老フライを装っているのかもしれない。頭部にヒトのような口だけがあり、歯と舌が覗いているのが、不気味さを演出している。
すべての動物は平等である。
だが一部の動物は他よりもっと平等である。
(ジョージ・オーウェル〔山形浩生〕『動物農場〔新訳版〕』早川書房〔ハヤカワepi文庫〕/2017年/p.147〕
「いつかにんげんじゃなくなったとして」は、ポストヒューマニズムの立場からの人間中心主義への揶揄である。牧場主のいなくなった動物農場を支配するブタが「だが一部の動物は他よりもっと平等である」と自らの特権を正当化したように、人間はヒューマニズムにより自らの優越的地位を正当化してきたのだと。
(略)主権はみずからの力だけでなく、みずからの合理性をも正当化する。人間は自身らを優れて知的と称するが、それはおのが手になる法の力を通してそうするに過ぎない。これはカール・シュミットの「主権者とは例外に関し決定を下す者である」という言と完全かつ正確に符合する。さらにここで、動物に対する人間の暴力をめぐりデリダ(およびメルヴィル)が示した理解は、カール・スティールが『人間のつくり方』で示した主張と強く響き合う。中世における動物への暴力を考察しつつ、スティールは暴力と知の協力によって暴力的自己正当化が生まれる循環論理を追う。
……人間は自身を他の動物から区別するために、自身のみが反省的言語、理性、文化、それに何より、不滅のの霊魂と復活する身体を持つと主張する。人間はこれらの属性が自身に、そして自身のみに具わると主張すべく、諸々の他者に暴力を振るい、この他者らは慢性的に暴力を受ける中で、「動物」と称される。(ディネシュ・J・ワディウェル〔井上太一〕『現代思想からの動物論 戦争・主権・生政治』人文書院/2019年/p.343)
《はだかのエビフライ》が示すのは、「反省的言語、理性、文化、それに何より、不滅のの霊魂と復活する身体」などといった衣を剥ぎ取った人間の姿である。そして、《凧のような鳥のようないつか凧になる》が示すのは、人間を形作るのは生命のみならず、「非生命を含む種々様々な人外存在との関係」であることを訴えるものと解される。