可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 土井沙織個展『門は開かれたり』

展覧会『土井沙織「門は開かれたり」』を鑑賞しての備忘録
THE LOOP GALLERYにて、2022年10月28日~11月15日。

寓話的な世界を表した絵画31点で構成される、土井沙織の個展。

《愛のヘッドロック》(1832mm×1402mm)は、夕闇か、赤い光の中、茂みの中で動物を抱きかかえる女性の腰から上を描いた作品。首を曲げて正面に向けた彼女の顔は、黒い影となり、大きく見開かれた目だけが爛々と浮かぶ。夕陽に背を向けた彼女の身体は、頭部と異なり影とならず、胸に抱いた真っ黒い獣との明暗対比によって輝く。獣に巻き付けられた長い腕が周囲の枝葉とともに包容する。その包み込む表現が優しさを醸し出す。それと同時に握りしめた手が力強さをも感じさせる。「ヘッドロック」ではなく、あくまでも「愛のヘッドロック」なのだ。獣は彼女に身を委ねている。
ハゴロモ》(1820mm×3680mm)は、仰向けに倒れ込んだ、三角錐状の頭部を持つ男性の上に乗っかって右手で頭頂部を掴み左手を身体に回す女性と、2人を取り巻く巨大な蛇とを描いた作品。黒い円で表された目は女性の無垢さを、相手を摑む太い指の具わった手や、人物にのし掛かる胴体は、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)の新古典主義時代の女性を彷彿とさせる。蛇は女性――男性を捕えて放さない魅力――の寓意であろう。狩野永徳の《檜図屏風》の大蛇のような檜が巌を圧倒するのにも似た力が画面から溢れている。
《愛と窒息》(1452mm×920mm)は、赤を背景に褐色を中心に、抱き合いキスを交わす2人の人物を横から捉えた作品。密着した顔は影のように暗く表され、その闇から浮かび上がる2人の左目と右目が鑑賞者に迫る。お互いに相手の身体に廻し合った腕や脚は巻き付く蛇のようであり、顔と身体の一体化は、コンスタンティンブランクーシ(Constantin Brâncuşi)が刻した《接吻》(下半身の表現は無いが)を想起させる。《愛と窒息》の左右には、腰を抜かし両手を挙げて驚嘆するような動物を描いた《チアボーイL》(1300mm×730mm)と《チアボーイR》(1300mm×730mm)とが配され三幅対となっている。ヒンズー教の神像彫刻などに通じる生命力と神々しさとが感じられる。
上記3件は、作家が画面と格闘する際の息吹が、プロレスのような身体性として画面に乗り移り、身体の発散する熱が発光するような作品群である。

《狩りと救済》(730mm×1300mm)は、黒く描かれた人物が白く表された山羊を抱えて立ち去る様子を描いた作品。横長の画面の右上に人物の顔を配し、首から肩、上腕が左に伸びるとともに、左方向に流れる髪が右方向への素早い動きを強調する。それに対して、獲物の身体は画面の左側に描かれ、脚が下がり、とりわけ左前脚がだらりと力なく垂下がり、衰弱が表現される。抱きか抱える人物の憂いを帯びた目と、死を前にした獣が鑑賞者の方に上目遣いにした目。とりわけ後者の艶めかしさが作品を特徴付けている。恰も狩猟者と獲物とが反転したかのようだ。

 狩猟者が獲物と近いのは二重の意味においてである。ひとつは獲物を捕るには、獲物と狩猟者が共に生きている環境を熟知し、獲物の意思を理解し、その行動を模倣してみなければならないからである。猟とは、いかに獲物に近づくかにかかっている。日本で唯一残った偉大な熊撃ちとして知られる久保俊治はこう語る。「付近一帯のシカの動きを知るには、自分がシカになったつもりで何日か徹底的に歩いてみるのが一番だ」。狩猟とは、獲物へと変身することである。(略)
 (略)
 しかし、猟における自然との一体感は、周囲の環境から目立たないようにし、獲物になったつもりでその行動を理解するということだけではない。猟は、自分の食を得るためのものである。食べることによって漁師は、獲物と近付き、獲物を生み出した自然の一部となる。(略)
 (略)
 ビーバーを食べる人間は、ビーバーのようになる狩猟者は獲物と一体であるのは、狩猟者が獲物を食べるからである。(略)
 (略)
 猟は獲物を食べるために捕る。捕った動物を食べるのは、道徳的責務ですらある。殺した獲物を食べないのでは、獲物も狩猟者も生の意味を失うからだ。しかし食べられるのは動物の方とは限らない。相手がクマのような肉食獣であれば、人間が逆に獲物になる可能性もある。かりに草食獣であれ、大型であれば人間を殺傷できる力で攻撃を加えてくる。そして、獲物を捕えそこねれば、ウィルダネスでは飢餓が近付く。狩猟者と獲物は可逆的な関係にある。(略)
 (略)
 食べられずに、地面に埋葬されたり、焼き場で焼かれたりすることによって人間は、自然のなかで生きてきた意味を剥奪される。そして、おそらく、そうした埋葬の文化的伝統の中で、私たちは「精神」などという、幽霊のような意味不明の存在になってくのだ。ディオゲネスが自分の死体を動物の餌にしようとしたのは、自然から乖離しないためである。私たちは動物たちや森から見られることを恐れ、彼らに自分の肉を与えるのをやめた。それでその罰として自分が何者かわからなくなり、もっぱら他人に「私は誰か」とたずねるようになったのである。ディオゲネスは他の生き物の養分になることを恐れなかった。身体であり続けることを恐れなかった。であるなら、「精神」なるものを人間にもたらしたのは、人間を捕食する生物たちではなかったか。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.87-91)

画面と、動物と、格闘する画家は、身体であり続けることを恐れない。