展覧会『far longer』を鑑賞しての備忘録
アキバタマビ21にて、2022年5月23日~7月2日。
五十川祐、小林琴美、高橋莉子、中村佳世の4人の作家が参加するグループ展。
五十川祐は、屋外の隙間に文字のスタンプを嵌め込んで撮影した写真「Letters in the gap」シリーズ、海の写真を種々の木片に印刷した「Stratum」シリーズ、モルタルに描いた絵画「モルタル・シリーズ」と絵画《絵巻物 #3》を出展。
小林琴美は、布に水色の線で描いた正方形14×14枚を繋ぎ合わせた《正方形のドローイング》、光沢ある白い紙に油性ペンで山の稜線を描いた絵画10列×2行に並べた《山のドローイング》、白い粘土の塊を縦に50個近く積み重ねた《レンガ-積み-》、横に繋ぎ合わせた4枚のパネルに斜め格子を描いた《目の前のガラス-網ガラス-》を展示。
高橋莉子は、緑地の道に伸ばした青いビニールテープを前転して巻き取っていくパフォーマンス《Blue Line》、海水浴場の砂浜をグランドレーキで均すパフォーマンス《Flatten the Sandy》、人体の側面輪郭を切り出した板に当のモデルが嵌まり込むパフォーマンス《In the Board》の記録映像の上映に、それらの関連作品を添える。
中村佳世は、彫刻《意味のある形状に留めるための扉》とそれを主要なモティーフとした絵画《イルミネーター》、彫刻《対象》・《行動》とそれらを描き込んだ屋外風景の絵画《ランドスケープ》、彫刻《窓-風-太陽》とそれを描き込んだ室内風景の絵画《ホール》、及び彫刻《欲望に配慮した理性的まなざし》をまとめて陳列する。
五十川祐の「Letters in the gap」と題された写真シリーズ(4点)は、アスファルトや土の隙間に活字のような文字のスタンプを組んで、"get a test"、"utopia"、"what language is taught here"、"sound"を表わす活版を作っている。溝が文字となって凹凸が反転するとともに、スタンプとイメージの左右の反転する。「Stratum」シリーズ(5点)は、木片の木目と、そこに印刷される海の写真の波と連続するように制作されている。木材と海(あるいは写真)という全く異なる存在が、木目と波という層(stratum)を媒介に接続されている。絵画「モルタル・シリーズ」は記憶を支える壁を表現するためにモルタルを支持体としている。キャンヴァスに描かれることで壁から解放された絵画の先祖返りである。
小林琴美の《目の前のガラス-網ガラス-》(1940mm×3880mm)は、横に繋ぎ合わせた4枚のパネルを白く塗り、細い黒の線で斜め格子を描いた、網入りガラスを表わした絵画。モティーフのガラスとパネルの合わせ目とが中央(左から2枚目と3枚目)では一致しているが、左右(左から1枚目と2枚目、3枚目と4枚目)では一致していない。また、左から4枚目の方が網の目が歪んで隙間が大きくなっている。布に水色の線で描いた正方形の辺を縫い合わせて縦14枚×横14枚の巨大な正方形を作った《正方形のドローイング》(2800mm×2800mm)では、縫うことによって生地が波打ち、正方形には歪みが生じている。《レンガ-積み-》(200mm×100mm×3000mm)では白い粘土の直方体が縦に50個近く積み重ねられているが、個々の直方体が(乾燥の際に?)歪んだり撓んだりしているために、通常レンガを積んだ形状として想定される形よりもかなり不安定な姿を呈している。光沢のある白い紙に油性ペンで山の尾根をごく簡素に描き込んだスケッチを10列×2行に並べた《山のドローイング》では、表わされる線の位置が左右にずれ、時に鉄塔のような構造物も描き入れられるなど、個々の趣が異なる。描かれた稜線は描く者のバイオリズムとなっているかのようだ。《山のドローイング》のみならず、《目の前のガラス-網ガラス-》の歪む斜め格子も、《正方形のドローイング》の撓む布も、《レンガ-積み-》の柱の隙間も、同様に作者のバイタルサインであり、一種の自画像である。
高橋莉子の《Flatten the Sandy》は、海水浴場の砂浜をグランドレーキで均すパフォーマンス。上空からの俯瞰の映像によって、波打ち際(海岸線)の緩やかなカーブに沿って、砂浜、壁、道路、駐車場が延びているのが分かる。作家もまた、寄せては返す波のように、グランドレーキで砂浜を往還する。《Blue Line》は、緑地の道に伸ばした青いビニールテープを前転を繰り返すことで身体に巻き取っていくパフォーマンス。作家は乗り物のタイヤとなって地面に擦過しながら回転する。砂浜で波になり、道路でタイヤになる作家は、恰も狩猟者が環境を熟知して獲物の意志を理解して模倣する(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.87参照)かのようだ。人体の側面輪郭を切り出した板に当のモデルが嵌まり込んでポーズをとる《In the Board》は、運慶が見事な彫刻を作るのは「あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」(夏目漱石『文鳥・夢十夜』新潮社〔新潮文庫〕/1976年/p.42)という「夢十夜」第6夜のエピソードを髣髴とさせる。のみならず、やはり狩猟者の環境に対する態度に通じるものを感じさせる。
(略)狩猟者は、自然と覚醒的に一体化し、その変化と流転を感知する。ここで言う「一体化」とは、自然も自分もひとつの無差異な全体に溶かし込んでしまうことではなく、自然のなかにおける自分の位置づけと周囲への関係性を敏感に察知することである。自分の周囲環境や他の生物への影響、すなわち、自分がもつアフォーダンスを熟知し、その環境の一因子として自分を把握することである。周囲環境に溶け込まねば、獲物に自分の存在を発見され、逃げられてしまう。移動し活動する狩猟者は、自然と自己との境界に敏感である。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.84-85)
中村佳世は、ハートの形を作る両手の彫刻《意味のある形状に留めるための扉》をモティーフに絵画《イルミネーター》を制作し、女性の横顔を表わした彫刻《窓-風-太陽》とそれを描き込んだ室内風景の絵画《ホール》を制作し、両手を重ね合わせる彫刻《対象》を手に捧げ持つ女性像の彫刻《行動》を生け垣の前に設置した様子を表わした絵画《ランドスケープ》を制作するというように、作品同士の入れ籠の状況を生み出している。
五十川祐の絵画「モルタル・シリーズ」、小林琴美の《目の前のガラス-網ガラス-》や《正方形のドローイング》、中村佳世の彫刻《対象》・《窓-風-太陽》や絵画《ホール》・《ランドスケープ》に共通するのは網目のイメージである。網目は境界として遮断する機能とともに透過する機能も併せ持つ。高橋莉子の作品には網目は登場しないが、《In the Board》は板に切り抜いた輪郭で身体の内外の境界を表わすとともに、板から食み出す身体を表わす。4人の作家の作品に共通するのは、境界とその透過(ないし往還)である。
現在のフェミニズム思想の草分けとして知られるリュス・イリガライは、ハイデガーの哲学を批判した『空気の忘却:マルチン・ハイデガーにおける』というちょさくのなかで、ハイデガーを含めて、西洋哲学は、地水火風の四元素のうち、土・地に特権的な地位を与え、地の剛体性を基本メタファーとした存在論を形成してきたと指摘する。たとえば、あらゆる物体は不変の粒子からなると考える原子論は、いわば砂粒の剛体論である。個人の固定的なアイデンティティを強調する実存哲学も、人間のあり方を堅い物質であるかのように捉えている。男性の存在論は、流動的な存在、とくに空気をもっとも無視する。空気は、形がなく、境界がなく、組み立てることができない。男性の存在論の規定にそぐわない存在だからである。イリガライの表現を使えば、女性は移動する存在であり、「流体」である。
しかし、私たちは、空気のなかにこそ住むのであり、地や水や火のなかには住めない。どのような静物も空気を必要とする。空気が動くことなく、その流動性によって私たちの居る場所にやってきてくれなければ、私たちは窒息する。私たちが移動できるのは、まず空気のなか、そして次に、水のなかである。移動する者は空気の恩恵を知っている。空気が媒質となっているからこそ、光が伝わり、熱が伝わり、その振動が伝わり、私たちは知覚できる。空気は流動的存在の代表である。この最も基底的な存在である空気は、しかし、男性の存在論においてすっかり忘却されてきた。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.103)