可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 秋山泉個展『ささやきを聴く』

展覧会 秋山泉個展『ささやきを聴く』を鑑賞しての備忘録
MITSUKOSHI CONTEMPORARY GALLERYにて、2022年1月5日~17日。

鉛筆のみで描かれた絵画20点で構成される、秋山泉の個展。

静物Ⅹ》(970mm×1939mm)には、白い壁の前にあると思しき白いテーブルの上に置かれた、艶やかな肌の白い磁器(?)7点とガラス器4点とが描かれている。テーブル、壁、磁器、ガラス器というモティーフの全てが白い。白い紙に鉛筆のみを用いて描いているために、描き込んで行けば行くほど画面は暗くなってしまうが、明るさを確保しつつ対象の質感の相違が描き分けられている。画面のほぼ中央に台と壁との境界となる線が水平に走っている。磁器やガラス器と「境界線」との距離、あるいは器相互の距離は区々であり、「境界線」と器の位置とが音の高低や長短を表わす楽譜のようにも見える。瓶や器が密集して並べられる、ジョルジョ・モランディ(Giorgio Morandi)の静物画と比べると、間隔の大きさ、間を置いた配置がより鮮明になるだろう。また、モランディの作品においても器のつくる影や器による光の反射が表わされているが、迫真的な描写、とりわけ器面の周囲の映り込みという点では、時代を遡り、オランダ絵画の黄金時代の静物画に通じるものがある。例えば、ピーテル・クラース(Pieter Claesz)の《七面鳥のパイのある静物(Stilleven met kalkoenpastei)》や、ウィレム・クラース・ヘダ(Willem Claesz Heda)の《蟹のある朝食(Ontbijt met krab)》などに登場する金属の水差しやガラスの器に窓が映り込むように、《静物Ⅹ》の器の方面には窓が表わされているのである。それは画面においてハイライト(highlight: the bright part of a picture)であると同時に、作品のハイライト(highlight: the most interesting part)でもある。なぜなら窓とは絵画のメタファーであり、その輝きは絵画を讃えるものであろうからだ。
《室内Ⅰ》(1640mm×1640mm)では、カーテンが閉じられた窓が画面の大半を占めている。カーテンの周囲の壁が黒く表わされているのに対して、閉ざされたカーテンは外の光を通してぼんやりと浮かび上がりながら、吊り元や裾、プリーツといった各部の差異が描き分けられて明瞭となっている。2019年の作品であるが、カーテンの閉ざされた暗い部屋は、コロナ禍において、巣ごもりを余儀なくされたり、国外との往き来が困難になった状況を描くように見えてしまうだろう。作家としては、より一般的に、たとえ閉ざされている世界にも一切が闇に陥ることはない。目が慣れれば、あるいは目を凝らせば、その光に気が付くことができると訴えていたのだろう。何より、窓の中央上部でカーテンとカーテンとの隙間から射し込む光は、鑑賞者を恰も教会の内陣に置くかのようで、一縷の望みの存在を伝えるものであることは明白だからだ。
静物Ⅶ》(1000mm×652mm)は闇の中で燃える蝋燭を描いた作品。高島野十郎の描いた蝋燭を思わせる。だが、作家の蝋燭は、「静物」シリーズと対照とするとはっきりするが、モティーフとなる蝋燭を乗せたテーブルと壁との間の境界線が(少なくともはっきりとは)表わされていない点で、それを明瞭に表わした高島野十郎の蝋燭作品とは異なっている。作家が描きたいのは、蝋燭ではなく闇の深さなのだ。その意味で、光をこそ描こうとする磁器・ガラス器のシリーズや窓(カーテン)のシリーズと好対照をなすが、主たるモティーフを「見せ球」にするという点では、蝋燭のシリーズもまた同様なのである。