可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 アナ・パボン・ポラス個展『I spit even honey』

展覧会『アナ・パボン・ポラス「I spit even honey」』を鑑賞しての備忘録
NANZUKA 2Gにて、2024年3月15日~4月28日(当初会期4月14日までを延長)。

蔦文様や唐草文様あるいは水玉やハートの幾何学文様のクロスを描いた作品や、それらが覆う空間を描いた作品で構成される、アナ・パボン・ポラス(Ana Pavón Porras)の個展。

展示空間に入ったときに正面の壁に掛かった3枚の絵画作品に注目したい。左側の《Nosis》*(810mm×1000mm)は、ピンクの唐草模様が上下を帯状に飾り、紺に水色で花を表わした壁紙が背後に貼られた、朱色の台に置かれた女性の肖像画を描いた作品。肖像の主は詩人ノッシス(*英語・スペイン語ともに"Nossis"の表記が一般的)であろうか。画面のほとんどは唐草模様の薄紫の布で覆われている。さらに、蔦模様を蝋纈染めした水色の布が左上から画面全体を覆うように掛かっている様が描かれる。中央の《Praxila》**(810mm×1000mm)でも同じ空間を舞台とするが、詩人プラキシラ(**英語では"Praxilla"。タイトルはスペイン語)と思しき肖像の下には水玉を臈纈染めにした黄色い布が敷かれ、ハートの小紋のピンクの布が画面の上から被されている。黄の水玉の布はピンクの唐草の帯よりも下に垂下がっているため、ピンクの唐草の縁は、朱色の台座とは別個と分かる。右側の《Gynoecium Ⅲ》も同じ空間を描くが、画面のほぼ全面を蔦模様の水色の臈纈染めが覆い隠す。僅かな隙間から覗くのは《Praxila》と同じ黄色の水玉模様の布である。画題の"gynoecium"は雌蕊を表わすことから、布で覆われた絵画は、蜜を奥に秘める花のアナロジーだと知られる。のみならず、ノッシスの作品から引用されたという展覧会タイトル"I spit even honey"の蜜(honey)に通じもしよう。

 (略)プリニウスは、その『博物誌』(1世紀)のなかで、こう書いている。

ゼウクシスはブドウの絵を描いて、それを大変巧みに表現したので、鳥どもが舞台の建物のところまで飛んできた。一方パラシオス自身は、たいへん写実的にカーテンを描いたので、鳥どもの評決でいい気になっていたゼウクシスは、さあカーテンを引いて絵を見せよと要求した。そして自分の誤りに気が付いたとき、その謙虚さが賞揚されたのだが、自分は鳥どもを瞞したが、パラシオスは画家である自分を瞞したといいながら賞を譲った、という。(中野定雄他訳)

ティーヴン・バーンは、その『本物のブドウ』(1989)において、パラシオスの描いたカーテンがステージ・カーテンであったことを指摘している。つまり、往々にして誤解されがちなように、カーテンは、その下に描かれたものを隠すようにして絵を上から覆っているかのごとく見えたわけではなく、その向こう側にあたかも舞台空間が拡がっているように立ちふさがっていると見えたのだという。プリニウスが「舞台の建物のところ」というような表現をしているのは、そのためである。しかし、カーテンが絵の外部にあるように描かれていたが、それとも絵を覆うように描かれていたかという違いは、いまさほど問題ではないだろう。ヴォルフガング・ケンプは、いつの時代にも、いわゆる祭壇ヴェールや祭壇カーテンが存在していて、絵などはその背後にあったという歴史的事実を指摘し、そうしたカーテンがついには絵の中に描かれるようになっていく次第を論じている(『レンブラント〈聖家族〉』1986)。本物のカーテンが表象のカーテンへと移行するのだ。それは、絵の魅力や価値を高め、それこそ「誘惑的な距離」を生み出そうとするひとつの工夫である。ベンヤミンの言葉を用いれば、カーテンは「礼拝価値」を高めるのだ。描かれたカーテンは、絵画自体が「礼拝価値」を確保しようとする努力のあらわれにほかならない。
 いずれにしても、ゼウクシスとパラシオスの逸話は、トロンプ・ルイユ(だまし絵)に、目をだますことに関わっている。(略)
 とはいえ、ジャック・ラカンもいうように(『精神分析の4つの基本概念』1964)、パラシオスのヴェールの絵画は、なによりもその背後にあるもの、向こう側にあるものを見ようとする欲望を喚起する点で特徴的である。フェノメーヌ(現象)の背後にはヌメーヌ(本体)があるかのように。ゼウクシスは、表面=ヴェールの背後に、深みになにかがあると考えて、すべてが表面として、見られるものとして与えられていることに気づかない。ここでは表現が現にあるところのもの以外のなにかであることを装うのだ。トロンプ・ルイユ(だまし絵)とは、そういうことである。
 プラトンが絵画を否定したとすれば、それは、絵画が対象と等価のイリュージョンを与えるからではなくて、まさに絵画がトロンプ・ルイユ(だまし絵)として、現にあるところのものとは違うなにかを装うからである。しかし、絵画は表面=仮象と競うわけではない。プラトンが表面=仮象の向こう側にイデアとして設定するところのものと競うのだ。絵画は、ひとつの表面を与える表面なのである。アルベルティは、絵画をヴェールにたとえたけれども、これを言葉の十全な意味で受けとらなければならない。絵画はヴェールなのである。(谷川渥『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2001/p.250-252)

《Nosis》や《Praxila》など詩人の肖像画を布で覆う場面を描いた絵画は「背後にあるもの、向こう側にあるものを見ようとする欲望を喚起する」ことは間違いない。もっとも、詩人の名の代わりに雌蕊をタイトルに冠した《Gynoecium Ⅲ》が併置されていることに留意すべきであろう。《Nosis》や《Praxila》のように「表面=ヴェールの背後に、深みになにかがある」のではなく、《Gynoecium Ⅲ》では「すべてが表面として、見られるものとして与えられている」。「絵画は、ひとつの表面を与える表面なのである」。それを傍証するのが、アラベスクの布1枚のみを表わした「Lure」シリーズと言えよう。アラベスクは花のメタファーとして世阿弥の「秘すれば花」を表わす。見せることと秘することとは画布の表面で一体となる。