可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 西村藍個展『Revolving Stage』

展覧会『西村藍展「Revolving Stage」』を鑑賞しての備忘録
ギャルリー東京ユマニテにて、2023年11月6日~11日。

女性、月、布、伽藍堂をモティーフとする、「シェイクスピアの言葉『人生は演劇である』になぞらえ」た「演劇の一幕のような作品」15点(8号以上の比較的大きい作品7点と3号以下の比較的小さい作品8点)で構成される、西村藍の個展。いずれも高知麻紙に岩絵の具で描かれている(光線の表現には銀箔が用いられる)。

比較的大きい作品は、以下の7点である。
《船旅》(455mm×380mm)には、石造り(?)のアーチの奥に、もう1つのアーチがあり、そこに張られた白い布のハンモックに、目を瞑り膝を抱えて坐る女性が描かれる。彼女は黒いチューブトップのチュニックを身に付け、頭に同色の長いヴェールを被っている。アーチの蔭から光を放つ丸い月が覗き、女性の頭部が引っ張られるように月の方に傾く。ハンモックが作る影は、眉月と星々が輝く紺色の星空となっている。
《光線》(333mm×455mm)には、円形の床を持つ窓のないクリーム色の壁で囲われた部屋に、同じ黒いチュニックに黒いヴェールの女性3人が並んで椅子に腰を掛ける。彼女たちは膝の上で手を組んで瞑想している。画面左下の床には紺色の矩形の穴があり、そこにある満月が画面右上の天井に向かって白い光線を放つ。その光線によって、真ん中の女性の上半身はほとんど見えなくなっている。
《泡になる方法》(455mm×380mm)には、コンクリート造(?)の壁のアーチ状の開口部に、白いヴェールを頭に被り、下半身に白い布を捲いた、トップレスの女性が腰掛ける姿が表わされる。目を閉じてやや俯いた女性の足先の布は、二叉形の尾鰭のように結ばれ、人魚を思わせる(タイトルからも「泡になる」人魚であることは疑いない)。女性の背後には彼女を隠すようなクリーム色のカーテンが掛かり、伽藍堂が拡がる。宙に浮いた、背鰭・臀鰭・尾鰭を見せる黒っぽい魚が向こうの壁の間に入り込んでいくのが見える。
《目を燃やす》(1620mm×1303mm)には、端にカーテンが引き寄せられてた円形の舞台の上に、黒いヴェールを被り、黒いスカートを穿いたトップレスの女性が白い布を拡げ持ち立っている場面が描かれる。前に歩き出して振り返った彼女の左目に、中空に浮いた頭部(あるいは仮面)の口から発された光線が射し、炎を上げる。彼女の傍らには、切断されたように短い円柱に背を凭せ掛けた、頭部のない点を除いては瓜二つの女性が坐る。坐る女性の首の切断面からは光が放たれている。
《回転舞台(心臓を交換する)》(1620mm×2500mm)には、カーテンが明け放れた円形舞台に二つの部屋のセットが設置されている。左側は背後にカーテンを降ろした小部屋で、掌を上にして坐る女性が独り瞑想している。スキンヘッドの頭部にはカチューシャが刺さり、血が滴る。右側には黒いヴェールを被り黒いスカートを穿いたトップレスの互いにそっくりな女性3人が胸にアーチ状の穴が穿たれ、中空に浮いた壺のような赤い心臓を挟んで瞑想している姿が描かれる。舞台の正面に位置する、セットをつなぐ部分の窓からは満月が覗く。舞台の上には割れた月が転がっている。舞台の背景――あるいは屋外?――には夜の帳が下りようとしている。
《門番》(606mm×727mm)には、修道服のようなヴェールを被った黒づくめの衣装の女性が部屋の中で独り坐って瞑想している姿が描かれる。彼女の目の前にはアーチ型の扉のような平板な物体が浮き、その背後に浮いた月らしき球体から受けた光を彼女の胸に照射している。
《月を沈める》(727mm×606mm)では、壁に開いたアーチ状の開口部の向こう側で、修道服のようなヴェールを被った黒づくめの衣装の女性が、水を半分の高さに湛えた透明のケースの中にハンドボールほどの大きさ(?)の月を沈める様子が描かれている。水の中には既に2つが沈み、女性は今一つを水に落とそうと構え、彼女の傍らには月が積まれている。
いずれの作品にも登場する、石造りあるいはコンクリート造のアーチが散見される建造物は、重厚さを持ち合わせながらも、廃墟のような実在感よりも舞台装置のような仮設の構造物を思わせる。その仮設性が、ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico)の絵画に通じる、現実からの乖離あるいは浮遊感を生んでいる。さらに修道女のような黒ずくめの衣装の女性は、恰も人形やチェスなどの駒のように似たり寄ったりで、誰もがその役を演じることができる登場人物として造型されていることが分かる。
7点中5点には月が登場する。月は一方で恰もスポットライトのような光を放ち、他方で割れて転がり、あるいはボールのように簡単に手に取られ沈められる。

 われわれには「当のものになりたい」という欲望がある。天台競技では「当体全是」といったりする。その当体を何に求めるかというとき、太陽的な自己を設定するという強い方法がある。これはどんな人間にもひそんでいる光輝ある欲望だ。しかし他方、それとはうらはらに自分を別のものに託してみたいという欲望もある。これを私は「自己の他端への投企」とよんでいる。これは月的な自己ということだ。
 いちばんわかりやすい例は「恋」である。
 恋愛というもの、自分のことを相手に投入し、相手のことが自分に反射してしまう奇妙な現象だ。このような意識は、われわれがエゴセントリックにはなりきれないことを告げるとともに、自己というものが何かのリフレクションであるのかもしれないというおもいを知らせてくれる。それはまさしく月的な感情というものである。おそらく人類の歴史にも、このような太陽的自己の拡張のための知識の系譜と月的な自己の投企のための知識の系譜と知識の系譜とが織りなされ、拮抗しあってきたにちがいない。私はそうおもうのだ。(松岡正剛『ルナティックス 月を遊学する』中央公論新社〔中公文庫〕/2005/p.22-23)

《光線》が描くように光を放つ月はそもそも自ら光を発さない以上、光を反射する(reflect)。その意味で月は鏡に等しい。光を反射する月は鏡として「自己というものが何かのリフレクションであるのかもしれないというおもいを知らせてくれる」存在となるのだ。《門番》は、掟の門の前にやって来た一人の男がいつまでも門を潜ることができずに死んだという、フランツ・カフカ(Franz Kafka)の寓話(『審判』第9章など)を踏まえていると思しい。《門番》の門の形をした扉ないし鏡を前にした女性は、月・鏡が象徴する自らによって道を塞がれているにすぎない。彼女は自分の自由意志でどこにでも行けるのだ。ならば、《目を燃やす》の女性の左目を焼く光線を放つ、宙に浮く顔は、月であり、鏡であり、目を焼かれる女性自身である。彼女はイマジネーションに盲目になっている。

 物を知覚するとき、プラトンは、心にファンタズマ(心像)が形成されると考えた。プラトンによれば、この像は水鏡に映った像のような物で、実態を正確に反映するものではない。このようにファンタズマ(心像)によって物がかたち(象)となって表れてくる過程をファンタジア(phantasia)と呼び、そのラテン語訳のrepraesentatioは、のちの時代の哲学や心理学の用語として「表象」(representation)という言葉に発展していった。
 このプラトンの考えに基づき、エリザベス朝時代の人は何かを知覚した際、それを心のなかのイメージとして捉え、そのイメージのことをファンタズマ、ファンタズム、ないしファンタジーと呼んだ。いずれも「目に見えるようにする」という意味のギリシャ語「ファンタゾ」から生まれた言葉である。
 ただし、知覚以前にイデアの存在を措定したプラトンとちがって、エリザベス朝時代の伝統哲学は、知覚や記憶に重点を置くアリストテレスの考えに多くを負っている。すなわち、知覚や記憶によって得た情報に基づいて、イマジネーションがファンタズマ(心像)を形成すると考えたのである。ロバート・バートンの『憂鬱の解剖』(1621年)やティモシー・ブライトの『メランコリー論』(1586年)では、イマジネーションが歪むとファンタジー(心像)が歪むという考え方が示されるが、この場合のイマジネーションとは、今日言う《想像力》ではなく、心像を形成する知覚機能を意味する。
 哲学者トマス・ライトが1598年に執筆した『心の激情』(1601年出版)にも、《イマジネーション》が感覚や記憶から対象物に関する情報を受け取ってファンタズマ(心像)を形成するため、「我々が理解するものは、必ずイマジネーションの門をくぐる」とある(第2巻第1章)。
 シェイクスピアより3歳年上の哲学者フランシス・ベーコンも、『学問の進歩』(1605年)において、《イマジネーション》は感覚と理性をつなぐものであり、五感によって知覚されたもののイメージが《イマジネーション》によって理性に送られて判断が下されると述べている(『学問の進歩』第2巻12)。
 エリザベス朝において、ファンタズマは、はっきりとした現存性を持つものだった。たとえば、ある物体を見て「りんご」だと思った場合、知覚や記憶の情報によって「りんご」というファンタズマが形成されたことになる。実はそれが蝋でできた本物そっくりのりんごであろうとも、見る人がそれを「りんご」と認識するなら、認識の誤りが是正されるまでその人にとってそれは「りんご」以外の何物でもない。もしその人の生きているかぎり、その認識が是正されることがないか、あるいはそもそも誤謬があることを誰も認めなければ、それは「りんご」なのだ。つまり、この知覚のメカニズムでは「実際」とか「現実」は正確に認識できないものであり、《イマジネーション》が作り出したファンタズマこそ、現実になる。言ってみれば、現実など、見る人によっていかようにも変わりうるファンタズマの総体でしかあり得ない。
 これは、シェイクスピアの世界を理解する際の前提となる。『終わりよければすべてよし』のヒロイン、ヘレナが、バートラムに惚れて「私にはもうバートラム様しか見えない」という意味で、「私のイマジネーションは、バートラム様のお姿しか伝えない」(第1幕第1場)と言う。この場合も、心像を形成する知覚機能《ファンタジア》を指して《イマジネーション》と呼んでいるのである。
 トマス・ライトは、《イマジネーション》がパッション(激情)の影響を受けると、いわば緑色の眼鏡をかけて理性にすべてを緑に見せてしまうことがあると述べている
『心の激情』49~51頁ページ)。たとえば、「緑の目をした嫉妬」におそわれた人は緑色の眼鏡をかけてすべてを緑とおもってしまう。
 『オセロー』は、認識を形作る《イマジネーション》が激情で歪められたために起こった悲劇を描いていると言えよう。「緑の目をした嫉妬」という言い方は『ヴェニスの商人』第3幕第2場にも出てくる表現であるが、『オセロー』では「悪魔もどき」と呼ばれるイアーゴー(第5幕第2場)が、この激情を操作するところがポイントだ。というのも、当時の認識論によれば、知覚機能である《イマジネーション》の歪みを引き起す原因は2つあり、1つはパッション(激情)であり、もう1つは悪魔だという。
 オセローは自分の認識に誤りがあったことにあとになって気づくが、ハムレットの場合は、自分が見たものを本当に父の亡霊として認識してよいのか悩む。自分の知覚機能である《イマジネーション》が煤けているのではないかと疑うのだ。(河合祥一郎シェイクスピア 人生劇場の達人』中央公論新社中公新書〕/2016/p.196-199)

《目を燃やす》において左目を焼かれる女性は、心の目によって見ることが可能になったと捉えるべきかもしれない。

 『ハムレット』の主人公ハムレット往事は、先代ハムレット王の亡霊が出るという話を聞く前、父王が亡くなったことを嘆き悲しみ、親友ホレイシオと次のような会話を交わす。

ハムレット 父上――父上が目に見えるようだ。
ホレイシオ どこにですか、殿下。
ハムレット 心の目にだよ、ホレイシオ。(第1幕第2場)

前の晩に亡霊を見たばかりのホレイシオは、ハムレット王子にも亡霊が見えているのかと思って「どこにですか」とあわてる。しかし、ハムレットは、肉眼ではなく、マインズ・アイ(心眼)に見えているのだという。
 このせりふは、瞼を閉じれば亡き父の面影が見えるという意味にとれるかもしれない。だが、心の目で見るとは真実を捉えることであり、ハムレットは確かにこのあと父の真実を知るのだ。(河合祥一郎シェイクスピア 人生劇場の達人』中央公論新社中公新書〕/2016/p.194)

《回転舞台(心臓を交換する)》では、右側のセットの中の3人の女性が赤い心臓(heart)を共有する。それは感情(heart)の共有である。それは「《イマジネーション》がパッション(激情)の影響を受ける」状況を表わしている。対照的に、左側のセットの女性は、瞑想により、マインズ・アイ(心眼)で真実を捉えようとしているのである。

 ハムレットは、母親を責めるときに、鏡をつきつけて次のように言う。

いや、いや、おすわりください、動いてはならぬ。
じっとして。今、鏡をお見せします。
心の奥底までご覧になるがいい。(第3幕第4場)

 多くの演出では、このときハムレットは鏡のように光る剣をつきつけ、そのため母親が「助けて」と叫ぶことになる。
 また、ハムレットは芝居を打つことでクローディアスが父を殺したかどうかという真実を明らかにしようとするが、それというのも、芝居には「鏡を掲げる」機能があるからだと言う。

芝居の目的とは、昔も今も、いわば自然に向かって鏡を掲げること、つまり、美徳には美徳の様相を、愚には愚のイメージを、時代と風潮にはその形や姿を示すことだ。(第3幕第2場)

 「自然に向かって鏡を掲げる」とは、どういうことか。英和辞典でmirrorという単語を引くと、このハムレットのせりふが引用されて「ありのままを写す」などと定義されていることが、これは誤解だ。演劇とは、ただ日常にあるものをそのまま舞台に載せるものではない。演劇に感動がうまれるのは演劇に仕掛けがあり、劇場の外の現実世界をそのまま見せるのとは違う、特殊な表現になっているからだ。ありのままを写すのではなく、心の目で見える真実を写すのである。(河合祥一郎シェイクスピア 人生劇場の達人』中央公論新社中公新書〕/2016/p.208-210)

作家の絵画もまた、演劇の形式を借りて、心の目で見える真実を写すのである。