展覧会『開発の再開発 vol. 1 平山昌尚「ニース」』を鑑賞しての備忘録
gallery αMにて、2023年5月20日~7月15日。
独創性を巡る新しさの開発競争の行き着く先は、「アートの終焉」である。もはや「新しいことをするのは不可能である」との諦念から野放図な表現活動に逃避するのでも、目先を変えて見かけの新しさを装うのでもなく、芸術表現における新しさ「=開発」のを支える価値基準――例えば、リニアな思考に基づく発展史観――そのものを問い直し、「開発」を「再開発」しようという、石川卓磨の企画による展覧会シリーズ「開発の再開発」。その第1弾は、平山昌尚が、晩年のアンリ・マティス(Henri Matisse)に画風の変化をもたらしたニース(Nice)に画家の足跡を辿り、場所と作品とに触発されて制作された絵画群11件61点で構成される。各作品はニースにおけるマティスの縁の場所に因み、展示場所も大雑把に縁の位置関係を模している。
《Tempête à Nice》(210mm×297mm)は、マティスがホテル・メディデラニーに滞在して制作した《Tempête à Nice》に基づく。マティスは、並木道の傍を雨傘を差して歩く人物が1人しかいない、雲に覆われた寂しい海岸を、ホテルの手摺越しに描いた。作家は、他の並木より高く目立っている2本のヤシの木を含んだ暗緑色のブロックを中央に配し、海岸の建物の屋根(?)の茶色、暗い海岸と曇り空の灰色、道の墨色、手摺の黄土色、そして、遠くに除く青空の青で場面を抽象化して塗り分けている。嵐の不穏さとともに、青空の明るさが原作よりも強調されている。「人生の半分は過ぎたと思う」作家が、灰色が象徴する後半生に希望を見出しているように見受けられる。
サレヤ広場に面したアパルトマンでマティスが描いた《Seated Odalisque》(730mm×600mm)は椅子に横座りする女性像。背景には青い北アフリカの織物が配されている。マティスは、オダリスクの作品について尋ねられた際、布地は女性の裸体と等しい役割を演じていると述べている。おそらく作家はマティスの発言を念頭に、背後にあるアーチやそのデザインである▽や斜交格子を表わす×だけを抽出して《Seated Odalisque》(210mm×297mm)を制作したのだろう。なお、同様の作品を7点制作し、アーチ状に配している。
デジレ・ニエル通りにあるアトリエでは、バーンズ財団の依頼で壁画《The Dnace》を制作している。ピンク、青、黒の色面により分割された背景に灰色の人物たち8人が恰も格闘技をするように踊っている姿が表されている。作家は《Dance》(210mm×297mm)において、右端の左腕と左脚とを上げた人物を取り出して、ペールオレンジの地に灰色で表わしている。マティスというより、ニューヨークを舞台にした映画『サタデー・ナイト・フィーバー(Saturday Night Fever)』(1977)のジョン・トラボルタ(John Travolta)を髣髴とさせる(バーンズ・コレクションもアメリカ東海岸にあるのだから、構わないだろう)。同じ構図・配色の作品を3-5-5-5の18点で展示している。
マティスの作品の一部を取り出して提示する手法は、シネクドキー(提喩)に類する一種の抽象化である。とりわけ青の地に12の灰色の固まりを配した《雨》(210mm×297mm)や、灰色の地に緑で縦棒に左右それぞれ2本ないし4本の弧を描き入れた《ヤシ》(210mm×297mm)で顕著なように、シンボルないし記号の提示が試みられている。それはマティスの狙った、「二義的な細部を全部剥ぎ取った本質的表現」ではなかろうか。
ところで、1940年代の初頭にマティスは樹々の素描、それも幹や枝よりも葉に注目した素描を制作している。そして、これらの葉の素描に関して、貴重な発言をいくつか残している、例えば、アンドレ・ルーヴェール宛の書簡で、「美術学校での模倣の素描は、葉を1枚1枚素描しながら樹を表現するのですが、プッサンがその風景画で行ったようにただ25枚か30枚の葉だけで1つの樹を想像するようなことはしない」と書いている。これと同型の話題をアラゴンの記録した談話では、
クロード・ロランやプッサンは1つの樹の葉を素描する彼らなりの方法を持っていました。彼らは巧みに葉を1枚1枚描いたと言われます。これは単なる語り口にすぎません。実際には、かれらがおそらく2千枚の葉を50枚の葉で表現したのです。しかし、葉の記号を置く方法が観者の精神の内部で倍増し、2千枚にまで見えるようにしたのです。
と語っている。この一節は、樹の葉に対して模倣的な視点から1枚1枚と加算的に葉を描くのではなく、新たな葉の記号を発明し、それを画面に配置することによって、「私に及ぼす効果の総体」としての樹を描くことが可能になり、また、「自分を樹と一体化させる」ことが可能になることを示している。
ここで、記号として提示されるものの作用は、ちょうどヴォリンガーが植物装飾について記述したように、植物それ自体の模倣的な描写が問題となるのではなく、「自然原型から抽象された法則」からこれらの装飾が発生したことを想起してみれば、ここでマティスの用いる記号という概念が抽象化という操作と近似したものであることが明らかになるだろう。そして、マティス自身の抽象化に関する言及はごく限られているとはいえ、「芸術は、それが二義的な細部を全部剥ぎ取った本質的表現であるとき、すべてそれ自体において抽象的なのです」と語るように、抽象化は絵画制作のあらゆる局面で、つねに、すでに作動し、実際、「抽象化は芸術家たちがたえず用いてきた永遠の手段に他ならない」のである。改めて指摘するまでもなく、記号の発明とは抽象化それ自体である。また、このヴォリンガー、マティスの思考から明らかになるように、抽象化とは様式としての抽象的な作品とは無関係であり、具象/非具象という区分が偽の区分に他ならないのは、それが程度の差異に過ぎないからである。むしろ、抽象絵画を標榜する作品群の様式的な思考形式それ自体が、抽象化の問題群にとっての認識論的な障害以外のなにものでもないことにマティスはきわめて自覚的であったはずである。(松浦寿夫「抽象と記号」『ユリイカ』第53巻第5号(通巻773号)/青土社/2021/p.185-187)
会場の奥に、灰色の画面に灰色を塗り重ねた《墓》(210mm×297mm)がある。マティスの墓を表わした作品である。灰色の直方体。それこそ「二義的な細部を全部剥ぎ取った本質的表現」に見える。
ベルクソンは、「内包」的な存在者を次のように規定します。それは、「外延」的なものつまり相互外在的に表象される空間的なものに対置される、内部浸透する連続的な時間のあり方だというのです。外延的な存在者は、量的な計測が可能な現実的(actuel)なものです。それに対し、内包的な存在者とは質的で明確な表象化が不可能である潜在的(virtuel)なものです。ベルクソン初期においては、それはさしあたり心的事象という方向から捉えられますが、それ自身が、一般的な生命存在論の試みであったことはいうまでもありません。質的で潜在的な連続性の方が、表象的な現実を支える根源的な実在なのです。それが「純粋持続」です。
西田〔引用者補記:幾多郎〕において、実在をありのままに捉えようとする「純粋経験」は、こうしたベルクソンとほぼ同様なものを描きだしています。もちろん西田においては、主観客観問題の克服という論点が、ベルクソンより前面に出ています。しかし、ベルクソンの述べる「純粋持続」が、たんなる客観性に対する心的な主観性を首長するものではなく、むしろ客観性と主観性とが共に産出される前主観的な領野を示すものであるならば、それが西田の議論と重なることは確かでしょう。
そのうえ、西田が「純粋経験」を論じるときの焦点は、やはりその分断不可能な「連続性」にあります。ベルクソンのメロディーの例と類比的に、西田は運動や音楽の演奏をとりあげます。そこで西田にベルクソンにも、有機的な連関性というテーマが重要になります。つまり、個別的な要素(「現実化」された表象)は、全体性を志向する有機的な統一性(「潜在的」な関係性)の方からそれが何であるかを規定されるのです。それは、ベルクソン的にいえば、「分割」すれば「その本性」を変えるものとして、分割不可能な「連続体」ということになります。
さて、こうした「連続体」である「内包」を把握するための述語は、「潜在性」と「差異」です。基本的にはベルクソンに由来するこの言葉は、ドゥルーズの思考によって存在論的に洗練されました。しかし「潜在性」と「差異」というロジックは、内包的な存在論を構想する際にも不可欠なものです。それは西田においても、同様であると考えられます。
「内包」的な「連続体」を捉えるには、どうすればよいのでしょうか。表面的に対象化されたものではない有機的な関連性でそうした実在そのものを捉えることは、ベルクソンにおいては「潜在性」によってなされます。「連続的」で有機的な連関は、それ自身は表現されえません。その「連続性」はあくまでも「潜在的」なものです。そして、そのような実在が表象になっていく過程は、つまりは「内包」性が「外延」的な事象となるあり方は、こうした「潜在性」が「現実化」することと描かれます。流れの全体は、無限の連関性をもつために、対象としては知覚されえません。それが、外延的な対象として知覚されるためには、こうした潜在的なものの現実化が、つまりは無限なものの有限化が必要になります。
こうした「潜在的」なものの「現実化」は、「潜在的」なものに固有の存在様態である「差異」を繰り拡げること、つまりは「差異」(différence)の「分化」(ditérenciation)として描かれます。それは、潜在的な無限として折りたたまれている差異を、空間的に押し拡げていくこととして捉えられるのです。そこで、「連続体」として潜在的に無限であるもの、有限化されるのです。ここでは、差異という述語がそのまま「微分」を意味することにも着目すべきです。「潜在的」な「差異」が「現実化」することとは、無限の方向性を含み込む実在を、有限なものへと微分化することなのです。「微分」(と、そうした差異の働きの向こう側に想定あれる全体の「積分」(intégration)の作業)は、ベルクソンからドゥルーズへの生の存在論にとって中心的な意味をもっています。(檜垣立哉『日本近代思想論 技術・科学・生命』青土社/2022/p.230-232)
石川卓磨はマティスの《コリウールのフランス窓》の黒一色の窓が鑑賞者の視線を跳ね返し(réfléchir)つつ、却って、鑑賞者に内省(réfléchir)を促すと指摘している(石川卓磨「アンリ・マティスのヴァーチャル・リアリティ」『ユリイカ』第53巻第5号(通巻773号)/青土社/2021/p.222参照)。それならば、作家が、灰色一色の《墓》に「連続体」である「内包」を見て、マティスから「差異」(différence)の「分化」(ditérenciation)としての諸作品を引き出したと捉えることは可能ではないか。灰色は補色の混色であり、「内包」性と「外延」性あるいは、無限と有限との対立項を同時に表現するのにふさわしい。