可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 戸谷森個展『pass by』

展覧会『戸谷森「pass by」』を鑑賞しての備忘録
2023年2月24日~3月20日

10点の油彩画で構成される戸谷森の個展。

表題作の《pass by》(273mm×273mm)は、白みがかったくすんだ青を中心に、画面左下や右端に深緑、画面左上に黄が、いずれも右上から左下へ向かう筆触で塗られている。斜めの線は対角線の45度に比して緩やかなものだが、正方形の画面の安定感に対しては擦過する筆の動きが印象付けられる。抽象化されたイメージに、例えば深緑の部分が庭や街角で通り過ぎ(pass by)た茂みか植え込みを、黄や灰青がその周囲の光を表わしていると見ることは可能だろう。

 ずっと以前の、北海道の小さな街の資料館で見つけた旧いアイヌ部落の写真との出会い、また、昔の絵葉書や図版に刷られた遠い風景との邂逅、そして化学者ニエプスが写してしまった裏庭の化石のような映像と、僕が現在じっさいに身を置いている陽の当たる場所。つまり、紙のうえに石化してしまったそれらの風景と、僕に原初の明るみを記憶させた風景。そして僕がこの連載で訪ねてきたじっさいの多くの町々と回想の中の街々。それぞれに当たる光が、べつべつの記憶のコンテクストを持ちながら僕のなかで複雑に交叉し反映しあって、新たなる光の記憶として再生され、さらにそれがまた次なる光と記憶の覚醒を求めて予感しつづけていく。それらすべての光と記憶の循環を収斂する唯一の地点は〈歴史〉である。写真は光の記憶と化石であり、そして写真は記憶の歴史である。(森山大道『犬の記憶』河出書房新社河出文庫〕/2001/p.188)

写真機の始祖であるカメラオブスキュラが描画のための装置であったことを踏まえれば、写真と絵画とは類縁にある。写真のみならず絵画もまた光の記憶である。しかし感光性を有する銀の化合物をレンズから取り込んだ光によって風景を一時にそのまま写し取る写真に対して、絵画は絵筆を動かすことによって画面に徐々にイメージを定着させていく。絵画は時間の経過(pass by)を避けられない。
ところで、《phrasing 2》(190mm×273mm)は、白っぽい青灰の画面の左側に紺でL字(鉤)状の、右側にやはり紺でT字状のモティーフを配した作品であるL字(鉤)の角と、T字の付け根の部分からはそれぞれ白い線が横に伸ばされ、画面下端に入れられた白い線と平行(pararell)になっている。思考と言語とが一致するなら、思考は言葉で表わす(phrase)ことが要求される。だが作家は、言葉ではなくイメージで思考することを模索しているのではないか。L字(鉤)とT字のトポロジー的変容は、それを文字として言い換えること(paraphrasing)の象徴と見ることができるとともに、それらを文字ではなくイメージと捉えるなら言葉にする(phrase)ことに反する(para)ことが狙われていると言える。もっとも、全てを同時に定着させることのできる写真とは異なり、言葉にせよ、絵画によるイメージにせよ、それを綴りあるいは描き込むためには必ず順序、先後関係が生じる。両者には時間の経過(pass by)という共通性がある。本展にはサイズの小さな作品が並べられているのは、大画面では難しいイメージの一覧を可能にし、言葉による表現との差異を際立たせることが目論まれているのではなかろうか。