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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 佐々木類・船越菫二人展『Mémoire et Lumière』

展覧会 『佐々木類・船越菫展「Mémoire et Lumière」』を鑑賞しての備忘録
日本橋高島屋 本館6階 美術画廊Xにて、2023年6月28日~7月17日。

身近な植物を封入して焼成したガラス作品の佐々木類と、人の記憶と光の関係をテーマとする絵画作品の船越菫とを紹介する二人展。

佐々木類《植物の記憶/忘れじの庭―春の快晴の太陽光が当たる道端にて―》は透明の板ガラスを重ねた中に対生のシダが封入された作品。やや彎曲した鳥の羽のような形状を見せるシダは、焼成の際に白い灰と変じ、細部まで精緻に残されている。3箇所で気泡となって姿を現すのは、植物の中に隠れていた水や空気である。黒い台座に仕込まれた照明によって植物・水・空気が鮮明に浮かび上がる。佐々木類《植物の記憶/忘れじの庭―寒い秋空の見晴らしの良い卯辰山にて―》では、オオバコのような植物の根の周囲に空気の膨らみがあり、そこには土が赤銅の姿を見せている。
作家が路上で採取した植物がガラスと熱=光とによる化学変化を通じて記録される。灰となって固定された植物のイメージは写真そのものである。路上で擦過する対象をスナップする写真家・森山大道の「写真は光と時間の化石である」との述懐が想起される。

 つまり僕が、写真家が「いまだ」と思って撮っている現実らしきものが、じつは彼方に溶け込んでしまっているきりのない世界の過去と、遠くからある予兆と懐かしさをともなって歩いてくる、未来との交差点なのではないだろうか。いいかえれば、記憶とは過去をくりかえし再生するだけのものではなく、かぎりなく打ちつづく「いま(現在)」という分水嶺を境界として記憶が過去を想像し、さまざまな媒体を通過することで再構築され、さらにそれが来るべき未来のうえにも投影されていく永遠のサイクルのことではないだろうかと、僕は自分自身の記憶を通してシャッターを押している現在そう思っているのだ。写真の記録性とは、たんに出来事の時間を止めるだけではなく、えんえんと前後に連なっていく時間の全体に絶えずかかわっていく性質を持っているように思える。たった1枚の写真を、多くの人が個々に共有することが出来るということは、その解読に各個の記憶がかかわっているからだと思う。(森山大道『犬の記憶』河出書房新社河出文庫〕/2001/p.166-167)

植物のイメージが固定されるのは板ガラスの層の中である。植物の形の前後には光の層がある。すなわち、植物の姿は、「遠くからある予兆と懐かしさをともなって歩いてくる未来との交差点なの」だ。

船越菫《passage #2》は、カーテン越しに木洩れ日が壁に作った映像とすべきか、画面に白やオレンジの光が乱舞する曖昧模糊としたイメージの作品である。右下の蔭の部分が光の明るさを強調するアクセントになっている。船越菫《retinae(neighborhood)》にはピンク、オレンジ、青、褐色などの微細な線による色の塊が表わされている。画題から、具体的な風景を捉えたもののようであり、それが網膜(retina)の視神経が受容した段階――未だ脳で処理されていない段階――を描くようである。船越菫《retinae(journey)》では、長谷川利行――カメラの代わりに絵筆を持った森山大道と言っては語弊があろうか?――の絵画に通じる町の景観――建物や電柱や道といったモティーフ――が認められる。並べられたタイプの異なる作品と各々の画題から、脳ないし理性、あるいは言葉によって切り分けられてしまう前の、作家が擦過(passage)した身近な(neighborhood)光景を表現しようとしている意図が窺える。作家は、何かを描いた絵であると分かってしまうことで切り捨てられてしまう現実の豊穣さ、言わば「あらゆる物質と時空が交叉する混成体」を、そのまま画面上に掬い取ろうとしているのではないか。それは「太古から現在、そして未来へと流れる時空の河に架けられた橋にたたずむような途方もな」い企てである。

 人間が持っているように、街も夢や記憶を持っている。人間の記憶がさまざまな混成糸であるように、街もあらゆる物質と時空が交叉する混成体である。街は、人間の持つすべての欲望と相対的な絶望をもしたたかに蚕食して生きつづけてきた。人間は大昔から、無数の夢とともにこの地上に絶えず街を作ってきたが、欲望はさらに欲望を追うことで、また無数の街を地上から失っていった。そうした人間の欲望と絶望の痕跡を、街はひたすら記憶にとどめつづけることによって、つねに新たなる夢を人間に問いかけてくる。地上のすべての街は、たとえその街がいくたび時間のかなたに風化しようと、かつての夢の記憶を確実に次代の人々に伝えていく。僕はよく、いま自分の立っている地の下に、いったい幾多の街々の記憶が層をなしているものかという、名状しがたい思いにとらわれてしまうことがある。それは太古から現在、そして未来へと流れる時空の河に架けられた橋にたたずむような途方もなさである。僕がいま、カメラを手に実際の街なかを歩くことは、かつて在った街が語りかけてくる夢の記憶に耳をかたむけつつ、来たるべき街の夢に向けて、あるささやかな実証をもくろんでいることに他ならないのだと思う。(森山大道『犬の記憶』河出書房新社河出文庫〕/2001/p.116)

「記憶と光(Mémoire et Lumière)」を「光と時間の化石」と言い換えることは不可能ではあるまい。そして、それが佐々木類と船越菫との作品に通底する性質である。