可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 一色菜穂個展『すこしずつ聴こえる』

展覧会『一色菜穂個展「すこしずつ聴こえる」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2022年6月13日~18日。

一色菜穂の絵画10点を展観。

展示の冒頭に置かれた《ゆき溶け水》(410mm×318mm)には、櫂を動かし小舟で波間を進む人物とその傍らに立つ大きな植物とが、くすんだ水色でシルエットのように描かれている。右上の朱の円は沈む太陽であり、死出の旅が暗示されている。続く《黄泉の国、浮かぶ》(910mm×727mm)では、黄泉比良坂を表わすと思しき断崖の向こうに、明るい水で満たされた黄泉と、そこに横たわる人物の姿が描かれる。
《彼女は流れて》(1120mm×1455mm)の画面は、水色や緑色、淡い黄色で表わされた水の流れに満たされ、その中に1人の女性が揺蕩っている。彼女を運ぶような光の塊を背に、さらにその光の後ろには澱みのような陰がある。彼女の頭上には、ともに流されているらしい花(植物)の姿も認められる。
《ゆく者、来る者、その場》(970mm×1303mm)の画面は、紫色で表わされる水によって半分以上が占められている。右上の太陽(?)の引力に引っ張られるように、水は右上が高く盛り上がり左側に向かって緩やかに傾斜する。それは筆触のつくる水の流れを強める。空は淡い黄色の光で満たされ、水の表層は明るい水色を呈している。画面の中央には太陽(?)の日射しを浴びてか、オレンジ色を呈する。その下に、新生児と臍の緒で繋がった女性が横たわる。同じペールオレンジによって母子が一体であることが示されている。彼女の頭の傍には天に向けて大きな葉を伸ばす植物が描かれる。画面左下の角である水底には、黄色い長い髪の女性が、母親の姿と相似を成すように横たわる。《ゆく者、来る者、その場》のタイトルから、太陽のエネルギーを受けて、生命が誕生し、やがて死んでいく、その流れを描いたものであることが分かる。
これらの作品では、水と光とで満たされた中を、人間(動物)と植物とが渾然となって流れていく姿が表わされている。「分散する一者としての生命」という、アンリ・ベルクソンの生命観に通じるものがある。

 〔引用者補記:アンリ・ベルクソンの〕『物質と記憶』では、記憶はすべてが存在論的な意味で潜在的に残存し、その現実化されたイマージュが個別な心的装置として見いだされていた。同様に、『創造的進化』では、唯一の生命の流れが潜在的に存在し、個々の生命体がその分化(différenciation)として定位されることになる。ここでまずは生命の実在を、唯一の流れとして捉えることが大きな問題になるだろう。このようなベルクソンの議論は、持続の論理を原理的に踏まえることなくしては理解できるものではない。そこで生命を事物のように把捉できる実体として想定してしまうならば、生命をいたずらに神秘化させることにしかならないだろう。そのように考えるならば、では唯一の生命とはどこにあるのか、そうした想定とは根拠なき形而上学的創作物ではないかという疑念が、あたりまえのように生じてくる。ベルクソンの論じる生命とは、異質的な連続性であり、潜在的な一者を構成するという持続のあり方に即して見いだされるのである。個別の生命体とは、流れていく異質的な連鎖である生命が、1つの位相で現実化されたものになる。それは具体的には以下のように描きだせるだろう。
 まずベルクソンの述べる生命の存立とは、記憶と同様に徹底して潜在的なものである。その存立は現実化された全体として想定されることはなく、またすっかり現実化して存在することもありえない。生命の全体とは、全体としての把捉をつねに逃れ去っていく潜在的な力である。しかもその流れとは、単純でモノトニックなもの、つまり一方的なものとして描かれることもない。それは持続であることの本性として異質な諸差異を含み込み、むしろその異質性の密度を高めることにおいてさらに連続性を示すような流れである。こうした流れとは、まさに「跳躍」(élan)と述べられるものだろう。「跳躍」という異質な段階への展開を示す述語が、この書物を特徴づける言葉であることに注意しよう。持続の連続性が異質な諸要素から成立していたのと並行的に、生命の流れは、さまざまな跳躍であり別種の事象への変化であることにおいて、連続する唯一性を追求するのである。
 そして跳躍としての流れは、個々の生命体への分化において具体的な姿を現出させることになる。それは自らの差異化の運動によって、流れの断片であるかのように個別的な生命体を産出するのである。こうした生命体への分化とは、持続の現実化的な働きであるのだが、持続の弛緩の極に想定できるような客観的水準に定位されるものではない。むしろそれは、具体的知覚が質的な異質性を生きる場面と論じられていたように、生命の分散する力を凝集して表現する場面なのである。それだけではない。生命の流れはこうして分化された個体を生み出すことにより、さらに別様に生成変化を遂げて跳躍する視点を獲ることにもなる。個々の生命体とは、分化する生命の流れの集約点であり、またさらなる分散化をはたすための連結器のような役割を担ってもいる。(檜垣立哉ベルクソンの哲学 生成する実在の肯定』講談社講談社学術文庫〕/2022年/p.190-192)

《あの池をこえてきた》(1303mm×1940mm)の下部には、櫂のようなものを手に波打ち際に腰を下ろす女性が描かれる。その岸辺からは植物が伸びる。女性の対岸に位置する(?)、画面の大部分を占めるピンク色に染まる土地には植物や鳥の姿も描かれる。モティーフの位置関係は判然としない。島と植物とを描くと思しき作品(606mm×500mm)に《はるか近しい》という撞着語法のタイトルが付されていることからも、現実的部分/潜在的全体という包括的な諸関係を描き出そうとの明確な意図がある。空間的のみならず、時間的にも線形的な捉え方は排除されている。女性の足元に描かれる水の中を行く舟――おそらく「あの池をこえてきた」――の光景は、過去の時空が現在していることの表現と考えられる。さらに《ことばによって隔てられた、浮くべき橋》(1167mm×910mm)において、梯子のようなモティーフが宙に浮いているのも、梯子が象徴するロゴス――言葉であり論理関係――からの離脱が狙われているのではなかろうか。

 だが潜在的な全体を表現する試みとは、はじめから逆説的なのではないか。表現とは、本質的に現実化的なものだろう。そして全体とは、現実的な仕方でイマージュ化されるならば、その資格を失ってしまう。だから潜在的な全体の場面とは確かに向こう側(au-delà)なのである。しかし幾度も確認したように、ベルクソンドゥルーズにおける向こう側とは、表現の可能性が塞がれていることで特徴づけられる場面ではない。それは、到達不可能な深淵でもない。そこで思考されるべきことは、現実性/潜在性あるいは現実的部分/潜在的全体という包括的な諸関係なのである。存在(=光)は「屈折点」であるわれわれを通過しながら、それ自身の部分がイマージュとして表出されていく(それが運動イマージュ〔引用者註:知覚され、体験される運動の映像〕であるだろう)。その表出にともなって、全体そのものは把握を逃れて潜り込む。しかしあらゆる表出は、いつも全体に向かう変化を、全体に開かれる関係を含意してしまう(時間イマージュ〔引用者註:知覚されず、体験されることもありえない時間の映像〕)。だから全体という審級は、差異線の向こう側というよりも、むしろ経験とその過剰とでも名指されるべきものだろう。経験がそこに内属し、それに触れてはいるものの、それ自身は経験に対して溢れでてしまうもの。すべてを現実化して引き受けることはできない実在の過剰な総体。ドゥルーズの『シネマ』の試みとは、このイマージュ化できないイマージュを、運動化しえない余剰を、映像に依拠することにより(逆説的ながら)剥きだしの力のように摑みとり、概念構成するものではないか。このアクロバティックな試みが成功しえているかについてはさまざまな評価がありえよう。だがそれが、注意深くベルクソンの議論を辿った結果であることは考慮しなくてはならない。問題は、時間イマージュにおいて明らかにされる内容である。
 『シネマ』での時間イマージュの記述を踏まえ、ベルクソンに立ち戻るならば、つぎの有名な心的現象の記述がきっと頭をかすめることだろう。それは、溺死や縊死寸前になった者が、過去すべてを鮮明に想い返すという現象である。こうした現象が実在するのかはわからない。しかし実在するならば、それは現在の行動と連関づけられてイマージュが現れるフラッシュバックの類ではないだろう。死の瞬間に居あわせる精神は、すでに身体やその周囲の状況を考慮する必要を欠いている。そこでは身体の運動を中心とした時間の有機的関連は失われているのである。だからそこで現出する精神は、時間の多層的存立に、つまり結晶としての時間イマージュにきわめて近いものだろう。
 そこで噴出するものは、運動性に依存する知覚のリアリティーではない。知覚のリアリティーとは、運動的なもの、現在的なもの、身体的なもの、空間に展開される質的なもの、これらであるだろう。それらは結局、有機的な流れ、つまりはメロディーという範型で示される持続である。これに対し実在の全体に関わる場面では、時間の存立そのものが問題になる。それは知覚的な注意がすでに弛緩し無効になる際に、コントロールを欠くように現出する全体としての持続である。有機的運動に組織化できず、現在という支点を見失い、対応する身体機構をもちえず、経験という範疇にはおさまらない純然たる知覚(聴覚・触覚)である。このイマージュは、いっさいの個人的な視点には解消されないものとして、非人称的で普遍的な時間の表出に近似する。それは主観のあらゆる反応が連鎖しえないものとして、非人称的な時間に向かって開かれていく。(檜垣立哉ベルクソンの哲学 生成する実在の肯定』講談社講談社学術文庫〕/2022年/p.274-276)