可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 益永梢子個展『editing』

展覧会『益永梢子展「editing」』を鑑賞しての備忘録
nidi galleryにて、2022年1月21日~2月20日。※当初会期(2月13日まで)を延長。

着彩した画布を切ったり折ったりしてクリップなどで留めた立体的「絵画」23点で構成される、益永梢子の個展。

《Meanwhile》(960mm×270mm×100mm)は、短冊のように切断された2枚の画布を銀色のクリップに挟んで壁に掛けたもの。2枚のうち背後にある画布は灰色に塗られている。それに対して、表側にある黄土色に縁を白く塗られた画布は、垂下がった先で巻かれて白い面を見せ、その裏側の生地をのぞかせて一旦上に向かい、再び折り返されて白い面を顕わに下に向かう。尖端には赤茶色に塗られた画布が車止標識のように付されている。赤茶色の「線」(「面」というべきだろうか)を「車止標識」と捉えたくなるのは、短冊状に切断された画布が恰もレールのように働いて、視線を誘導するからだ。ループやひねりがあることからすれば、むしろジェットコースターに擬えるべきかもしれない。視線をアクロバティックに滑らせる快楽がある。ところで、「Meanwhile」という言葉がタイトルに採用されているのは、灰色の画布と黄土色の画布との2つの「コース」が呈示されているからだろう。

 ベネディクト・アンダーソンは、小説らしさの核心には、「この間meanwhile」という語法がある、と述べている。「この間」とは、遠く離れた2つ(以上)の出来事の間の同時性を含意する語である。それぞれの出来事に内属している登場人物たちは、互いを知覚することはできない。しかし、2つの出来事は同時に進行している。「Aは愛人Bと口論していた。この間、Aの妻Cは1人の男Dとともに旅立とうとしていた」といった具合にである。アンダーソンの中心的な関心は、文学や小説にあったわけではなく、Nation(国民)とNovel(小説)という2つのNがほぼ同時に歴史的に出現してきたことに気づかせ、後者のNとの類比によって、「ネイション」という共同体の――それまでの共同体にはなかった――特徴を浮き彫りにすることにあった。いずれにせよ、「この間」を自由自在に駆使することができるのは、三人称客観描写をわがものとした19世紀の小説である。全知の語り手だけが、登場人物が知ることができない、2つの出来事のあいだの同時性を知覚している。読者は、この語り手の視点に自らの視点を投入して、小説を読むことになる。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇1 〈主体〉の誕生』講談社/2021年/p.496-497)

《Meanwhile》は鑑賞者に対して「互いを知覚することはできない」はずの「2つの出来事のあいだの同時性を知覚」できる地位を提供している。その地位とは、「全知の語り手」、すなわち神の立場と言って良い。このような地位を得る経験は、勝れて絵画的なものである。なぜなら、絵画の表現技法として受け容れられている遠近法もまた、鑑賞者を神の位置に置く装置だからである。

 (略)〔引用者補記;『レ・ミゼラブル』の「梟の見おろしたパリ」においてパリを上空から描写している〕ユーゴーの視線はパリをを地獄のようにおどろおどろしく描き出しているが、このような視線には明らかにふたつの、同じパラダイムに属する経験、飛行技術と絵画の遠近法(レオナルドのなかには実際に両方ともあった)が潜在していた。空からの視線は地図のまなざしといってもよいが、実は遠近法は15世紀のフィレンツェ人文主義プトレマイオスの地図と結びついていた。そのさい地図は地球を絵をながめるように眺める外側の視線をおいた。いずれにしろ、こうした視線は、世界を構造として再構成する。距離が見るものと見られるものを隔てる。上空から見下ろす「眼」は、いわば中世には神が占めた位置に人間が位置することである。(多木浩二『眼の隠喩 視線の現象学筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2008年/p.146)

《Unless》(200mm×320mm×70mm)は、方形の画布を灰青、黄土、白、臙脂で矩形などの幾何学的形態に塗り分け、なおかつ直線的に切り分けた画布を部分的に弛ませなどしながら、2穴金属リングでまとめた作品である。離ればなれになった同じ色の面が切断を強調すると当時に、同じモティーフの繰り返しの印象を生んでいる。白い面が余白ではなく図として立ち上がり、「余白」として空間が取り込まれる。画布の裏の生地が裏返って姿を見せることで、イメージとして立ち現れる。タイトルに用いられた「Unless」が示すのは、偶発的事情のない限り、という条件の設定である。

 現実の人生の展開が偶有性の様相を帯びているということは、他のありえた可能性が、見てきたように、「抑圧されたものの回帰」の形式で現実にたち現れ、幽霊のようにとり憑くことである。このとき、同時に、次のような逆転が生ずるのではないか。この偶然の実現が、他なる可能性の否定を前提にしてこそ成り立っているのだとすれば、後者の現実化していなかった可能性の方がより本来的であり、現実よりもいっそう、私にとって真実だということになる。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇1 〈主体〉の誕生』講談社/2021年/p.540)

現前の作品こそ現実である。だが、2穴金属リングで仮止めされた作品は、「現実化していなかった可能性」を強く想起させる。