可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『ホテルアイリス』

映画『ホテルアイリス』を鑑賞しての備忘録
2021年製作の日本・台湾合作映画。
100分。
監督・脚本は、奥原浩志
原作は、小川洋子の小説『ホテル・アイリス』。
撮影は、ユー・ジンピン(余靜萍)。
美術は、金勝浩一。
衣装・メイクは、KUMIと花井麻衣
音楽は、スラボミル・スタニスワフ・コヴァレフスキ(Slavomir Stanislaw Kowalewski)。
編集は、チェン・ホンイー(陳宏一)と奥原浩志
北京語題は、"愛麗絲旅館"。

 

マリ(陸夏)が、島への渡し船の舟付場にある売店を訪れる。浜辺に出した椅子に座る店主(李康生)に声をかけてラムネを注文する。どこから来たの? アイリス。外国から? ホテル・アイリスよ。
マリが島にある白い住居に向かう。緑のドアを開けて中に入ると、ガランとした室内に使い古された机だけが残されている。
綺麗な髪。私がこうやって梳かしているからね。マリの母親(菜葉菜)がマリの髪を梳る。マリ、お祖父さんから受け継いだホテルを2人で守らないとね。
ホテル・アイリスのフロント。電話が鳴り、マリが受話器を取るが反応がない。階上で女性の悲鳴が聞こえる。顔を思い切り殴られて倒れ込んだ赤い衣装に身を包んだ女性が、階段を駆け下りて逃げ出す。その後からスーツを身につけた男(永瀬正敏)がゆっくりとフロントに降りてきた。男はマリに金を握らせるとそのまま雨の中を傘も差さず出て行った。
マリが買い出しで市場に向かうと、店先でタイプライターを眺めているスーツの男が目に入った。マリは男の後を追う。男は路地でバンドネオンの演奏に投げ銭をした。浜辺に向かい、引き潮で姿を現した島へ向かう道を歩き出した。突然男が立ち止って振り返り、マリに何故後を付けるのか尋ねた。ホテルのお嬢さんですよね。

 

母親が経営するホテル・アイリスでマリ(陸夏)は働いていた。ある日、マリがフロントにいたところ、スーツを身につけた男(永瀬正敏)が激昂し、彼に殴りつけられた娼婦がホテルから逃げ出す場面に遭遇した。それから程なくして、街でスーツの男を見かけたマリが、スーツの男を尾行した。彼はマリの尾行に気がついていて、海岸から島へ向かう際に、マリに何故後を付けるのか尋ねた。一頻りの会話を交わし、島に向かう彼に、マリは手を振った。後日、バンドネオン奏者が男から手紙をマリに届けた。マリは手紙に書かれた待ち合わせの場所に向かう。来てくれたんですね。男とマリとの交友が始まった。

以下、全篇について触れる。
マリ(陸夏)は、殺された父親(馬志翔)から性交渉を持ったことが仄めかされる(酔った父親がマリのが寝るベッドにやって来てマリに触れる)。マリはそのことで父親を嫌悪していない(父親と写った写真を大切に持っている)。おそらく、その父親の喪失を埋め合わせるとともに、父親との関係で快楽を覚えた自らを罰したいという心理が、サディスティックな男(永瀬正敏)にマリを接近させたのだろう。マリは、「マリー」という「友人」に向けた手紙の体裁で、「男」との関係を赤裸々にノートに綴っている。それはマリが自らの罪深さを発見するための装置として機能する。

 幻想空間は中身のない表面であり、いわば欲望が投射されるスクリーンである。そのポジティヴな中身が魅惑的に眼前にあらわれることの意味はただ1つ、ある穴を埋めることである。そのことを完璧に例証しているのが、パトリシア・ハイスミスの中編小説『ブラック・ハウス』である。舞台はアメリカの小さな田舎町。男たちは夕方になると居酒屋に集まり、昔話に花を咲かせては郷愁に浸っている。街に伝わる伝伝説――たいていは彼らの若い頃の冒険談――はどういうわけかどれも、町外れの丘に立つ廃屋と関係がある。その不気味な「ブラック・ハウス」には何か呪いがかかっているらしく、男たちの間では、誰もあの家に近づいてはいけないという暗黙の了解がなされている。あそこに入ると生命の危険があるとすら思われている(あの家には幽霊がいるとか、孤独は狂人が住みついていて侵入者を片っ端から殺すとか、噂されている)のだが、同時に、男たちの青春の思い出はすべてその「ブラック・ハウス」に結びついている。そこは彼らが初めて「侵犯」、とくに性体験を係わる侵犯を経験した場所なのだ(男たちは、昔あの家で町でいちばんきれいな女の子と初めてセックスをしたとか、あの家で初めて煙草を吸ったとかいった話を飽きもせずに繰り返し話す)。物語の主人公は町に引っ越してきたばかりの若い技師である。彼はそうした「ブラック・ハウス」にまつわる神話を耳にして、男たちに、明晩あの不気味な家を探検してみるつもりだと告げる。その場にいた男たちはそれを聞いて、口には出さないが、激しい非難の目で主人公を見る。翌晩、若い技師は、何か恐ろしいこと、あるいは少なくとも予期せぬことが自分の身に起こるのではないかと期待して、問題の家を訪れる。彼は期待と緊張で体をこわばらせ、暗い廃屋に入り、ぎしぎし音を立てる階段を上り、1つ1つ部屋を調べるが、朽ちかけた敷物がいくつか床に散らばっていただけで、他には何もなかった。彼はすぐに居酒屋に戻り、誇らしげに、「ブラック・ハウス」はただの汚い廃屋にすぎず、神秘的なところも魅力的なところもない、と断言する。男たちはぞっとすると同時に強烈な反感を抱く。若い技師が帰ろうとしたとき、男たちの1人が狂ったように襲いかかる。技師は運悪く仰向けに地面に倒れて頭を打ち、しばらくして死ぬ。どうして男たちは新来者の行動にこれほど激しい反感をおぼえたのだろうか。現実と幻想空間という「もう1つの光景」との差異に注目すれば、彼らの憤りが理解できる。男たちが「ブラック・ハウス」に近づくことを自分たち自身に禁じていたいのは、そこが、彼らが自分たちの郷愁にみちた欲望、すなわち歪曲された思い出を投射できる、からっぽの空間だったからである。若い闖入者は、「ブラック・ハウス」はただの廃屋にすぎないと公言することによって、男たちの幻想空間を陳腐な日常空間へと貶めたのである。彼は現実と幻想空間の差異をなくしてしまい、。男たちから、彼らが自分たちの欲望を表現できるような場所を奪ってしまったのである。(スラヴォイ・ジジェク鈴木晶〕『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』青土社/1995年/p.28-30)

「男」の住む島は、マリが自らの欲望を投射できる空間である。「男」の住まいが空っぽであり、なおかつ創作のための机だけが存在することが冒頭で映し出されているのは、その証左である。だからこそ、マリの欲望の対象である「男」はマリ自身の想像の産物であり、マリ自身なのだ(セリフと鏡の存在とによって「男」が自己の鏡像であることが強調される)。マリが「男」の「甥」(寛一郎)を自ら誘い、彼の上に跨がるとき、マリが父の代替である「男」の「支配」(≒近親相姦の呪縛)から自由になる。もはや「男」はマリの欲望の対象ではない。「男」がマリによって「島」に投影されることはないということは、「男」は殺された(存在を抹消された)ということに他ならないのである。
「男」がマリを緊縛するシーンは、控え目にまとめながらエロスが伝わるよう工夫されていた。
マリの衣装(黄+青の組み合わせか、白か)によって、現実と幻想とが区別されていたようだが、どうだろうか。
黄と青の光を印象的に用いて撮影されている。
島とそこに続く道の風景が素晴らしい。