可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 角文平個展『宇宙の箱舟』

展覧会『角文平「宇宙の箱舟」』を鑑賞しての備忘録
渋谷ヒカリエ 8/ CUBEにて、2022年4月22日~5月8日。

人工衛星のような、宇宙に浮かぶ分譲住宅「Space House」シリーズを紹介する空間、立方格子に様々な戸建て住宅を配した《1戸建てマンション》とクライミング・ホールドを用いた作品群を展示する空間、《Nursery Plant》、《Canned Forest》、《Proto Planet》など針葉樹をモティーフとした作品群で構成される空間と、連続する3つの展示空間を用いて行なわれる、角文平の個展。

「Space House」シリーズは、色取り取りの切妻屋根の住宅に、太陽電池パドルやアンテナなどを模した金色の装飾が取り付けられた、宇宙空間に浮かぶ分譲住宅の模型で、テグスで天井から吊されている。床には人が入れるサイズの《Space House》が設置され、その内部では、「Space House」に移り住んだ家族に対するインタヴューの生放送という体裁の映像作品が上映されている。移住に至った経緯や住み心地の他、移住者が増えて眺望に問題が生じたなどの不満も開陳される。宇宙空間に浮かぶ人工衛星と地球とが通信で繋がるSFは、パンデミック下にオンラインでのコミュニケーショに依存した現実を反映している。

《Tokyo Galaxian #02》は青い輝きを纏った東京タワーの夜景に、インヴェーダー・ゲームのイメージを重ねた作品。存在しない侵略者のイメージを夜空に描き出し、平和のための存在を軍用に転換した作品は、ロシアによるウクライナ侵攻が敵基地攻撃能力の議論に影響を与えている現状を映し出す。

《1戸建てマンション》は、様々な戸建て住宅の模型を立方格子の上下左右に配した作品。黒いテーブルの上に設置されることで、分譲されるのが宅地(土地)に建設された住宅ではなく、空中に設置された住宅であることが強調されている。映画『ハイ・ライズ』(2015)は高層マンションを衰頽する社会のメタファーとして、次第にサーヴィスが行き届かなくなって階級対立が先鋭化していく住人たちの運命をシニカルに描いていた。《1戸建てマンション》のように、たとえ中空の緩衝帯を挟む戸建て住宅であっても、高層部と低層部との位置関係は変らず存在するのであるから、残念ながら『ハイ・ライズ』同様の階級対立は避けられそうにない。黒いテーブルの下は、クレーターの目立つ月面として表わされ、円盤状の掃除ロボットに住宅と樹木が載った《Wandering House》が徘徊している。"Wandering House"が定期的に動き回って汚れを回収する動作は、映画『移動都市 モータル・エンジン』(2018)が描く、移動して他の都市を捕食して成長する大都市の姿を連想させる。
対立と闘争を想起させる作品の周囲の壁面に展示される「Floating Island」シリーズは、色取り取りのクライミング・ホールドに樹木と小さな家の形を取り付けた作品群である。白い壁を海に、クライミング・ホールドの島々が浮かんでいる。

 グルニエは『孤島』において、ブルトン人の肉屋の話を終える直前に、クックの『航海記』について言及した部分で、物語とは直接かかわりのない、短い思弁的な註記を1つ挿入している。
 いろんな島のことを考えるときに人が感じるあの息づまるような印象は、一体どこからくるのか? それでいて、島のなかより以上に大洋の空気、あらゆる水平線に自由にひらけた海を、人はどこにもつのか? それ以上にどこで人は肉体の高揚に生きることができるのか? だが、人は島îleのなかで、「孤立isolé」する(それが島の語源"isola"ではないか?)。1つの島は、いわばひとりの「孤独の」人間。島々は、いわば「孤独の」人々である。

 グルニエが、ほとんどが肉屋の男と語り手との交流に終始する物語に「イースター島」という謎めいた題を与えたことの秘密について考えるための暗示的なヒントが、ここにあるかも知れない。『孤島』という作品集自体、「ケルゲレン諸島」(インド洋最南部のフランス領群島)「幸福の島」(カナリア群島――サハラ北西部大西洋上――の古名~「イースター島」「ボルロメオ島」(イタリア、マッジオーレ湖のなかの4つの島の総称)といったタイトルの掌篇を中心に構成され、それぞれの掌篇(島)はグルニエが註記した人間の究極的な「孤立」の諸相をさまざまな寓話として描き出している。だとすれば、仲間とともに殺される豚や羊とちがってっった1人で死ぬしかない肉屋の、狂気と死をめぐる救いのない孤独の物語は、まさに大洋上に浮かぶ島々のなかでもとりわけ孤島性の強い、ポリネシアの海の東の最果てに浮かぶイースター島こそがふさわしい物語であるにはちがいなかった。
 だがさらにいえば、グルニエは、島を孤独や封鎖の隠喩として常識的にとらえるだけでなく、島としての孤立によって、かえって人間が肉体の至高の高揚を手にし、あらゆる水平線にむけて自由に開かれた海を持つことができる可能性をも、ここで示唆している。そうだとすれば、肉屋の男の繰り言につき合いつづける「私」は、彼の孤独と虚無への沈潜とを通じて、何か思いがけない風を、人間を新たな誕生の地平へと押し出す膂力を得ていたのかも知れないのだ。島が孤独な人間であり、群島が孤独な人間たちの群像であるならば、そこにはある意味で、分離と再創造をめぐる、人間にとっての始原的な誕生が孕まれた場が存在することになる。
 そうした孤島の、再創造にむけての特権的な意味を直感的に描き出していたのが、ジル・ドゥルーズのエッセイ「無人島の原因と理由」であった。そこでドゥルーズは、洋上に孤立する大洋島を、大陸から分離した後に島が島を自らの原理にそって再創造したときに現われる、再生された「世界」の起源的モデルと見なし、その母胎的性格を「海の卵」と喚起的に呼び替えてもいる。この海の卵で起こる「誕生」は、ドゥルーズによれば「第二の誕生」「第二の起源」であって、それは、第一の誕生が再生産の力を保証されることによって真の生命でありうることを示す、もっとも本質的な誕生の謂なのである。原初的な誕生によって生を得たものが、第二のおのれを再生産したとき、はじめて誕生の意味は確定する。ドゥルーズは、それを「無人島」と呼んだのである。
 無人島がつねに「世界」の「再開」にそなえる、太古からの宇宙卵であるとすれば、人間が絶対的に創造的であろうとしてそこに住みついたとしても、島はなお無人島であり、なおいっそう無人島となる。なぜなら、島の原理はつねに自らを無人島として再誕生させてきたからである。ドゥルーズを敷衍すれば、島とは、つねに人間がそこに新たに居住して何かを生み出していくための野生の土地として認識されているのだ。ドゥルーズは、こう書いている。

島は不毛地であるというよりは、無人化されたものなのだ。その結果、島はそれ自身のなかに最も生き生きとした資源を持ちうる。最も敏捷な動物たち、最も色鮮やかな植物たち、最も見事な食物、最も活発な未開人、最も貴重な島の果実としての漂流者、最後に、彼を捜索しに束の間やって来る船、そういったものすべてを数え上げても、島は依然として無人島である。

 これは、無人島の不毛さ、悲劇的な孤絶を語ったのではなく、新しい「誕生」をうみだしつづける「島」の可能性への、しずかなる宣揚であった。(今福龍太『群島-世界論[パルティータⅡ]』水声社/2017年/p.119-122)

《Space House》、《1戸建てマンション》、《Wandering House》などの住宅ないし《Floating Island》という島は、孤立する人間の姿である。だが、孤立するからこそ、「かえって人間が肉体の至高の高揚を手にし、あらゆる水平線にむけて自由に開かれた海を持つことができる可能性をも」孕んでいると言えるのだ。