可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『小泉八雲 放浪するゴースト』

展覧会『生誕170年記念 小泉八雲 放浪するゴースト』を鑑賞しての備忘録
新宿歴史博物館にて、2020年10月10日~12月6日。

ラフカディオ・ハーン(1896年、日本に帰化して小泉八雲と改名)(1850-1904)の生涯をたどる企画。渡米後のシンシナティニューオーリンズマルティニーク(フランス領)、ニューヨーク、来日後の横浜、松江、熊本、神戸、東京をたどる「遠い旅 放浪への衝迫」と、幼年期・少年期(ギリシャアイルランドイングランド)と「ゴースト」との関わりを紹介する「ゴースト 望郷と幻想」との2部構成。

【遠い旅 放浪への衝迫】
[シンシナティ]
1869年、一旗揚げようと渡米。親戚を頼ってシンシナティに向かったが厄介払いされ、路上生活を送らなければならないほど困窮した。イングランド出身で26歳年長の印刷業者ヘンリー・ワトキンに仕事と寝場所を与えられたハーンは、公共図書館で世界中の文学を読みつつ新聞社に寄稿を続けるうちに記者となる。なお、黒髪のハーンにはエドガー・アラン・ポーの詩に因んで「大烏(ワタリガラス)」の渾名がワトキンによって付けられた。ハーンのワトキン宛ての手紙の数々(複製)が壁に貼られて紹介される。
[ニューオーリンズ]
1877年、マティ(アリシア・フォーリー)との3年にわたる結婚生活が破綻したハーンは何の当てもなくニューオーリンズへ向かう。記者をしつつ、開業した「5セント食堂」は1ヶ月持たずに閉店。それでも次第に文名が上がり、ニューヨークの出版社との仕事も始まる。1884年には初の著書として世界各地の神話・伝説のアンソロジー『異邦文学残葉』(1884)を出版、また同年開催されたニューオーリンズ万博で日本への興味を高めた。
[マルティニーク]
1887年、タイムズ・デモクラット社を退職して作家となることにしたハーンは、取材のためマルティニークへ。約2年間の滞在生活の成果は、ルポルタージュ『仏領西インド諸島の2年間』(1890)や小説『ユーマ』(1890)となって結実する。
[松江]
1890年、バンクーバーから汽船で横浜へ。英語教師として松江へ赴任したハーンは、寒さで体調を崩した際、身の回りの世話をした小泉セツと結ばれる。大雄寺の墓地に纏わる夜更けに水飴を買いに来る女の話(『日本の面影』所収)は、ハーンの母親に対する強い愛情が反転しているようで切ない。
[熊本]
1891年、熊本へ移り、教職の傍ら執筆活動を行って『日本の面影』を出版。1893年、一雄(ラフ「カディオ」に因む)の誕生を機に日本への帰化を決意。
[神戸]
1894年、『神戸クロニクル』紙の記者として神戸に移る。病気をきっかけに記者を辞し、著作に専念。1896年に帰化手続が完了し、「小泉八雲」と名乗る。『古事記』中の最古の和歌「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣に」に因みセツの養祖父が名付けた。
[東京]
1896年、帝国大学文化大学講師として東京へ。市ヶ谷富久町、後に西大久保に住まう。『霊の日本』、『日本雑記』、『骨董』などを出版。1903年帝国大学を解雇されたハーンはアメリカで日本に関する講演を準備する。1904年、早稲田大学に出講し、坪内逍遙らと交流するが、急逝。目の悪い八雲のために特別に誂えられた書き物机、帝国大学での文学史のテスト、避暑で訪れていた焼津の定宿の「乙吉だるま」のエピソード、一雄向けに八雲が制作した教材、片言の日本語「ヘルンさん言葉」による愛情溢れる家族間の私信、遺族により屏風に仕立てられた逍遙の手紙など興味深い品が並ぶ。

【ゴースト 望郷と幻想】
資料がほとんど残されていない八雲の幼少年期を作品の節々から炙り出す。また、その幼少年期の経験こそが八雲の作品の骨格になっていることを示す。

理由なき別離、自暴自棄、突然の孤立、そして、愛着あるすべてのものからの不意の断絶。ここから、漂泊の旅人の履歴が始まるのである。……旅人は感じている、奇妙な沈黙が自分の人生に深く、静かに広がっていることを。そしてその沈黙の中にゴースト(幽霊)がいることを。(ラフカディオ・ハーン〔池田雅之訳〕「幽霊」同『カルマ』)

[ギリシャ]
1850年レフカダ島で英国陸軍軍医のチャールズ・ブッシュ・ハーンとローザ・アントニウ・カシマチの間に生まれた男の子は島の名に因んで「レフカディオス(ラフカディオ)」と名付けられた。一家はダブリンに移り住むが、八雲が4歳の時に母はギリシャへ戻り、母子が会うことは二度と無かった。
[アイルランド]
1854年、母が去るに当たり、八雲は敬虔なカトリック教徒の大叔母サラ・ブレナンのもとに預けられ、彼女の跡継ぎとして育てられることになった。

 まだ子どもだった頃、幽霊たちははっきりと眼に見える姿で、私の前に現れたのです。幽霊たちは音も立てずに部屋中を歩き回り、怖い顔つきをして私を睨みつけました。もうその頃には、母は私の許にはいませんでした。――子どものいない年老いた大叔母がいるだけでした。大叔母は幽霊の話などの迷信を嫌っていましたので、真っ暗な子ども部屋の中で、恐怖に駆られて泣き叫んでも、大叔母は私を鞭で叩くだけでした。でも、私には、鞭で叩かれるよりも、幽霊の方がよほど怖かったのです。――なぜなら、私には、幽霊の姿がはっきりと見えていたからです。(ラフカディオ・ハーン〔池田雅之訳〕1893年12月14日付バジル・ホール・チェンバレン宛書簡)

[イングランド]
1863年イングランドダラム州にある全寮制のカトリック神学校セント・カスバート・カレッジに入学。1866年、16歳で事故で左目を失明。1867年、大叔母が破産したため神学校を17歳で中退する。

[歌]
八雲はニューオーリンズマルティニーク諸島、そして日本において、知識人たちがほとんど関心を示すことの無かった俗謡を積極的に採集した。歌には過去の記憶を呼び覚ます力があり、音楽には異界と交信する霊的な力があるとの思いが八雲にはあったからだ。

 わたしが7歳のときのこの体験を思い出したのは、つい昨日のことであった。わたしは高田村の近くで、われわれ西洋人がSun-flowerと呼ぶのとほぼ同じ意味の名前を持つ花。「ひまわり」を一輪見かけたのだ。「ひまわり」は陽の方に向くという意味である。すると、突然わたしに40年の時空を超え、あのさすらいの竪琴弾きの声がよみがえってきたのであった。

  陽が沈むとき、陽のかたへと面輪を向けるように、
  陽が昇るとき、陽のかたへとかんばせをさし向ける、ひまわりよ

 ふたたび、わたしは遙かウェールズの森に射す木漏れ日を幻視ていた。気がつくと、少女のような顔立ちの、金色の巻き毛のロバートが、わたしの傍らに立っている。あの時、わたしたちは妖精の輪を捜していた。(小泉八雲〔池田雅之訳〕「ひまわり―ロバートの思い出に」同『怪談』)

 [異界]

思うに、生まれ故郷を離れて旅したことのない人は「幽霊」というものを知らずに一生を過ごすのではないだろうか。しかし、漂泊の旅人は「幽霊」のことをよく知っているようだ。漂泊の旅人というのは、文明人のことである。何かの目的や楽しみのために旅をするのではなく、ただひたすらに己の存在につき動かされて、旅に出る人のことである。」(ラフカディオ・ハーン〔池田雅之訳〕「幽霊」同『カルマ』)

八雲のいう「霊的なもの」とは、神秘的なもの、神々しいものという意味合いを超えて人間が「超自然的な存在」に触れたときにわき起こる魂の戦慄あるいは共鳴である。

文学、音楽、彫刻、建築のジャンルを問わず、あらゆる偉大な芸術作品には、霊的なものが宿っている。近代科学の果たした貢献の一つは、これまで物質的で実体があると思ってきたものがすべて、その本質において『霊的なもの』であることを疑問の余地なく証明したことである。たとえわれわれが、幽霊をめぐる古風な物語やその理屈づけを信じないとしても、なお今日、われわれ自身が一個の幽霊にほなからず、およそ不可思議な存在であることを認めないわけにはいかない(小泉八雲〔池田雅之訳〕「文学における超自然的なものの価値」同『小泉八雲東大講義録』)

 怪異を科学的に説明する事に対して反感をいだく人もあるようである。 それはせっかくの神秘なものを浅薄なる唯物論者の土足に踏みにじられるといったような不快を感じるからであるらしい。 しかしそれは僻見であり誤解である。 いわゆる科学的説明が一通りできたとしても実はその現象の神秘は少しも減じないばかりでなくむしろますます深刻になるだけの事である。 たとえば鎌鼬の現象がかりに前記〔引用者註:強風に煽られた木竹片などが高速度で衝突することで皮膚が截断されたとの作者の推論〕のような事であるとすれば、ほんとうの科学的研究は実はそこから始まるので、前に述べた事はただ問題のフォーミュレーション(構成)であってソリューション(解決)ではない。 またこの現象が多くの実験的数理的研究によって、いくらか詳しくわかったとしたところで、それからさきの問題は無限である。 そうして何の何某が何日にどこでこれに遭遇するかを予言する事はいかなる科学者にも永久に不可能である。 これをなしうるものは「神様」だけである。
 (略)
 化け物がないと思うのはかえってほんとうの迷信である。 宇宙は永久に怪異に満ちている。 あらゆる科学の書物は百鬼夜行絵巻物である。 それをひもといてその怪異に戦慄する心持ちがなくなれば、もう科学は死んでしまうのである。(寺田寅彦「化け物の進化」小宮豊隆編『寺田寅彦随筆集 第2巻』岩波書店岩波文庫〕/1947年[1964年改版]/p.200, p.205)

 私が考える「神業」とは、永遠に来ない「終わり」と言うことができます。人間には神をすべて理解することは永遠にできません。しかし、一歩でも神により近づこうとすることは可能です。近づけばまた新たな疑問が湧き、人間は己の無力と無知を思い知らされます。だからまた一歩、神に近づこうという意欲を駆り立てられます。「もう神は必要ない」としてこの無限のいたちごっこをやめてしまうことこそが、思考停止なのであり、傲慢な態度なのではないでしょうか。科学者とは、自然に対して最も謙虚な者であるべきであり、そのことと神を信じる姿勢とは、まったく矛盾しないのです。(三田一郎『科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで』講談社ブルーバックス〕/2018年/p.263-264)