可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 Sabbatical Company個展『OR We are still chatting.』

展覧会『Sabbatical Company「OR We are still chatting.」』を鑑賞しての備忘録
タリオンギャラリーにて、2022年2月19日~3月20日

2015年、杉浦藍・益永梢子・箕輪亜希子・渡辺泰子で結成されたSabbatical Companyの活動を振り返る企画。

照明を落とした展示室の壁面には"O"と"R"を象ったオブジェが設置され、明滅する。その明滅の度に、壁に散らされるようにプリントされた「忘れちゃったり」、「間違えたり」、「知らなかったり」などのフレーズが浮かび上がったり、闇に沈んだりする。スピーカーからは野内俊裕の「鳥になったり 魚になったり」が流れ、そのモティーフの繰り返しが、控え目な明かりと相俟って、落ち着いた環境を作っている。角に設置された台にはSabbatical Companyの活動の記録集と、活動の参考にされた書籍や雑誌が並べられており、会場の中央に設置されたベンチに腰掛けて閲覧できる。書籍の中に、フランツ・カフカの短編集がある。そこに収載された掌編「夕方帰宅してみると」は、Sabbatical Companyの第1回展の題材となった。

 夕方帰宅してみると、部屋の真ん中に大きな、いや巨大な卵がひとつころがっていた。ほとんどテーブルほどの高さで、それに相応した膨らみがあり、かすかに揺れている。私は大いに興味をそそられて、両脚のあいだに卵を挟みこみ、ポケットナイフでそれを慎重に2つに割った。すでに孵化する頃になっていた。殻がくしゃくしゃに壊れて、1羽の鳥が跳び出してきた。見かけはこうのとり風で、まだ羽毛がはえておらず、短い羽をばたばたさせていた。「おまえは我々の世界で何をしたいのか?」と訊きたくなって、私は鳥の前にしゃがみこみ、不安げに瞬いているその目を見た。しかし鳥は私から離れてゆき、足を痛めているかのように半ば羽ばたきしながら、壁に沿って跳び歩いていた。(略)「これがこうのとりの仲間なら」、とそのとき私は思いついた、「きっと魚が好物なのだろう。そういうことなら、魚だって手に入れてやってもいい。もっとも、ただでというわけにはゆかない。私の懐具合では、家で鳥を飼うことなどできやしないのだ。だから、私がそんな犠牲を払うのなら、それと等価の、生計の足しになるようなお返しをしてもらおう。こいつはこうのとりなのだから、ちゃんと成育して私の与える魚で十分に肥えたなら、南方の国々へ連れて行ってもらおう。もうずっと以前から私はあちらの方へ旅行したかった。ただこうのとりの羽がないばかりに、これまでその旅行をしないできたのだ」。すぐに私は紙とインクをもってきて、この鳥の嘴をインクに浸し、鳥からは何の抵抗も受けずにこう書きつけた――「僕、こうのとり風の鳥は、君が魚、蛙、虫でもって(あとの2つの食糧は値段が安いので付け加えた)、飛べるようになるまで僕を扶養してくれた場合には、君を僕の背に乗せて南方の国々へ運ぶ義務を負うことを約束する」。それから私は嘴をきれいに拭ってやり、もういちどこの紙を鳥の目の前にかざしてよく見せてから、それを折りたたんで紙入れにしまった。(フランツ・カフカ〔浅井健二郎〕『カフカ・セレクションⅢ』筑摩書房ちくま文庫〕/2008年/p.36-37)

帰宅した部屋に転がる巨大な卵(=鳥)は、展示室で遭遇する作品のメタファーと解し得る。鑑賞者は作品に向かって「おまえは我々の世界で何をしたいのか?」と問いかけ、「思いつき」を作品に投影してその意図を了解するからである。否、部屋に闖入して「嘴を幾冊かの本のあいだに突っ込んでつつ」(前掲書p.36)く鳥とは、来場して棚の本に手を伸ばす鑑賞者のことであるかもしれない。作家に誘われ、ここではないどこかへと渡る様を想像するからである。

残念ながら、こうのとりの母鳥はいないのだった。もしもこの鳥があれほどやる気でなかったなら、私の授業ではたぶん十分ではなかったことだろう。けれどもどうやら鳥は、私の教授能力の不足を、何ひとつ疎かにしない注意深さと最大限の努力によって補わねばならない、ということをちゃんと悟ったようだった。私たちは、安楽椅子から飛んでみる、という練習から始めた。私が椅子に上がり、鳥が続いて上がると、私は両腕を広げて跳び降り、そのあとを鳥が羽ばたきして追った。その後私たちは机の上へ、最後には戸棚の上へと場所を移したが、しかしいつも、どこからの飛行もすべて、体系的に、幾度も繰り返し練習した。(フランツ・カフカ〔浅井健二郎〕『カフカ・セレクションⅢ』筑摩書房ちくま文庫〕/2008年/p.38-39)

「安楽椅子」、「机」、「戸棚」へと徐々に高度を上げながら、「幾度も繰り返」される飛行訓練には、自然数の無限の連なりを重ねて見ることができる。なおかつ、その飛行訓練が部屋という閉鎖環境で行なわれている点を加味すれば、「自らの胎内から、自らの中に収めることができない差異(剰余)を生み出してしまう」小説の本源的性格が読み取れるのではなかろうか。

 実は、小説の言説もまた、集合論的な隠喩を使うならば、「無限」に関心を寄せているのだ。ただし、科学とは異なった仕方で、である。先にこう説明した。任意の個々の自然数に対して、剰余(後続)が自律的に発生しているように見える、と。小説が執着しているのは、この剰余、個々の自然数をその単一性において把握したときに必ずそれに対応して現れてしまう剰余である。この剰余(後続)こそ、偶有的な出来事に幽霊のように随伴する「他でもありえた可能性」に見立てることができる。出来事の具体性・特異性に注目すればするほど、その偶有性が、しがたって「他でありえた」という潜在性が際立って見えてくる。同じように、個別の、それぞれに特異な自然数に注目しなければ、それが剰余(後続)に開かれているという事実が認識できない。自然数の全体を閉じられた無限集合として把握したときには、この開放性は見失われるだろう。(略)
 (略)
 ここでの要点は、無限集合に対しても、必ずその中に回収されない剰余が発生する、ということだ。無限集合を明確に限界づけられた閉じた対象と見なすことができる限りにおいて、科学の言説はそれを対象として認識することができる。そこから逸脱する剰余は、科学の言説にとっては存在しないに等しい。それは、科学の言説の記述の守備は二を超えている。この剰余は、極大の偶有性、過剰な偶有性に対応する。宇宙の基本法則、確率の計算において前提になっているような法則さえも否定するような、「他なる可能性」を含意する、極端な偶有性だ。
 科学の言説の視野から外れるこの偶有性は、しかし、小説の言説にとっては、なお基本的な主題そのものである。われわれは、それぞれの自然数が、不可避的に剰余(後続)を呼び寄せるという数学的事実を、偶有的な出来事には常に「他でもありえた可能性」が潜在的に随伴するという構成に、つまり小説のすべての関心が差し向けられている事実に、対応させたのだった。この類比的な対応を維持し、そのまま延長させていけば、対角線論法から導かれる「無限集合に対する剰余」もまた、小説にとっては目を離すことができない対象と解釈しなくてはならない。というのも、ここでは詳しく解説はしないが、対角線論法は、結局「どの自然数にも後続がある」という性質の特殊な応用に基づいているからである。どの自然数も「他」(後続)を発生させるのと同じように、無限集合もまた、言わば自らの胎内から、自らの中に収めることができない差異(剰余)を生み出してしまう。その差異も、いやこの差異こそとりわけ小説的な対象である。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇1 〈主体〉の誕生』講談社/2021年/p.586-589)

展示室内で明滅する"OR"が照らし出すのは、「忘れちゃったり」、「間違えたり」、「知らなかったり」などといった言葉であり、それは「偶有的な出来事に幽霊のように随伴する「他でもありえた可能性』」である。展示空間という「胎内」において、"OR"が「自らの中に収めることができない差異(剰余)」を生み出し続けている。展示空間自体が小説であったのだ。