可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 和田礼治郎個展『Market and Thieves in a Cloister』

展覧会『和田礼治郎「Market and Thieves in a Cloister」』を鑑賞しての備忘録
SCAI THE BATHHOUSEにて、2022年5月31日~7月9日。

和田礼治郎の個展。

展示タイトル「Market and Thieves in a Cloister」は「ある修道院における市場と泥棒たち」と訳せる。同型のガラス製ケースを5段重ねた《FRUIT MARKET(CASE)》(400m×285mm×485mm)、マガジンラックのような椅子型の真鍮製陳列棚《FRUIT MARKET(STALL)》(1400m×1400mm×700mm)、ドイツのフリー・マーケットで一般的な販売ブースを真鍮で模した《MARKET》(2450m×3400mm×2000mm)は市場を、4台用の黄色い自転車スタンドにチェーンで固定された車輪が2つだけ取り残された《BICYCLE》(1260m×1020mm×700mm)と車のボンネット《UNLICENSED》(1400m×1300mm×150mm)は泥棒たちの存在を、それぞれ表わす作品のようである。それならば、展示会場であるギャラリーが、俗世と距離を置く修道院ということになる。

展示空間の中央辺りに梁からロープで吊された《MONKEY BANANA》(600mm×300mm×200mm)は、ゴツゴツした黒い枝先に1本だけ残された金色のバナナが輝くブロンズ作品。白い壁を背景に黒い枝が垂下がる様子は水墨画に比せられる。金色に輝くバナナを三日月に見立てれば、題名と相俟って猿猴捉月図と解釈できる。

 2019年12月、アート・バーゼル・マイアミビーチに出展したペロタンのブースに〔引用者補記:マウリツィオ・〕カテランは「Comedian(コメディアン)」と題するオブジェを出品した。ただのバナンを灰色のダクトテープで壁に貼り付けただけの作品である。価格は1本、もとい1点12万ドル。2点が瞬く間に売れ、エディションナンバー3は15万ドルに値上げされたが、某美術館が購入し、ほかにも引き合いがあるという。
 驚くべき値で売れたばかりか、会期中に思わぬことが起こった。アーティストのデイヴィッド・ダトゥーナがダクトテープを壁から引き剥がし、バナナの皮を剝いてむしゃむしゃと食べてしまったのだ。世界有数のアートフェアとあって、会場には多数の訪問客がいた。ダトゥーナは「これはアートパフォーマンス『ハングリー・アーティスト』だ」と述べ、「とても美味しい」と話しながら悠々と動画映像に収まった。
 ペロタンによれば、バナナは地元マイアミのスーパーマーケットで調達されたもので、バナナ自体の形も壁に貼り付ける角度も「慎重に検討されている」。「裸の王様の新しい服」と揶揄する声もあるが、ペロタンは「コレクターは着想を買い、証明書を買う」と主張して憚らない。アンディ・ウォーホルの「キャンベルのスープ缶」に比す声もあって、これがなぜアートなのかを論じるのは面白いだろうが、ここではこれ以上触れない。(小崎哲哉『現代アートを殺さないために ソフトな恐怖政治と表現の自由河出書房新社/2020年/p.35)

マウリツィオ・カテランの《Comedian》は、地元のスーパーマーケットから、社会とは隔絶した(cloistered)アートフェアの会場にバナナを「輸出」することで交換を通じた剰余価値を手に入れることができたと言える。

 交換を通じて剰余価値をもたらす方法はひとつしかない。安く買って高く売ること、これである。ということは一種の詐欺なのか。もちろんそうではない。この方法を正当に、あるいは合法的に実現できれば、剰余価値を獲得することができる。実際、本格的な資本主義が始まる前からあった資本、商人資本は、この方法をあからさまに活用することで儲けてきた。商人資本とは、ある地域で安く仕入れた物を、そこから遠く隔たった場所で高く売る者のことである。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇1 〈主体〉の誕生』講談社/2021年/p.374-375)

デイヴィッド・ダトゥーナなるバナナ泥棒の存在も相俟って、カテランの《Comedian》は、「Market and Thieves in a Cloister」に通じるものがある。翻って、《MONKEY BANANA》のバナナに手を伸ばすべきではない。そこには、猿猴捉月の教訓が含意されているのだ。

壁面に展示された《VANITAS》(2010mm×2010mm×20mm)は、真鍮板の間に生の果物を投げ入れ、その腐敗の痕跡が緑青などとして浮かび上がった様子を提示した一種のデカルコマニー。赤錆や緑青の垂れや飛散が抽象的なイメージを形作っている。タイトルに《VANITAS》を冠しており、フランツ・カフカの「変身」で、毒虫になったグレゴール・ザムザが父親からリンゴを投げつけられたことを想起せざるを得ない。《VANITAS》の傍らに設置された《MEMENTO MORI》において、鉄筋コンクリートのブロックの穴の中に閉じ込められた柘榴もまた、部屋に幽閉されたグレゴールを連想させる。

 (略)――するとそのとき、何かが彼のからだすれすれに投げつけられ、目の前に落ちて転がった。1個の林檎だった。と見るまに2個目が彼にむかって飛んできた。グレゴールは恐怖のあまり、立ちすくんだ。彼を砲撃しようと父親が決心してしまったのでは、これ以上這ったところで仕方がない。父親はサイドボードの果物鉢から両ポケットにぎゅうぎゅう詰めこんで、ろくに狙いもさだめず、林檎を次から次へと投げはじめた。これらの小さな赤い林檎がみな、電気仕掛けのように床を転げまわり、互いにぶつかりあった。ゆるく投げられた1個の林檎がグレゴールの背中をかすり、怪我にはならずに滑り落ちた。そのすぐあとを追って飛んできた1弾が、今度はきっちりグレゴールの背中にめりこんだ。このとつぜん襲ってきた信じられないような痛みも、場所さえ移動すれば、消えてなくなるものと信じているかのように、グレゴールはさらに這いずっていこうとした。ところが彼はその場に釘づけにされたように感じ、全身の感覚が麻痺して、へなへなと伸びてしまった。(カフカ山下肇・山下萬里〕『変身・断食芸人』岩波書店岩波文庫〕/2004年/p.72-73)

壁面に掛けられた《AMBAR MIRROR HORIZONTAL》(240mm×2400mm×30mm)は、金色のフレームで囲ったガラスの中にブランデーを満たし、琥珀色の鏡面とした作品。横に長い鏡面は会場(の全ての作品)を映し出している。金色のフレームの中に世界が封じ込められていると言えよう。鏡像がブランデーによって生み出された世界であることを踏まえれば、「壺中の天」を表わした作品と評して差し支えない。