可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 岩崎奏波個展(2026)

展覧会『project N 101 岩崎奏波』を鑑賞しての備忘録
東京オペラシティ アートギャラリー〔4Fコリドール〕にて、2026年1月21日~3月29日。

樹木や草、蝶や鳥、獣や蛇といったモティーフの鏤められる絵画と、鍵穴を持つ虫など陶器とで構成される、岩崎奏波の個展。

 無音の文字は多弁だ。文様の特徴は反復でありリズムである。人間にもっとも身近なリズムは呼吸であり鼓動である。鼓動は制御できないが、呼吸は制御できる。呼吸の制御が話し言葉である。文様は話し言葉をもちながらなお無言の集中力を示すものの存在を思わせずにおかない。文様と文字が重なる瞬間である。
 写真は話さないが、膨大な意味を秘めている。読み取ろうとするやいなや、雄弁に語りはじめる。土器に施された縄文は写真に等しいといっていい。縄文土器も写真と同じように文字の側面をもっているのである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.205)

《ちょうのいる部屋》(1620mm×1940mm)[23]には、草原に立つパオ(?)に蝶が群れ、その周囲を見張る獣が描かれる。3つの眼であり3つの頭を有する訳ではないが、ケルベロスを思わせる。ならばこの地は冥府であり、蝶は魂だろう。草原には結界があり、その周囲は赤い川ないし土地に囲まれている。《遥拝》(1620mm×2273mm)[22]は深緑の画面に家の形が記号的に表わされる。「家」の右側から左側に囲うようにヤシの木が折れ曲がり、「家」の下にはm字状の獣が控える。左側には翼を拡げた鳥が飛ぶ。ヤシの木、鳥、獣は鎖のようなものが巻き付いて繋がる。描かれているのは、ケルベロスにより守られる、鳥が運び込んだ魂が住まう「家」、すなわち「ちょうのいる部屋」ではないか。ならば死者の魂を「遥拝」する作品となる。

《火の子ども》(1303mm×1620mm)[02]は、上半分に翼を拡げた鳥、下半分に土偶のような半円筒形の人物陶彫を表わした作品。青白い中に黄味を帯びた光の鳥はアルタイルをその名の由来である空飛ぶ鷲に具象化したものであろうか。左方向に吹き流されるようで、左上に位置する頭部は右を向き、尾羽も右に流れる。内部には、複数の目らしき形などがオレンジ色で配される。人物陶彫は半円筒形に顎に向かい窄まる球の頭部と把手のような両腕と取り付けたような形態。右に傾げた頭部があり、横たわるように水平に描かれる。下半身に大きく表わされた睫毛のある眼は女性器でもある。端から植物が胸に向かって伸びる。蔓植物や蝶、星などが周囲に鏤められる。鳥の一部は目=女性器に重なっている。大地から天上の星(「火の子ども」?)が生み出されたという神話を描くようだ。

 問題は、霊にせよ、呪にせよ、自然の仕組そのもの――たとえば眼の仕組――に支えられているということなのだ。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.227)

《同じ船に乗っている》(1455mm×2240mm)[03]には、縁を白く残しつつ、オレンジにエメラルドグリーンを重ねた地に、7本の脚を持つ獣、頭を抱えるように立つ人物、人物頭部、樹木、杏仁形の池などが配される。池は目でも女性器でもある。画面下半分にいるのは横に長く延びる胴を持つ7本脚の獣。右上に杏仁型の池を縦に表わし、右の岸に5本の樹木がほぼ均等に配される。その左側には頭を抱えて立つ人物がいる。ギュスターヴ・モロー[Gustave Moreau]や『月映』の作家たちの人物を想起させる陰鬱さがある。画面の左端と右端上には大小の似たような樹木が立つ。左の樹木の右側にはお下げの頭部が横たえられる。他にも池や草木が見られる。池≒目≒女性器から白い線が伸びる。獣を囲うように下に向かってから左へ。画面は中央で切断されており、白線は左画面では中央から左に伸びる。獣の頭の前で雫を垂らすのは、乳であることを示すようだ。白線は左端の樹木を迂回して人物の頭部へと到る。切断は却って接続を強く喚起させる。「同じ船に乗っている」とは、全ては繋がっているということだろう。

 すべての生きものはある意味で、形態から形態、主体から主体、実存から実存へとうつろい続けるような1つの同じ身体、同じ生、同じ自己である。この同じ生とは惑星を生気づける生であり、惑星もまた生まれ、既存のコール(身体=天体)―太陽―から逃れ、45億年前に物質的なメタモルフォーゼによって生み出された。わたしたちはみなその小片であり、閃光である。先行する数えきれぬ存在のなかで生がなしたこととは別の仕方で生きようとする、天体的物質でありエネルギーである。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.22)

《こわれたもの―胴―》(1120mm×1455mm)[05]の暗緑色の画面には、土偶「仮面の女神」や星形土偶を彷彿とさせるモティーフが表わされる。画面の下側3分の2に横倒しの「土偶」がある。右側に器のようになった頭部、首を介して繋がる胸部からは左右に腕が伸び、細い腹部に続く腰からは3ツ又の脚となる。右手、3つの足からは炎が噴き出す。左手は欠損し、目や植物の形が施された灰白色の器面には罅も入る。「土偶」の周囲は植物や蝶、人頭(あるいは男性器)や杏仁型(目あるいは女性器)の池がある。画面上端には胴の長い獣の姿が見える。《こわれたもの―頭―》(1455mm×1120mm)[04]は、植物が点在する中、暗緑色の画面にドレッサーを描いた作品。黄土色の化粧台には花を活けた花瓶、水を張った中に魚を入れた皿、倒れて水を溢す瓶、画集などが置かれ、背後の割れた鏡に映る。瓶から溢れた水は鏡台の周囲を巡り、池へと注ぎ込む。循環する水は生命の象徴である。蝶を黒い鳥が捕まえ、鏡の欠損した部分へと飛んで行く。鏡の向こうは死者の世界である。鳥が魂の象徴である蝶を死者の世界へと運び込むのである。《こわれたもの―脚―》(1120mm×1455mm)[06]は、欠損した車輪とヤシのような樹、水の循環を暗緑色の画面に表わした作品。右側に、輪も車軸も欠損した木製の車輪が描かれる。その周囲を4、5本の葉を繁らせたヤシらしき樹木、水溜まりと水路のよなものが覆う。「こわれたもの」三部作は、エントロピーの増大に抗すべく生物個体が新陳代謝すること、また生物が種の多様化により生命を繋いできたことを神話的に表現した作品である。
《穴についての三部作―穴に入るイヌとちょう―》(606mm×727mm)[09]には、緑の大地に穿たれた穴に入り込もうとする、3本脚の獣「イヌ」の姿が表わされる。茶色い毛に覆われた「イヌ」が頭を挿し込もうとしている穴は女性器と目される。ならば「イヌ」は男性器であろう。「イヌ」の周囲には白い紡錘形に青い菱形の模様を持つものが7つ取り囲む。目でも陰裂でもある。ヤシのような樹木は男根であろう。《穴についての三部作―穴のあいたちょう―》(606mm×727mm)[10]では「イヌ」に代わりヤシのような木が描かれ、扉ないし鍵穴の中にいるチョウに樹冠を向ける。チョウに穴が穿たれているのは、男根が鍵穴を貫くこと、即ち交合の象徴であろう。《穴についての三部作―弾痕のある地下室とちょう―》(606mm×727mm)[11]には、緑の大地に穿たれた穴に入り込んだ人物とチョウとが描かれる。穴は眼の構造図に類似するのは、作家が眼と女性器とを同一視するからであろう。本作では、蹲る人物を配することで眼=穴を子宮として表現している。お下げは臍の緒であり、生命を象徴するチョウと繋がり、膣から出て宇宙へと繋がる。「穴についての三部作」は有性生殖の神話的表現と言えよう。

 思想家ヴァルター・ベンヤミンは、人間の「類似」を認知する感性的能力を論じた重要な論考「ミメーシス(模倣)の能力について」(1933)のなかで、模倣の能力の発生について論じています。そこでベンヤミンは、文字以前の人間の文化が、「内臓」を読み、「星」を読み、「舞踏」を読むことからはじまった、と書いています。「内臓」を読むとは、人類がみずからの内臓感覚を、生命記憶の源泉として意識することを指します。古い人類は洞窟のような暗闇の空間に入り込むことによってこの内臓感覚を外化し、そこでさまざまな呪術的儀礼を行っていました。旧石器時代の人類が世界のさまざまな場所にのこした洞窟壁画とは、当時の動物の形態を洞窟の壁面に模写することを通じて野生の世界へと浸透し、自然の一部としての自己を確認し、この外化された内臓(=洞窟)のなかにみずからの生命体としての記憶を刻印してゆく行為だったのです。まさにここで「ミメーシス(模倣)」の能力の発露が、人類最古の芸術的形象を生み出していったのでした。(今福龍太『宮沢賢治『デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019/p.80)

《鳥の塔》(1620mm×1303mm)[01]は翼を拡げる鳥が炎に包まれる中に表わされる。鳥は素朴な陶彫のような単純化された形態で中央に立つ。上部に上を向いた頭が小さく表わされるのは、鳥が塔であり、尖端が見上げた先にあるかのように高く見せるためだろう。鋭角三角形に切り開かれた胴部には光の球の列が覗く。左右に拡げられた翼はだらりと垂れるよう。鳥の塔の周囲には炎か取り巻く中、植物が点在する。鳥の塔は落雷であり、山火事を引き起こし、古い木々を焼き尽くすことで新たな草木が生えるのを促す。死と再生のシンボルなのだろう。