展覧会『中田日菜子個展「飼育」』を鑑賞しての備忘録
Artglorieuxにて、2024年11月21日(木)~27日。
アオダイショウ、ニシキヘビ、カイコなど生き物、メロン、ミカン、バナナなど果物、シャクナゲなど植物をモティーフとした絵画を中心に構成される、中田日菜子の個展。題名の「飼育」は、アオダイショウやカイコを作家が飼育していることに因む。
軸装された《青蛇》(392mm×505mm)でも右側から進んできたアオダイショウが画面左側で右方向へと向きを変え、画面中央やや右手に少々擡げた頭が位置する。箱のような額に収められた《トグロを巻く》(455mm×652mm)や《Paul》(333mm×530mm)ではニシキヘビが蜷局を捲く姿が薄闇に紛れるように描かれる。いずれも薄墨を刷くことで陰影が施されているものの、抽象的な空間が拡がり、蛇だけが描かれている。
《飼育―アオダイショウ》(632mm×1060mm)では、主に輪郭線による簡略化された表現ながら、左側に水槽、右側に半分に割った植木鉢を伏せたようなアーチ状の遊び場(?)とが配され、その中をアオダイショウが左から右へとくねくねと曲がりながら抜けて行く様が表わされる。植木鉢のアーチ(?)が山、水槽が水であり、文字通り蛇行する蛇は流れ、時間、延いては人の象徴であろう(なお、作家の時間、変化、生命というテーマに対する関心は、カイコの幼虫から眉を形成し蛾となる過程を描く《蚕図 A》・《蚕図 B》からも明白である)。言わば変種の山水画である。中央右手には飼育ケースのガラスの扉を表わす線が縦に入れられ、扉を閉じる鍵が描き込まれている。山水画の桃源郷は、全てが管理された人工環境であるユートピアへと転じている。東洋思想に西洋思想が接ぎ木されているのである。
《飼育―アオダイショウ》と対となる作品《野生―アオダイショウ》(632mm×1060mm)には地面に落ちた枝葉の中をアオダイショウが右から左方向へと抜け、再び右方向へ転じる。野生へと放たれた蛇は飼育下を懐かしむ。
左右にやや重なるように並べた2つのアールスメロンを描き出した《メロン》(455mm×530mm)は、果皮の網目が主題の作品である(一方を半分に割って中身を描き出す《アールスメロン》も併せて展示されている)。皮、模様という点で蛇に通じるだけではない。メロンの表皮全体に細かく均一に入ったコルク層の網目は人工環境で生育したことを表わす。すなわち、メロンは「飼育」という点でも作家の描き出す蛇に通じるのである。
皮を半ば剝いたバナナ2本を描いた《バナナ》(242mm×333mm)は、シュガースポットの浮いた皮、その形状から蛇に通じることは言を俟たない。男根のメタファーとされる点でも両者は共通する。左耳にいくつものシルバーのピアスを通した女性を描いた《ピアス》(455mm×273mm)、あるいはいくつかピアスを外したその耳の周囲をクローズアップした構図の《hole》(455mm×380mm)と相俟って、性的な含意を読み取ることは十分に可能である。穴は陽に対する陰のメタファーであり、陰陽とは宇宙を説明する概念でもある。そもそも東洋では宇宙を創造した伏羲と女媧とは蛇身人首ではなかったか。ここで、最近オークションで高値で取引されたことで改めて話題となったマウリツィオ・カテラン(Maurizio Cattelan)の《コメディアン(Comedian)》にご登場願おう。壁にダクトテープで貼り付けられたバナナ《コメディアン》は十字架上のキリストに擬えることが可能である。そしてキリストは復活する。蛇は脱皮により再生のイメージが重ねられる。作家が《バナナ》において皮を剝いたのは、脱皮を表わすためではなかろうか。そして、2本目のバナナは、文字通り複数性≒複製であり、再生を暗示するのである。やはり東洋思想に西洋思想が接ぎ木されているのである。
絹や箔の光沢、裏からの彩色による淡さを活かしたイメージはもとより、飼育ケースのような額を始め作品を飾る布地など額装・軸装のデザインも楽しい。