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芸術鑑賞の備忘録

映画『さくら』

映画『さくら』を鑑賞しての備忘録
2020年製作の日本映画。119分。
監督は、矢崎仁司
原作は、西加奈子の小説『さくら』。
脚本は、朝西真砂。
撮影は、石井勲。
編集は、目見田健。

東京の大学に進学した長谷川薫(北村匠海)が大阪の実家に戻ってくる。2年前に蒸発した父・昭夫(永瀬正敏)から年末に戻るとの手紙を受け取ったのだ。実家の前にある眼下に町を見晴らせる坂道で、記憶が甦る。妹の美貴(来夢)と一緒に生まれたばかりの子犬を見に行って、隅に隠れていた弱々しい一匹を自分(高橋曽良)が選んだこと。その一匹にはしなやかさと強さが兼ね備わっていると見抜いて選んだこと。帰り道、犬を欲しがったのは自分なのに選ぶことができなかった美貴がふてくされていたこと。兄の一(佐藤大志)がユニフォーム姿で出かけるところでこの坂道で出くわし、美貴が機嫌を直したこと。子犬を抱えた美貴が地面に落ちていた桜の花びらを見付けたこと。そして、その花びらを産んだのはこの子犬だと美貴が「さくら」と名付けたこと。自宅の玄関を開け、靴を確認して庭に回る。犬小屋を見て母つぼみ(寺島しのぶ)に声をかける。さくらは? 父さんが買物に行くのに連れて行ったのよ。まずは私に元気にしてたとか声をかけるものじゃないの? 美貴(小松菜奈)が出てきてバスケットボールをゴールに投げ込む。晩ご飯は? 鍋にするって。突然帰ってきて決めちゃうなんて勝手よね。ゴールを通過したボールが鉢植えの脇に転がる。父が戻る。一言も交わすこと無く父からリードを受け取ると、薫はさくらを散歩に連れ出す。夜、食卓で鍋を囲む4人。ビールをついであげなさい。無言で食べる薫に母が声をかける。薫は無言で父のグラスにビールをつぐ。溢れたビールが服を汚す。もう、ビールの汚れは落ちないのよ。母が愚痴をこぼす。翌日、薫に美貴が声をかける。餃子、作るよ。父は初めてのデートで母を中華料理店に連れて行った。日本一美味しい餃子の店だと言って。父は母に頻りに餃子を勧めるが、母は決して口を付けなかった。母は心の中でこの人と気兼ねなく餃子を食べられる関係になるのだと決めていた。二人の間に子どもができた。母は父との結婚を沢山の餃子で祝った。以来、一家は、節目節目に餃子を作って食べてきたのだ。餡と皮の用意されたテーブル。美貴が嬉しそうに梅干しや調味料とともに正露丸を持ってくる。まさか包むつもりか? 自分だけ分かるようにしようとしたって無駄よ。父は、かつて、運送会社で車両管理業務に当たり、運行ルートの指示を行っていた。父に知らない道など無かった。兄の一(吉沢亮)は端正な顔立ちの優れた野球選手だった。薫は、兄を慕う女の子からラブレターやプレゼントを代わりに渡して欲しいと頼まれたこともあった。ヒーローである兄の背中を追って薫は成長してきた。妹が生まれるときには、兄とともに花を探しに行って、警察の厄介になったこともあった。狭い家で暮らしていたが、それほど稼ぎがあったとも思えない父が今の家を手に入れたのは、妹が両親の夜の営みに気が付くようになったからかもしれない。幼い美貴は、自分の部屋を与えられても兄と一緒でなければ寝ようとしなかった。兄は妹が寝付くまでは一緒にいて、それから自分のベッドに移っていったものだった。兄が初めて彼女を連れてくるという日は両親がそわそわして、何故か薫はさくらを洗わされることになった。彼氏の家を訪れた女の子は犬を可愛がるものだとかいう理由で。現れた矢嶋優子(水谷果穂)はとても美人だけれどどこか淋しげな人だった。美貴は部屋に籠もって姿を現さなかった。

 

長谷川薫(北村匠海)の視線で、兄の一(吉沢亮)と妹の美貴(小松菜奈)を描く。
原作を未読のため、映画と原作との相違については不明。
俳優陣、皆素晴らしいが、小松菜奈が出色。美貴を小松菜奈に演じさせた時点で作品の成功は約束されていた。その姿にはひれ伏す他ない。

 

以下、作品の核心部分にも触れる。

犬のさくらが表すのは本能あるいは欲望に従った生き方。さくらの食事中の放屁という「マナー違反」を描写するのは、生理現象のように欲望を抑えられない存在であることを象徴する。そして、欲望に従った存在としてのさくらは美貴の分身である(とりわけ葬儀の際の失禁は強烈にその同質性を訴える)。美貴は社会規範として否定される兄に対する愛情(欲望)を抱いているからだ。他方、兄の一は自分の前に敷かれた「王道」を真っ直ぐに歩んできた人物。ところが、妹からの恋慕という「変化球」を投げつけられ、対処しなくてはならなくなった。成熟していく妹に自分の手を握らせたままにしておくわけにはいかない。クルミのように自分の代わりとなる何かに目を向けさせなくてはならない。一は恋人を作り何とか「正常な」ルートを歩もうとする。恋人との通信を妹が阻害していることに気が付くが、そのような「変化球」を打ち返すことができない。そこで一は家を出ることで問題を回避する。ところが、帰省した際、一は性的に成熟し色香を発散する美貴に遭遇してしまう。一は美貴を避けようとするが、もはや問題を先送りすることはできなかった。美貴は「暴走するタクシー」となって一に「デッドボール」を食らわせることになる。
父の昭夫は道路について詳しいが、道路の走っていない場所には対応できない。娘・美貴の兄・一に対する愛情という「道ならぬ恋」を前になす術が無かった。結果、一の自死という最悪の結果を招き、その責任の重さに耐えきれず、逃走する。さくらに異変が起きたとき、以前にさくらを診てもらった動物病院に向かおうとする。だがその病院は既に潰れていると妻のつぼみから知らされる。昭夫は変化に対応できない。昭夫は頭の中にある地図を頼りに、虱潰しに動物病院を訪ねて回る。だが道路(社会規範)の先には(開いている)動物病院(解決策)は存在しない。赤色信号灯無視等の暴走行為により警察車両に追尾され、一家は警察車両で連行される。ここに至って、社会規範の枠内で処理できない問題(本能あるいは欲望に従った生き方)にようやく向き合うことになるのだ。
社会規範や常識の枠内に存在する者が、それらから外れている者に向ける眼差し。その眼差しに問題はないのか。意図せず、知らず知らず枠からはみ出したとき、自らの眼差しがブーメランとなって帰ってきて初めて、その冷酷さに気が付く。子どもたちから異常者として排除される「フェラーリ」、あるいは同性愛者のカオルや溝口に正面から向き合うのは、常に対応を変えることのない美貴=さくらだけだ。