可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 寺本愛個展『coastline』

展覧会『寺本愛「coastline」』を鑑賞しての備忘録
FARO Kagurazakaにて、2021年4月10日~5月22日。

寺本愛の絵画「coastline」シリーズ7点を、比較的大きな画面の3点と、比較的小さな画面の4点とに分けて2室に展示。

《coastline #3》は、無地の画面の右側に、ヤシの木のデザインされたアロハシャツを着た短髪の女性の、右斜め前方向から捉えた胸像を、画面の左側に、背後から短髪の女性の右肩に手を掛ける、キャミソールの長髪(両耳に花のピアス)の女性の肩から上を描く、モノクロームの絵画。2人が立っているのか、あるいはキャミソールの女性の膝にアロハシャツの女性が乗っているのかは分からない。2人ともサングラスをかけているが、短髪の女性の濃度は低く、3つの瞳を持つ目が透けて見えるが、長髪の女性のサングラスの濃度は濃いために目は窺うことはできない。髪や耳の詳細な描き込みに対し、鼻・口や顔・首などの輪郭は細い1本の線のみでシンプルに表している。
《coastline #9》は、木製の柱や電灯のスイッチと配線コードなどからやや古い家屋の室内を舞台にした作品と知れる。画面手前にあるテーブルのラップトップとスピーカーが置かれた位置に座る、サングラスを掛けた、ストライプの半袖シャツの人物は、両腕を挙げて左に傾けている。テーブルにはビールの缶なども置かれていることから、酔って音楽に合わせて踊って戯けているのだろう。画面左端にはフルーツの柄のアロハシャツを身につけた人物が、ストライプのシャツの人物の髪に花を留めようとしている。その右、ストライプのシャツの人物の背後には、缶ビールを左手に持つ、ピンドットのシャツを着たサングラスの女性が微笑んでいる。その女性の右隣には、サングラスを身につけた、白いシャツの小柄な男性(男の子?)が真面目な表情を見せている。画面右端には葉の柄のアロハシャツを身につけた女性が笑みを浮かべて手拍子をしている。画面右手前には、アイスキャンディーを右手に持つ女性の両手だけが覗いている。モノクロームの作品だが、画面の傍に近づくと、人物の輪郭線が黒・緑・赤の3色を繫いで描かれているのに気が付く。
《coastline #5》は、ハンバーガーチェーンの店外に設置されたクラウンの人形の左側に立ち、その右肩に手を置いて微笑む少女の肖像画。背後にはスモークガラスなのか、屋外と屋内との明暗差によるのか、黒いガラス越しに、カウンター席に腰掛ける女性(隣に座る男性の方を見ている)や、テーブル席に座る太った男性、奥のカウンターで作業している店員の背中などが透けて見えている。モノクロームの画面の中で、少女のワンピースだけがくすんだオレンジとクリーム色で着彩されている。上下左右に異なる幅の余白がとられることで、画面中央から左斜め上にずらされたように見える。画面全体の6割程度の面積を持つ画中画のようであり、しかもその下部からは黒い墨が垂らされている。他方で、画面全体に小さな金の星のシールを格子状に貼ることで、全体が一体感を持つように工夫されている。

《coastline #8》には、無地の画面の中に枠が描かれ、その中に前方を見据える2人の女性の横向きの立像が描かれている。左側(奥側)には、白いシャツにくすんだ青と紫の格子柄のスカートを身につけ、頬被りした女性を、右側(手前側)には、帽子を被り、白いシャツに水色のストライプのスカートの女性を描いている。輪郭線が赤、黒、灰色を用いて表されているのが特色で、とりわけ2人の白いシャツを描き出す赤い線が印象的。スカートの柄が皺によって変化する表現も丁寧に描き込まれている。
《coastline #6》には、袋文字で表された"BLUE SEA"(上側)、"BANANA"と"KISS"(右側)、"CORAL"(下側)、"PEARL"(左側)が枠のように配され、その中にそれぞれが後ろで手を組んで立つ2人の女性の肖像が描かれている。左側には、モスグリーンのワンピースを身につけた三つ編みの女性を、右側には白いシャツに、黒地に花を散らせたスカートを合わせ、グレーのカーディガンを羽織ったパーマの女性を表す。2人とも左斜め前から捉えられ、ワンピースの女性に対して、カーディガンの女性が上下ともに大きく描かれており、なおかつ枠となる文字に2人の女性の頭部がかかる(右の女性は足も文字にかかかる)ことで、右手前に向かって飛び出してくるような立体感が画面に生まれている。
《coastline #2》は、無地の画面に、ストライプのシャツを着た短髪の女性を右斜め前から捉えた胸像。女性は左手で口の辺りを覆う。目の周囲、花、口、耳、顔の輪郭、首、手など皮膚を表す部分の輪郭線は、1本の線で表す他の作品と異なり、何本もの線が重ねて引かれ、ブレている様子を表現している。
《coastline #7》は、無地の画面に、ミュールを脱いで、前屈して自分の足首を触っている、キャミソールとミニスカート(黒地に白と緑の花柄)の女性を描く。パールのピアス、ペディキュアの緑、ミュールのクリーム色がアクセントになっている。

"coastline"すなわち海岸線は、皮膚のメタファーである。「私たちは自分の皮膚との関係において、自らの身体や所有物、他者、そして身近な環境を感知するの」であるが、島を囲う「自然の境界」すなわち「海岸線」は、体を閉じ込める皮膚のアナロジーであるからだ。

 (略)フロイトは、幼児がまわりの環境を口腔によって経験することで子ども時代を過ごしており、欲しい物を口に入れてみるのだ、と言う。ディディエ・アンジューはこの考えを拡張して、赤ん坊が世界とそこで自分の場所を理解するのは、自らの皮膚を通して、それが大人になって「皮膚的自我」となり、私たちは自分の皮膚との関係において、自らの身体や所有物、他者、そして身近な環境を感知するのだと論じる。我々は大人になっても、自分の身体の内と外にそれぞれ何があるかによって、無意識のおのれの宇宙を組みたてるのだ。成長するにしたがって、私たちは文化によって訓練されることで、このような取り込み衝動から直接に表現したり行動したりすることはなくなるけれども、私たちの身体と世界に対する精神的な理解の底には、そのような衝動がつねにあり続ける。(略)
 (略)
 (略)島は確固たる周囲と自然の境界に囲まれているという性質ゆえに、皮膚に閉じ込められた体という認識を反映することができ、それゆえ作者も読者も自らの身体を所有するように、島を支配し所有する幻想を自然に抱くことが可能となるのである。(レベッカウィーバー=ハイタワー〔本橋哲也〕『帝国の島々 漂着者、食人種、征服幻想』法政大学出版局〔叢書・ウニベルシタス〕/2020年/p.18-19)

《coastline #2》の女性の皮膚(=輪郭)は、潮の干満によって姿を変える海岸線のように、何本もの線によって表されている。髪の毛やシャツの線のシャープな線に比して、あるいは作家の他の作品に見られる、これ以外にないと引かれた1本の線に対して、複数の線は強く印象づけられる。ところで、作家の描く人物を特徴づけるのは3つの瞳である。本作では右に3つの瞳、左に2つの瞳が描き込まれている。これは、女性の顔を右斜め前から捉えたという角度の表現であろうが、左右で異なる瞳の数に、変化、すなわち時間を読み取ることもできよう。そして、海岸線を変化させる潮の満ち引きをもたらすものが月の引力の変化であるなら、女性の目に映じる瞳こそ月の表現であり、複数の瞳はその移動と捉えられるのである。
《coastline #9》では、皮膚(=輪郭)を表す1本の線が、継ぎ目のない(ように見える)黒・緑・赤で表されている。緑と赤という補色の関係からは色相環が連想される。緑から赤へと円上を周回するイメージは、月の公転のアナロジーとなるだろう。ここでも皮膚という海岸線は変化を繰り返しているのだ。

"coastline"が皮膚のメタファーであることに気付くと、作品の中から触覚のイメージが立ち現れる。《coastline #3》では、キャミソールの女性がアロハシャツの女性の右肩に手を掛け、《coastline #5》では、少女がクラウンの人形の右肩に手を置いて微笑んでいる。《coastline #8》では頬被りの女性が前で手を組み、《coastline #6》では2人の女性がぞれぞれ後ろで手を組み合わせる。《coastline #2》では女性が左手で口の辺りを覆い、《coastline #7》では、女性が前屈して自分の足首を摑んでいる。

新型コロナウィルス感染症が猖獗を極めることで、「接触」が困難になると、触れることに対する希求が(少なくとも潜在的には)高まっているだろう。《coastline #5》において、少女がオブジェに触れるのは、スモークガラス越しの店内が象徴する「モニター越しの世界」に触れることが叶わないからであろう。《coastline #2》や《coastline #7》の女性が自己に触れるのも、同様に一種の代償行為と解し得る。もっとも、接触の不可能性、すなわち島(=人)の孤立は、否定的なことばかりではなく、それによって生まれる可能性もあるだろう。

 だがさらにいえば、グルニエ〔引用者註:『孤島』の著者ジャン・グルニエ〕は、島を孤独や封鎖の隠喩として常識的にとらえるだけでなく、島としての孤立によって、かえって人間が肉体の至高の高揚を手にし、あらゆる水平線にむけて自由に開かれた海を持つことができる可能性をも、ここで示唆している。そうだとすれば、肉屋の男の繰り言につき合いつづける「私」〔引用者註:『孤島』所収の一篇「イースター島」を踏まえている〕は、彼の孤独と虚無への沈潜とを通じて、何か思いがけない風を、人間を新たな誕生の地平へと押し出す膂力を得ていたのかも知れないのだ。島が孤独な人間であり、群島が孤独な人間たちの群像であるならば、そこにはある意味で、分離と再創造をめぐる、人間にとっての始原的な誕生が孕まれた場が存在することになる。(今福龍太『群島-世界論〔パルティータⅡ〕』水声社/2017年/p.120-121)

美術とともに服飾を学んだことも影響しているのだろうか。作家は、「新しさによって見る者の目を奪」おうとするかのように、輪郭線の実験、瞳の表現の変化、画中画や群像表現への挑戦など、新たな表現に取り組んでいる。

 ファッションは誘惑であるがゆえに、不特定多数を相手にする。ファッションをまとった私は、見られることによって他者の居る世界に参入し見られることでその世界の中に位置を占める。ファッションとは、どこまでも現在の世界のあり方から逃れようとする逸脱であった。しかし見られる回路を失ったファッションは、意味不明のものになってしまう。ファッションは、他者から見られることを通して、世界の外に出る逸脱から世界の内部へと帰還し、世界に復帰する。ファッションの逸脱は、ファッションが見せるものであることによって、世界の外へ出て内へと戻る弧をえがく過程となる。ファッションのもたらす変身は、見られることによっておのれのニッチを世界の中に見いだす。
 ファッショナブルな人は、おのれを見る人を通して、おのれを世界に着陸させる。ファッションを見る人も、ファッションを見ることで変化する。ファッションは、新しさによって見る者の目を奪い、見る者のなかに侵入して、過ぎ去るべき古きものとは何かを指定する。ファッションは、それを見る人の時計のねじを回す。そうしてしばらくたって、他者がそのファッションを見飽きてしまい、ファッションの新奇性が薄れたときに、他者の視線はファッションをまとう人に向けられなくなる。そのときである、変身が起こり、新しいファッションが生み出されるのは。
 ファッションは他者に働きかけて、他者との関係性を変えることで自己を変え、他者の回路を通じて自己を完成させようとする。それは無根拠な自己を、他者からの承認によって世界に住まわせる。しかし、ファッショナブルな人は、固定的な人間関係に安住することができない。ファッションは不特定多数を誘惑する。それは、特定の誰かにではなく、誰に対しても自分を見るように自分を差し出す。ファッションに身を包む自己とは、そうした不特定多数の人びと、すなわち、誰でもない人々、社会的役割が何であるか分からない人びととともに生きている人間の存在様式である。
 自己を特定の社会的役割や慣習、固定的アイデンティティに基づかせる伝統的社会とは異なり、私たちは、誰もが誰でもない者として自分の周囲を通り過ぎていく社会に生きている。そうした社会に生きる身体は、ファッションに身を包む。ファッションは見られることによって新しいものとして地上に再降臨する。新たに創造されたものは、新しいがゆえに、古いものから切断され、無根拠である。創造することは、神の世界創造のごとく、無根拠である。あるいは、無意味な行為といってもよい。「新しい」とは過去から切り離されていることである。こうした新しく創造された無根拠なものを地上に普及させることが、ファッションである。ファッションを見にまとう人は、創造されたものを人の目の前に見せ、人の視線を集め、自分を人々の中へと定着させる。それは、すなわち、誕生したものを地上へと定着させること、言い換えれば、養育することである。ファッショナブルな人とは、そうした、いわば誕生と養育とを繰り返し生きる人間である。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.40-42)

鑑賞者は作家の変化を目撃し続けることになるだろう。フロレンティーノ・アリーサがフェルミーナ・ダーサを追い続けたように。