展覧会『深田桃子個展「遠くに見えた」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2022年2月7日~12日。
絵画9点で構成される、深田桃子の個展。
《沈んでいく》(910mm×727mm)は、水中に腹まで浸かった人物を右横から捉えた作品。画面を横切る水面が、その上側に紺色の水よりもやや広めに水色で塗り籠めた空を残す。その空を背景に、目から下、腿から上の部分でトリミングされたスイムパンツの人物を描いている。作品を特徴づけるのは、人物の輪郭となる、恰も黒いテープを貼り付けたような太く黒い線だ。はっきりと縁取られた肌は、半袖のTシャツを着て日焼けしなかった部分がペールオレンジで表わされ、ベタ塗りではなく微妙な色味の変化が付けられている。日焼けした顔から首と腕の部分は茶色で塗られている。顔には、赤い絵具の短い線で、単純かつ質素に目と口とが描き入れられているのが、浮世絵の人物描写に通じる。水中部分には透過性の高い青い絵具が重ねられ、また光の屈折を思わせるズレの表現も見られる。人物が前屈みの姿勢でかなり不自然に両腕を前に押し出していることに加え、水面がごく僅かに右下に傾斜していることにより、人物が徐々に沈む様子が的確に表わされている。大胆さと繊細さ、デフォルメとバランスといった、対立する要素の同居が作品の魅力を生んでいる。
《スナップエンドウ》(652mm×500mm)は、肘を付いて顎を乗せる人物の上半身像。眉・目・口の単純・素朴な描写に対し、黒く太い輪郭線が対照的だ。白い肌は黒い背景に映える。背中にかけられた緑のタオル(?)とその上を覆う緑のネットとが作品を特徴付けている。画面左上から右下の対角線上に顔と胴とが、右上から右下に向けての対角線上に左の上腕が、それぞれ配され、左の上腕と左の前腕とが作るV字が画面上でも身体を支えて安定感を生む。組み合わされた手のうち右手が極めて大きく描かれていることに違和感がない。そのデフォルの妙は、メアンリ・マティス(Henri Matisse)の《夢(Le Rêve)》を連想させる。
《手癖》(910mm×727mm)は、オレンジ色のセーターの人物の背後に淡い黄緑色のセーターの人物が寄り添う姿を、クリーム色の画面に表わした作品。オレンジの服の人物には目、鼻、耳が表わされるが、その顔にぴったりと顔を寄せている黄緑色の服の人物については髪の毛しか見えない。黒い太い輪郭線や、べったりとした塗り潰した背景・肌・髪・服の大胆さに比して、前(左)の人物が親指と人差指とで、後(右)の人物の薬指を摑む仕草の繊細さが印象に残る。《待ち合い》(1167mm×910mm)でも隣り合って座る二人の人物が手を絡める様子を描き出し、作者にとって重要なモティーフとなっていることが分かる。
《二人言》(1620mm×1300mm)は、クリーム色の画面に、並んで歩く二人の人物の姿を斜め後ろから描き出した作品。青い肌の2人の人物の腕は、身体における脚の比率が高められていることもあって、異様に長いが、画面の中ではバランスが保たれている。背景に表わされた緑色の金網フェンス(?)が、2人の世界を構築する必要十分な舞台装置とするのが心憎い。《外の香り》(1620mm×1300mm)のクリーム色の画面には、赤い服の人物が白い服の人物の腰に腕を回して寄り添っている後ろ姿が表わされている。身体に対する脚の比率が高いためもあって、やはり腕が極めて長く表現されているが気にならない。右上に切手のように添えられた、水色に白い山のような形を表わしたイメージは、遠くに見える山(例えば、富士山)を表わすのであろうか。あるいは奥へと向かう道(ないしトンネル)であろうか。
《寒さの記憶》(1120mm×1620mm)には、横たわって抱き合う2人の人物が描かれる(ものと思われる)。エゴン・シーレ(Egon Schiele)が描く恋人たちの世界を連想させる。