可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 井上光太郎個展『すぐ隣に潜むものたち』

展覧会『井上光太郎「すぐ隣に潜むものたち」』を鑑賞しての備忘録
KOKI ARTSにて、2021年10月1日~30日。

井上光太郎の絵画9点を展観。

《隣の国》(273mm×220mm)には、木立の中に佇む女性が描かれる。画面奥に叢生する木々が緑や茶など樹木らしい色遣いで表されるのに対し、主たるモティーフとして画面中央の僅かに開けた空間に配された女性は煙や霧を思わせる灰色の濃淡で塗り込められている。そして、その女性像を画面から切り分けるように、画面最前面に立つ2本の樹木が挟む。2本の樹木は、額のように機能している画面の四周の縁取り線と同じ灰色の濃淡で表されることで、接続して一体化している。
《バニシング》(803mm×1000mm)では、植込みに囲まれた桃色の壁面を持つ住宅の窓の傍に立つ男性を描く。男性は灰色の濃淡によるシルエットとして表現されている。濃いビリジアンの植込みの植物は、屋根に届くか届かないかという背丈の割に、力強く枝葉を伸ばし、家屋を包み込むような勢いを感じさせる。住居の壁面の桃色は斑のある塗りで、植込みの陰となる部分は茶色を中心に表されている。窓にかけられたカーテンは(室内の灯りに照らされて?)黄色く輝く。その窓の傍らには、右手をパンツのポケットに入れて直立する男性が配される。水平の住居の庇に加え、画面左側から画面上と画面右とに向かって延びる枝と、画面右下から左上方向に延びる樹木とによって、男性の姿はトリミングされている。その樹木は、《隣の国》同様、灰色の濃淡で表され、縁取りと同化する。
画面の全面に配された樹木によって画面を分割する作品として、フィンセント・ファン・ゴッホが模写したこと(1887)で知られる歌川広重《名所江戸百景 亀戸梅屋舗》が有名だ。その作品の影響も指摘される『ポール・ゴーギャンの《説教の後の幻影(ヤコブと天使の闘い》(1888)では、神父の語った旧約聖書のエピソードの幻影が、それを幻視するブルターニュの女性たちとの間を樹木で切り分けることで併置されている(宮崎克己『ジャポニスム 流行としての「日本」』講談社講談社現代新書〕/2018年/p.135-138参照)。《隣の国》や《バニシング》ではモティーフを厳格に切り分けて配する代わりに、絵画自体の「縁」や画中でフレームとして機能する樹木を人物の幻影と同じ描き方をすることで2つの世界を共存させている。そして幻影の描写は、ロバート・A・ハインラインの小説「ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業」に登場する「灰色の形もない霧」を想起させる。

 数ブロック走らせたあと、ランダルは1人の警官が舗道に立って日なたぼっこをしながら、空地で蹴球をやっている少年たちを眺めているのに気がついた。かれはそのそばに車を寄せた。
 「窓を下ろしてくれ、シン」
 彼女はそれに従い、それから、激しく息を吸いこみ、悲鳴を呑みこんだ。かれも悲鳴を上げはしなかったが、そうしたいところだった。
 開いた窓の外には、太陽の光もなく、警官の姿もなく、子供たちもおらず――何もなしだった。
 生きているもののしるしなく、ただ灰色の形もない霧がゆっくりとうごめいているだけなのだ。その霧を通して町の姿は見えなかった。霧が濃すぎるからではなく――空虚そのものしか存在していなかったからなのだ。その中からなんの音も響いてこず、その中には何物も動いていなかった。(ロバート・A・ハインライン矢野徹〕「ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業」同『輪廻の蛇』早川書房〔ハヤカワ文庫〕/2015年/p.243)

「ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業」を連想させるのは、「灰色の形もない霧」のような表現のためだけではない。それが自動車の内から眺められた外界として描かれていて、なおかつ本展に自動車を主要モティーフとして描く作品が2点出品されているからである。《残影の轍》(500mm×606mm)では鬱蒼とした森の中に停まる自動車が木の間隠れに描かれ、《Static Noise》(1620mm×1303mm)では木々の隙間から見た窓に明かりの灯る家の裏に駐車した自動車が描かれているのだ。

 この「まるで生まれたばかりの生命のように、ゆっくりと脈打って」いる「形のない灰色の霧」こそ、ラカンのいう〈現実界〉、おぞましいほどの生命力をもった前象徴的な実体の脈動にほかならない。だが、ここでわれわれにとって重要なのは、その〈現実界〉が噴出してくる場所である。〈現実界〉は、外部と内部とを隔てている境界線(この場合は窓ガラスがそれを具現化している)そのものから噴出してくるのである。ここで、不一致をめぐる基本的な現象学的体験に触れておくべきだろう。車に乗ったことのある人なら誰でも経験があるはずの、内部と外部との不均衡のことである。外からは車は小さく見える。身をかがめて中に乗り込むとき、われわれは時おり閉所恐怖症に襲われるが、いったん中に入ってしまうと、車は突然大きくなり、快適に感じられる。だがこの快適さと引き換えに、「内部」と「外部」との連続性がいっさい失われる。車の中にいる人にとって、外の現実は、ガラスが物質化しているバリアーあるいはスクリーンの向こう側にあるものとして、かすかに遠く感じられる。われわれは外的現実、つまり車の外の世界を、「もう1つの現実」として、つまり、車の中の現実とは直接的には連続していない、現実のもう1つの様相として、知覚する。この非連続性をよく物語っているのが、ふいに車窓を開け、外にある物がいきなり近くに感じられたときに味わう、外的現実が迫ってきたような不安感である。なぜ不安になるかといえば、窓ガラスが一種に保護膜として安全な距離に保っていたものが、じつはすぐ近くにあるのだということをいきなり思い知らされるからである。だが、車の中にいて、窓を閉め切っていいるときには、外にある物は、いわばもう1つの様相へと転換されている。それらは根本的に「非現実的」に見える。いわばそれらの物の現実性が宙ぶらりんにされ、カッコに括られているように見える。早い話が、窓ガラスというスクリーンに投射された映画の中の現実みたいに見える。内部と外部を隔てる仕切り壁をめぐるこの現象学的体験、つまり外部は究極的には「虚構」であるという感覚が、ハイラインの小説の最後の場面のぞっとするような効果を生んでいるのである。一瞬、外的現実の「投射」に機能がストップして、われわれは、形のない灰色のもの、スクリーンの空無性と直面したような感覚を味わう。このコンテクストでマラルメを引用するのは冒涜かもしれないが、それが許されるとしたら、その空無性とは、まさに「場所以外の何も起こらない場所」である。(スラヴォイ・ジジェク鈴木晶〕『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』青土社/1995年/p.39-41)

「ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業」においては車の窓ガラスが「外部と内部とを隔てている境界線」であり、「〈現実界〉が噴出してくる場所」であった。

約600年の昔、イタリア・ルネサンス人文主義者、レオン・バッティスタ・アルベルティは、著書『絵画論』(1436)の中で、絵画と窓について次のように述べました。
「私は自分が描きたいと思うだけの大きさの四角のわく〔方形〕を引く。これを私は、描こうとするものを通して見るための開いた窓であるとみなそう」
窓は、室内にいるわたしたちに、四角い枠に囲われた外の世界の眺めをもたらしてくれるもの。絵画もまた、「今ここ」にいるわたしたちに、四角い枠に囲われた「ここではない世界」の眺めをもたらしてくれるもの。アルベルティが「絵画=窓」と簡潔に定義して以来、数えきれない画家たちが窓にインスピレーションを受けて作品を制作してきました。(東京国立近代美術館編『窓展:窓をめぐるアートと建築の旅』平凡社/2019/p.10〔蔵屋美香執筆〕)

本展出品作では、額縁を擬態する縁とそれと一体化する樹影とが「〈現実界〉が噴出してくる場所」であることは疑いない。

ところで、出品作品のいずれもがモティーフを木の間隠れに描いているのは、「樹々の奥に潜む闇から、見えざる視線を感じ」たという作者の実体験に根差してのことらしい。それは、モーリス・メルロ=ポンティが画家アンドレ・マルシャンの発言を引いて説明した「すべての見られるのものはまた見るものでもある」ということを思い出させずにはいない。

 見えるものがわたしを満たし、わたしを占有しうるのは、それを見ているわたしが無の底からそれを見るのではなく、見えるもののただなかから見ているからであり、見るものとしてのわたしもまた見えるものだからにほかならない。1つ1つの色や音、肌ざわり、現在と世界の重み、厚み、肉をなしているのは、それらを把握している当の人間が、自分をそれらから一種の巻きつき(enroulement)ないし重複(redoublement)によって出現してきたもので、それらと根底では同質だと感ずることであり、かれが自分に立ち返った見えるものそのものであり、その引きかえに見えるものがかれの眼にとってかれの写しないしかれの肉の延長のごときものとなることなのである。〔『見えるものと見えないもの』〕

 ここでわれわれは、自分が見ているものを「おのれの見る能力の裏面」として認めている。その意味で、わたしの身体と世界はおなじ〈肉〉でできているといわれるわけであり、両者が越境と跨ぎ越しの関係といわれるわけである。あるいはまた、わたし自身の可視性が見えるものすべてにまで延長されてゆくこのような出来事を、あらゆる視覚のもつ根源的な〈ナルシシスム〉であると規定している。こうした反転、自分を見つめる自分を見るナルシシスムは、〈鏡〉の現象そていも規定される。「肉とは鏡の現象であり、鏡とはわたしの身体にたいするわたしの関係の拡張なのである」、と。
 見る身体と見られる身体、触れる身体と触れられる身体へと切開され、さらに重ねあわされ、反転させられるこのプロセスを、メルロ=ポンティは「裂開」(déhiscence)とよんでいる。このような裂開なかで、われわれが物のなかへ移行するのと同様に、物がわれわれのうちに移行するのである。とすれば、見るのはわれわれ主体だけではない。すべての見られるのものはまた見るものでもあることになる。
 (略)
 この『見えるものと見えないもの』でも、またこの遺稿と同時期に書かれた『眼と精神」でも、メルロ=ポンティは画家アンドレ・マルシャンのつぎの言葉を好んで引いている。

 森のなかで、わたしは幾度もわたしが森を見ているのではないと感じた。樹がわたしを見つめ、わたしに語りかけているように感じた日もある……。わたしは、といえば、わたしはそこにいた、耳を傾けながら……。画家は世界によって貫かれるべきなのであって、世界を貫こうなどと望むべきではないと思う……。わたしは内から浸され、すっぽり埋没されるのを待つのだ。おそらくわたしは、浮かび上がろうとして描くわけだろう。〔『眼と精神』〕

 自分がふと物によって見つめられていると感じるとき、わたしは能動性と受動性の深い交叉を経験しているのだ。能動性と受動性との、内と外とのたえざる反転。わたしの視覚は、そういう〈肉〉のなかに縫合されている。(鷲田清一現代思想冒険者たち Select メルロ=ポンティ 可逆性』講談社/2003年/p.270-273)

「縁」と接続する樹が視界を遮りながら、同時に、自動車や家などのモティーフを透かすように覗かせている。そこには、見るものと見られるものとの「内と外とのたえざる反転」が示されている。

 私は、森の中で、森の樹木や生き物の関心の対象となることで見られる存在となる。樹木たちと「見る‐見られる」の循環的な関係を作ることによって、画家は森の一部となった。世界に見られることによって、私は世界の中に入ることができる。それがマルシャンの言う「世界に貫かれる」ということであり、「世界にすっぽり埋没する」ということである。
 もし樹木が視覚をもつのであれば、樹木は、鏡でもみるように画家を見て、自分が見ることのできない自己を見ようとしているはずだ。樹木を描いた絵画とは、樹木が画家という外部の回路を通して、おのれ自身を見たときのヴィジョンだと解釈できないだろうか。それは、観察者を通して自己を自己たらしめようとすることである。画家は、樹木の自己認識のための媒体であり、道具である。画家が「浮かび上がろうとして描く」のは、絵画を描くことによって樹木の自己認識を完成させてやり、樹木の視線から解放されるためである。この意味で芸術は、自然の自己表現の延長なのだとさえ言えるだろう。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.57-58)