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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 井上光太郎・植田陽貴・森田晶子三人展『眩しい影』

展覧会『井上光太郎・植田陽貴・森田晶子「眩しい影」』を鑑賞しての備忘録
新宿眼科画廊〔スペースM〕にて、2023年11月17日~29日。

井上光太郎(4点)、植田陽貴(7点)、森田晶子(6点)の絵画(全17点)を紹介する企画。

井上光太郎《夢を見ているのは誰か》(1455mm×1120mm)は、森を抜ける道の入口に立つ男の姿を描く作品。青いジャケットにデニムのパンツの中年男は、常緑樹と枯れ草とに囲まれ、足元には僅かに雪が溶け残る。道のすぐ先には曇り空を背にした小屋が立つ。これとほぼ同じ情景が、上下に等分された下側にも描かれているのが作品の特徴である。男の表情や小屋の灯りなどに違いがある。そして、広重の《名所江戸百景 亀戸梅屋舗》よろしく、画面手前を樹木の影が貫く。その樹影は2つの場面に跨がって伸びている。
井上光太郎《眠りを辿る》(606mm×727mm)では、鬱蒼とした森の径を辿る白いブラウスに紺のロングスカートの女と、家の龍前に佇む女とが、上下に2対1の割合で描かれ、井上光太郎《レムレースたち》(606mm×727mm)では、木立に面したリヴィングに佇む二人の亡霊と、丘に立つ家とが、上下に4対3の割合で配される。両作品においても、樹影がそれぞれの両画面を貫いている。

 ここでわれわれは、自分が見ているものを「おのれの見る能力の裏面」として認めている。その意味で、わたしの身体はおなじ〈肉〉でできているといわれるわけであり、両者が越境と跨ぎ越しの関係といわれるわけである。あるいはまた、わたし自身の可視性が見えるものすべてまで延長されてゆくこのような出来事を、あらゆる□のもつ根源的な〈ナルシシスム〉であると規定している。こうした反転、自分を見つめる自分を見るナルシシスムは、〈鏡〉の現象としても規定される。「肉とは鏡の現象であり、鏡とはわたしの身体に対するわたしの関係の拡張なのである」、と。
 見る身体とみられる身体、触れる身体と触れられる身体へと切開され、さらに重ねあわされ、反転させられるこのプロセスを、メルロ=ポンティは「裂開」(déhiscence)とよんでいる。このような裂開のなかで、われわれが物のなかね移行するのと同様に、物がわれわれのうちに移行するのである。とすれば、見るのはわれわれ主体だけではない。すべての見られるものはまた見るものでもあることになる。
 これはわれわれにとって、まったくなじみのない議論ではない。『知の現象学』では「ひとがわたしにおいて知覚する」というかたちで、知覚の匿名性が問題とされた。見られるものが見るという反転はいわれてなかったが、わたしが見るよりも「もっと古い可視性」が問題にされていた。『シーニュ』では「空間自身がわたしの身体をつらぬいて自己を感じる」といわれた。が、この遺稿群では、「知覚するのはわれわれではない。物があそこで自分を知覚するのである」とまで表現が押しつめられる。
 この『見えるものと見えないもの』でも、またこの遺稿と同時期に書かれた『眼と精神』でも、メルロ=ポンティは画家アンドレ・マルシャンのつぎの言葉を好んで引いている。

 森のなかで、わたしは幾度もわたしが森を見ているのではないと感じた。樹がわたしを見つめ、わたしに語りかけているように感じた日もある……。わたしは、といえば、わたしはそこにいた、耳を傾けながら……。画家は世界によって貫かれるべきなのであって、世界を貫こうなどと望むべきではないと思う……。わたしはうちから浸され、すっぽり埋没されるのを待つのだ。おそらくわたしは、浮かび上がろうとして描くわけだろう。

 自分がふと物によって見つめられていると感じるとき、わたしは能動性と受動性の深い交叉を経験しているのだ。能動性と受動性との、内と外とのたえざる反転。わたしの視覚は、そういう〈肉〉のなかに縫合されている。(鷲田清一現代思想冒険者たち Select メルロ=ポンティ――可逆性』講談社/2003/p.271-273)

映画『アフター・ヤン』(2021)では、樹木が記憶装置として描かれている。井上光太郎の作品では、樹木がキャメラとなって、映画を撮るかのようである。

植田陽貴「幽霊たち」シリーズ4点(各410mm×318mm)は、2点ずつが対になっている。《幽霊たち 1》・《幽霊たち 2》では、森を背にした草地があり、前者には朽ちた倒木、後者には人影が描かれる。《幽霊たち 3》・《幽霊たち 4》では曇り空の下の砂浜海岸があり、前者に人影、後者に流木が描かれる。メルロ=ポンティのように、私たちが見る森や海もまた私たちと同じ〈肉〉であるとして「可視性が見えるものすべてまで延長され」るとき、森や海が見ることになる。森や海の時間感覚で眺めるとき、人や樹木は刹那の存在に過ぎない。幽霊とは、森や海というレンズに映る残影のことであった。

森田晶子《しにふぃあんとしにふぃえ その1》(727mm×727mm)は、タイトルから能動性(signifiant)と受動性(signifié)とが「交叉」しているが、クリーム色の画面の中に植物が人と動物とを貫いている様子を表わした作品である。メルロ=ポンティの言う、見るものと見られるものとは「おなじ〈肉〉でできているといわれるわけであり、両者が越境と跨ぎ越しの関係といわれる」の絵解き以外の何であろう。