可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 石井海音個展『warp』

展覧会『石井海音個展「warp」』を鑑賞しての備忘録
biscuit galleryにて、2022年5月5日~22日。

29点の絵画で構成される、石井海音の個展。

《My ghost walking》(1167mm×803mm)は、奥と左右に木製の(あるいは木目のプリントされた)扉のある住宅の廊下で、左の扉を開けて姿を現わした少女(女性?)を描く作品。眉からU字に顔より下まで垂れる、作家の人物に特徴的な目を持つ頭部の左半分、扉の把手を握る左手などが、開かれた左のドアから覗く。その彼女が廊下を横切る姿(ほぼ全身)が画面中央に水色の輪郭線のみの「透明」で、さらに彼女が右方向へ歩く姿(ほぼ全身)が画面右手前に薄い水色で「半透明」で表わされている。「透明」と「半透明」の「少女」は画面手前に向かって伸びる廊下を下ってくるのではなく、横断するように歩いている。この横断の描写とタイトルとを踏まえれば、実際に扉や壁をすり抜ける姿自体が描かれているわけではないが、「幽霊」が「すり抜け」を行なう可能性も否定できない。もっとも、三方の扉と壁と床のみの空間の開口部は、今少女が姿を現わした扉を別にすれば、画面手前に向かう廊下のみである。なおかつ閉じられた二つのドアはには把手が描かれていない(少なくとも鑑賞者には見えない)。これは、少女が自らの定められた未来を幻視する場面を描いたものと捉えられるのではないか。ところで、ドゥニ・ヴィルヌーヴ(Denis Villeneuve)監督の映画『メッセージ(Arrival)』(2016)では、Amy Adams演じる言語学者ルイーズ・バンクスが、「ヘプタポッド」と名付けられた異星人とのコミュニケーションを図り、その意図を調査する過程で、度々幻視に囚われるようになる。そのイメージの中には、自らの娘と戯れる場面や、その娘が不治の病に伏せる場面もが含まれている。

 (略)映画の原作者であるチャン〔引用者註:「あなたの人生の物語(Story of Your Life)」の作者Ted Chiang〕は次のように述べた。

人間は順序のある線形的な意識を発達させてきたが、これに対してヘプタポッドは同時並列的な意識を発達させてきた。われわれは様々な出来事を順番に経験し、出来事のあいだの関係を因果関係として認識した。ヘプタポッドはすべての出来事を一度に経験し、それらはすべての基底にある目的を認識したのである。

こうした循環する時間のなかで生きていると、行為についての考え方が根本的に変容する。自由意志による選択と決定論とは対立するという、われわれの常識的な考え方は捨てられる。

「ヘプタポッドは、われわれが理解しているような意味で自由であったり束縛されていたりするのではない。彼らは意志にもとづいて行為するのではなく、そうかといって意志のない自動機械でもない」。チャンの原則でルイーズは語る。「ヘプタポッドの意識のあり方の際立った特徴は、彼らの行為が歴史上の出来事に一致しているということだけではない。彼らの行為の動機が歴史の目的に一致しているという点も大きな特徴なのだ。未来をつくるため、年表を実現するために彼らは行為する」。

(略)ルイーズが彼女のヴィジョン(幻影)を通じて別次元の世界に触れるとき、人生にかかわる重要なかっていを下すプロセス全体が変化する。

「もしもあなたなお人生全体が目の前に広がっているとしたら、それを変えようと思う?」ルイーズは未来の夫のイアン・ドネリーに問いかける。質問の仕方を変えればこうなる。あなたは誰かの生存を奪い、その誰かと地上で過ごした時間を消そうと思うだろうか。もしもその人たちがやがて苦しみ死ぬことになってあなたが悲しい思いをすることを、すでにあなたが知っているとしたら。「未来を知っているという経験によって人が変るとしたら?」ルイーズは考え込む。未来を知っていることによって危機感が生まれ、そうするだろうと自分で知っているとおりに行為しなけれればならないという義務感が生まれるとしたら?」ルイーズは娘を失うということがどんなことなのかわかっていたからこそ、娘をこの世界に産み落とすことを選ぶのである。

こうした循環的な見方においては、過去だけではなく未来も固定される。しかし、主体は自分の未来を直接選ぶことはできないが、未来と過去の循環全体から主体が抜け出すというわずかな可能性がある。こういうわけで、避けられないことを望む(起きるとわかっている未来を選ぶ)ことは、何も変えない空虚な身振りではない。ここでのパラドクスは、そうした選択は何も変えず、事実を記録するだけなのだが、それがまさに余計な行為であることにおいて必要なものとなる、ということである――もしもそうでないとしたら、もしも避けられないことを選ばないとしたら、それを避けられないものにしている枠組み全体が崩壊し、ある種の存在論破局が訪れることになる。

(略)

真の選択とは何か。正しい選択をすればわたしは大きな犠牲を払うことになるかもしれない、そういう困難な倫理的苦境に立たされたとき、わたしは迷い、動揺し、言い訳を探す。そうしているうちにわたしは気づく。本当は選ぶことなどできないのだ、と。真の選択は、選択肢がないことを選択することなのである。スラヴォイ・ジジェク中山徹・鈴木英明〕『性と頓挫する絶対 弁証法唯物論トポロジー青土社/2021年/p.258-261〕

少女(女性)の垂下がる目には2つの瞳がある。展覧会タイトルの"warp"を踏まえれば、ワープを可能にする、ブラックホールとホワイトホールとのメタファーとも解し得る(対となる作品《My ghost floating》(1167mm×803mm)で、少女が眠りながら指差すのは紺色の花瓶に挿したチューリップの花であるが、花瓶をブラックホール、曲がる茎をワームホール、花をホワイトホールと解するのは牽強附会であろうか)。いずれにせよ、2つの瞳は2つのイメージを彼女にもたらす。現在と未来とのイメージである。但し、未来に対して選択肢を与えるものではない。彼女が選び取るのは、ただ1つである。彼女は、選択肢がないことを選択するのである。

《ポートレイトの絵》(1465mm×1465mm)は、少女(女性)の胸像を描く「portrait」シリーズ9点(各390mm×360mm)の前に佇む少女(女性)を描く作品。3列3行の「portrait」のうち中央の行の中央と下の2点の作品の位置に少女が立っている。《ポートレイトの絵》の真向かいには、実際に「portrait」シリーズ9点が、《ポートレイトの絵》に描かれているのと同じ配列で、並べられている。左右反転が起きていないために両者は鏡像の関係には立たない。それゆえに鏡以上の現実の似姿として絵画が立ち現われているとも言える。それならば、《ポートレイトの絵》に描かれた少女は、「portrait」シリーズの前に存在していると考えることも不可能ではない。ただghostなので不可視なだけなのだ。鑑賞者にフラッシュ・バック(過去のイメージ)とともにフラッシュフォワード(未来のイメージ)を引き起こす装置として、向かい合う2点が展示されているのである。