可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 みょうじなまえ・林航二人展『Home sweet home』

展覧会『みょうじなまえ・林航二人展「Home sweet home」』を鑑賞しての備忘録
マキイマサルファインアーツにて、2022年10月22日(土)~11月6日。

生活を共にしている、みょうじなまえと林航の二人が、紙で制作した日用品のオブジェに、観葉植物や観葉植物や雑草を取り合わせ、ギャラリー内に再現した居住空間(なお、2人の作家はもう1人と3人で生活している)。

白い壁と白い床の展示空間に、日用品が置かれている。3脚の椅子のあるテーブルには3人分の皿とカップなどがセットされている。奥の木製の台の上には、珈琲を入れる器具、地球儀、キーボード、洗剤のボトルなどとともにサンスベリアやポトスの鉢植えが置かれている。その他、台に置かれた観葉植物や、壁に掛けられた鍵や額などがある。床には草や枝などが無造作に置かれている。日用品は実際に存在するものを白い紙で象った模造品であるが、観葉植物や草木は本物である。

日用品の白い模造品が白い壁と白い床の明るい空間に設置することで、恰もギャラリーを原寸大の建築模型のようにしている。それは、「画一的、衛生的、きれい、明るい」を特徴とするユートピア巖谷國士シュルレアリスムとは何か』筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2002年/p.228参照)を表現するものである。それは映像作品《ファミリー・ゲーム》において、住居の建築模型の中をカメラが回転し撮影していることから疑いない。そこにはやはりユートピアを特徴づける「時計に似た規則性とか反復性」、「つまり、反自然」(巖谷國士シュルレアリスムとは何か』筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2002年/p.234参照)が表わされているからである。

①多くの社会や文明で、今現在自分(あるいは自分たち)が存在する〈いま・ここ〉の外側の〈他の時間〉や〈他の空間〉に、自分たちがそもそもあるべき“よりよい状態”や“理想的な状態”があること考えられ、そのような状態にさまざまな形象――楽園や永遠やさまざまなユートピア――が与えられて、社会の地形が形成されてきた。
②そのような“よりよい状態”や“理想的な状態”から外れた欠如態である〈いま・ここ〉において、楽園や永遠やユートピアを求めるノスタルジアの感情が、人間とその社会が世界に存在することの実存的な感覚として存在してきた。
③そうした世=界の体制の下にある社会の地形において、〈いま・ここ〉やそこにあること、そこで生を営むことの意味が、〈いま・ここ〉の外部の“よりよい状態”や“理想的な状態”との関係において理解され、評価され、意味づけられてきた。

 自分たちが存在し、生きている〈いま・ここ〉が、本来自身があるべき/ありたいと思う状態から外れているという世界のリアリティと、それゆえそのような状態に戻りたい/到達したいと願いながら、それがすくなくとも〈いま・ここ〉においてただちには困難あるいは不可能であるという生のアクチュアリティ。ユートピアへのノスタルジアにアクチュアリティを与えているのは、〈いま・ここ〉に存在することが人間や社会の本来あるべきあり方の欠如した状態であるという、多くの社会や文明に普遍的に見出されるそんな存在感覚と世界感覚である。〈他の時間〉や〈他の空間〉にノスタルジアの対象となるようなユートピア的な時や場を位置付け、それらとの関係において〈いま・ここ〉を位置付ける世=界の体制の基底には、そのような存在感覚と世界感覚が存在しているのだ。(若林幹夫『クリティー社会学 ノスタルジアユートピア岩波書店/2022年/P.60-61)

「〈いま・ここ〉に存在することが人間や社会の本来あるべきあり方の欠如した状態である」という感覚を表現するユートピアインスタレーションユートピアとは、「帰郷(νόστος)」を語源に持つノスタルジアの対象であり、住居はユートピアとして適格である。もっとも、その形態は作家たちの居住空間を模倣しており、〈いま・ここ〉に限りなく近付いている。それは何故であろうか。おそらくはユートピアが「〈いま・ここ〉の選択の結果として〈いま・ここ〉に従属するものになった」ことの反映ではなかろうか。

 ニクラス・ルーマンは、(略)古典的な近代においては〈いま・ここ〉に〈あること〉を正当化する権威は未来に基礎を置いていたが、今日では、社会の再帰的な自己観察と、それにもとづいて計画や政策決定を行う社会工学的技術により、〈いま・ここ〉における行為の選択によって生じうる「ありそうであること/ありそうにないこと」のリスク計算についての了解の政治が、未来についての知識の権威にとって代わり、未来は〈いま・ここ〉の選択によって生じる「ありそうであること/ありそうになりこと」という形式で表現されるようになったのだと述べている。〈いま・ここ〉において〈現存しない・理想的な・社会についての・イメージ〉によって〈いま・ここ〉に〈あること〉を意味づける近代社会のセマンティーク(意味論)がリアリティを失って、未来が〈いま・ここ〉の選択の結果として〈いま・ここ〉に従属するものになったというのである。しかもその〈いま・ここ〉における行為や政策の選択は、その選択によって生じうる未来におけるリスクの予想に再帰的に従属するのだ。
 「歴史」や「大きな物語」が終わるというのは、人間の社会がもはや何の変化も生み出さなくなるということではない。そこにさまざまなことが起こるとしても、それらが総体として〈いま・ここ〉に〈あること〉を超える〈あるべきこと〉の実現した世界を生み出してゆくという社会の地形の見え方が、リアリティとアクチュアリティを失ったということ、そんな〈他の時間〉が人類にはもはやなく、延長された現在だけがそこに続いていくということである。それは世=界の体制の時間制の次元において――つまりアルトーグの言う歴史性の体制において――、いまとは別のありようになりうること――グアラニ族の言葉を用いるなら〈二〉でありうること――がリアリティとアクチュアリティを失い、もはや他のあり方をとることのない、〈一〉であることへと世界が閉ざされていったということである。(若林幹夫『クリティー社会学 ノスタルジアユートピア岩波書店/2022年/P.113-114)

居住空間のインスタレーションに持ち込まれた植物はリスクを象徴する。鉢植えの観葉植物や、剪定され、あるいは刈り取られた庭の草木は、管理されたリスクであり、「〈いま・ここ〉の選択」を表わしている。その選択の結果、未来は「未来におけるリスクの予想に再帰的に従属する」こととなって「延長された現在だけがそこに続いていく」ことになる。「〈一〉であることへと世界が閉ざされてい」るのである。映像作品《ファミリー・ゲーム》において、居住者が箱庭のようなゲームを展開する際、まず初めに柵を設置するのは、まさに現在への閉じ込めが表わされている。そして、ゲーム(映像)の終わりに柵が取り払われるのは、そのような閉鎖性を打ち破ろうとする作家の意志の表明である。展覧会タイトル"Home sweet home"に2つの「ホーム」が存在するのは、世界が「〈二〉でありうること」すなわち「いまとは別のありようになりうること」への希望を刻印するものであろう。