可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 伊藤幸久個展『foolproof』

展覧会『伊藤幸久展「foolproof」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー川船にて、2022年10月24日~11月5日。

陶による立体作品20点強で構成される、伊藤幸久の個展。

《foever happy》は、ゴムの木の鉢植えを脚榻状の木製の台座に設置した作品。ゴムの木の「永久の幸せ」なる花言葉が作家の名「幸久」に通じることから、ゴムの木は作家の分身であると言う。白い鉢植えの上部が一部台となるように延長され、如雨露と鎌を持つ少年の小像が立てられている。ゴムの木の世話をしている少年もまた作家の分身として作家の傍らに添えたものと言う。台座の天板の下からは床近くにまで鎖が垂下がっている。床には小さな皿に土が盛られ、そこに植物が芽を出している。鉢底の排水穴から滴る水によって植物が育まれたのである。芽を覗き込む少女の小像が皿の脇に配されている。彼女の背後にはドレス(ワンピース)が広げられている。ドレスの広がりは魚の尾鰭のようであり、少女が恰も人魚であるかのように見せている。
少女に人魚のイメージを与えているのは何故か。それは水面下に広がる別世界を表現するためであろう。ゴムの木の鉢植えと少年とが覚醒した意識の世界であるのに対し、皿と少女の世界は無意識の世界である。
出展作品には、グラデーションのあるストライプの台座に設置された支柱に垂直に取り付けられた人物の頭像《超現実ステージ》があり、作家がシュルレアリスムをテーマにしていることは明白である。例えば、シュルレアリストが試みたエクリチュール・オートマティック(自動筆記)とのアナロジーが考えられる。

 存在の深部に下降し、そこから何ものかをもち帰ろうとする試みという意味で、シュルレアリストたちのエクリチュール・オートマティックは、西欧近代の理性の支配のよって失われた彼らの分身を再発見しようとする実験だったといえるだろう。(塚原文『ダダ・シュルレアリスムの時代』筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2003年p.215)

鉢植えの排水穴から垂らされた鎖は、「存在の深部に下降し、そこから何ものかをもち帰ろうとする試み」であることを示している。人魚とは、「理性の支配のよって失われた」作家のもう1つの「分身」である。

 というのは、もともと文章というものは、自動的に手や口が自然に動いていって、なにも用意しないで書いたりしゃべったりする度合の少ないものから多いものまでのあいだに、とくに境目や区分がないんじゃないか。程度の差ぐらいしかないんじゃないか。「自動記述」はそういうことを立証したように思うんです。普通の記述と「自動記述」は段階的に連続しています。この連続性こそがシュルレアリスムの理解のポイントなのではないか。
 (略)いろいろな領域がたがいに連続しているのだということ。「自動記述」には、物を書く行為そのものがもももと多かれ少なかれ自動的であるということを、あらためて再発見させた実験だという一面があります。自動的な度合がうんと少ない文章がある、一方、自動的な度合が極大まで行くと、自分がなくなって散失しちゃうこともある。ボードレールは昔、「自我の払散と集中について――そこにすべてがある」といいましたけれども、「払散」は言語だとたしか「ヴォポリザシヨン」だから、水分みたいに「蒸発」してしまうことです。ときには自我の「蒸発」まで行くが、それでも「集中」とのあいだには度合の差しかないということで、「自動記述」と普通の記述との境目の壁というものはない。
 それだけだったら簡単ですけれども、どうやら現実と「超現実」とのあいだにもそういうことがいえるんです。それから、醒めている状態と夢みている状態についてもいえるでしょう。あえていえば、レアリスムとシュルレアリスムのあいだもそうです。両者を一概にちがうものとして区別はできない。すこしずつの段階変化はあるにせよ、つながっている。さらに推しすすめちゃうと、正気と狂気についても、科学的にはある域をこえると気が変だというので精神病院に入院させられたりするけれども、実際には正気と狂気の境目はなくて、程度の差かもしれない。この連続性という観点がシュルレアリスムの発想の根幹のところにあったとぼくは考えています。(巖谷國士シュルレアリスムとは何か』筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2002年/p.63-65)

現実と「超現実」や、正気と狂気などの間に截然とした境界はない。濃淡ないし程度の差こそあれ、両者は繋がっている。1本が倒れ、1本が逆様になった2本の白いガードレールが捻れて癒着した様子を表わした陶作品《River's  edge》こそ、ガードレールが表わす現実ないし正常から、歪められた超現実ないし異常への遷移の表現であろう。両手を腰に当てた少女の立像《Liquid―Maybe to audition》も、彼女の背後に、白い釉薬が表わすエクトプラズムのような自身の似姿を伴い、自我を蒸発させている。それならばガードレ―ルのない場所に倒れ込みかけた女性のスカートの裾がガードレールの袖ビームに引っ掛かることで転倒を免れた状況を表わした陶板作品である表題作《foolproof》は、ガードレールが表わす現実に引き留められたまま地続きの「超現実」へ身を委ねている、シュルレアリストの振舞と捉えることができよう。

シュルレアリストの振舞とは、合理性に対する疑念に端を発したものである。合理性の表れの1つが有用性である。《はじめての無題》は過去の陶作品である女性像と木片とを組み合わせた作品である。すなわち、「すたれもの」を作品として提示しているのだ。敢て無題を選んだことが強調される題名は、有用性の否定を主張するものであろう。

巖谷 ちょっと先まで言ってしまうと、36年にブルトンの書いた『オブジェの危機』(人文書院刊『シュルレアリスムと絵画』所収)。あれはシュルレアリスムのオブジェ展の序文にあたるものですが、「オブジェの危機」という題名が魅力的だった。あの展覧会は、ひとつにはオブジェの領域をひろげてみせたわけです。シュルレアリスムのオブジェというと、ダリ経由で見てしまう人が多い。つまりダリのいわゆる「象徴機能をもつオブジェ」のような、フロイト的なニュアンスを帯びたエロティックなあるいはグロテスクなオブジェ、そういうものを思いうかべがちです。でもブルトンが挙げていたのは、デュシャンの「レディ・メイド」から始まって、蚤の市の「掘り出し物」、それに自然物など、じつに広範囲にわたる「物」なんです。
塚原 そうですね、石ころとか。
巖谷 野生のオブジェ、数学オブジェなんてのもある。それがなぜ「危機」に瀕しているのかというと、2つの側面があると思う。
 1つはボードリヤールも言っているように、近代のオブジェはショーズ(品物)にされてきたわけです。つまり役割や用途や交換価値を持った道具や商品として、西欧文明がオブジェを手なずけてきた。それが近代の資本主義社会における「オブジェの危機」だということ。そのように手なずけられてしまっているオブジェを、資本主義社会の実用性から「解放」しよう、ということがまずあります。
 デュシャンの「レディ・メイド」は既成の道具・商品の用途や役割を奪いとって「オブジェ」にしたわけだから、あれはダダの出発点でもあったし、シュルレアリスムの出発点でもあった。シュルレアリスムの場合はそれに「廃品」やベンヤミンの言うような「すたれもの」が加わってくる。『ナジャ』にあらわれるさまざまな物品、第一次世界大戦を経て用途さえわからなくなった蚤の市「掘り出し物」などが典型的ですね。ベンヤミンはそこに「革命的」なものを見ています。
 もう一方では、オブジェは芸術の表現形態のことでもある。1936年といえば第二次世界大戦の迫っていた時代で、ヒトラームッソリーニだけでなく、ヨーロッパがファシズムを抱え込んでしまった危機の時代に、オブジェという「無用」の物が排除されてゆく。これは第一次世界大戦という歴史上初めての「総力戦」で、すでにシュルレアリストたちの体験していたことですね。総力戦というのは「国家」に属するすべてのものが戦争のために動員される状態で、人間だけでなく、事物までが「有用」であることを強いられる。
 だから「オブジェの危機」というのは、時代の危機のことも言っている。ファシズムにしろスターリニズムにしろ、国家総動員を求める体制にしろ、最も嫌うのはオブジェでしょう。「無用の物」の展覧会なんて、もってのほか(笑)。オブジェは体制ににとって危険なものですらある。オブジェのほうからすれば、二重に意味で「危機」にさらされているというのが、ブルトンのエッセーの題名の含みでしょう。(塚原文・巖谷國士ツァラvs.ブルトン――危機の時代の生き方」『ユリイカ』2016年8月号〔第48巻第10号〕p.59-60)

改めて表題作《foolproof》を眺めてみよう。ガードレールにスカートの裾を引っかけて転倒を免れた女性の右耳からはマスクが垂れている。ガードレールは一種の安全装置であり、題名の"foolproof"は「誤用されない設計」を指すが、ガードレールは本来的な役割を果たしていない。鼻や口を覆っていないマスクは、有用性から外れている、すなわち誤用されているのである。そこに合理性に対する皮肉を見て取ることは容易であろう。《foolproof》は、この点においても、シュルレアリスムの作品と評することができる。

さらに、《foolproof》ガードレールが「ウチ」を、そこから外れた場所を「ソト」とするなら、次の記事が示すような、「ウチ」と「ソト」との関係において、屋外においてもマスクを外せない日本社会の諷刺と解することもできそうだ。

 新型コロナウィルス自体に、国ごとの違いはないが、「対応面では、時間がたつにつれ大きな違いが出た。日本は、感染リスクへの恐れが相対的に弱まらず、必要か怪しい対策を継続してきた。その象徴が、外せないマスクだろう。
 日本では国など「上」の求める対策よりも強い反応が、草の根から生成されがちだ。明確に決めたものでもないから、やめどきがわからない。(略)
 日本は、集団の「ウチ」と「ソト」の意識が強い。職場で高性能マスクを使う医師も、内輪の飲み会では大声でしゃべることがある。そして、リスク意識は、「ウチ」が「ソト」と触れる場面で強くなる。(略)
 ある看護師は「感染したら病院に迷惑がかかる」と話した。懸念の1つは、洞りょウンの負担増だけでなく、「感染を広めたと『ウチ』が『ソト』から批判されること」だ。こうして、「和をもって極端をなす」事態が続く。
 やり玉に挙がるリスクは選択的で、選ばれる理由が判然としない。近年、牛海面状脳症(BSE)や子宮頸がんなどを防ぐヒトパピローマウィルス(HPV)ワクチンなどでも過剰反応があった。いずれも場当たり的な台頭が取られたが、対応の有効性や問題点についての議論は広がりにくい。
 (略)
 餅をお年寄りが食べるときは、家族が注意して見たり、小さく切ったりすることもあるだろう。こうしたほどほどの対策で、さまざまなリスクと付き合うのが妥当だ。と言ったところで、特定のリスクだけをゼロにしようと暴走する日本のくせは止まらんない。(磯野真穂〔聞き手:鈴木英生〕「日本のゼロリスク文化 「ソト」の批判を懸念する「ウチ」『毎日新聞』2022年11月4日9面)